東トルキスタン暴動にダイチングルンを思う

 と言うワケで、今回再開を思い至ったのも、先日来ニュースを騒がせている東トルキスタン暴動…というか、日本ではウイグル暴動と称されるコトが多い暴動を見ていてだったり…。

 サミット出席中の国家主席がドタキャンで帰国という、面子丸つぶれの結果を及ぼした暴動に対して 共産党は例の如く、分裂主義者達によるテロ行為と言うコトにしている。まあ、共産党からするとそう言うことになるのだけれど、そもそも中華人民共和国東トルキスタンの領有を主張するのは、清代乾隆帝十全武功と称した外征の一環として、宿敵ジュンガル部を潰滅に追い込んでその勢力圏を奪取したから…なワケだったりする。そもそも、新疆ウイグル自治区に残る、新疆というネーミング自体、新たなる境域=新領土という意味でしかない。ダイチングルン崩壊後、その旧領を中華民国が継承し、更に国共内戦に勝利してその旧領を中華人民共和国が継承した…とする大前提があって始めて中華人民共和国東トルキスタンの領有を主張できるのだ。

  一言にダイチングルンの旧領と言っても、地域地域によって統治の仕方が異なっていたらしい。故地である満洲は時期によって異なるモノの、奉天将軍吉林将軍黒龍江将軍を置いてマンジュグルン以来の軍政を継続させた。の旧領には各省に巡撫、また数省を管轄する総督が置かれた。明代からの変更は戦時に於ける臨時の官職とされた総督が常設されたくらいで、実質は明代の旧制をそのまま施行したと言って良い。この二つの地域はダイチングルン直轄領と称して差し障りが無く、皇帝専制の強制力が強い。しかし、直轄領と異なり、外藩部として統治されたチベットモンゴル東トルキスタンは、辺境防備のために進駐軍を配したとはいえ、基本的には当地の実力者を官爵に封じており、平時の実情は間接統治と考えて差し障りはない(これに雲南あたりを加えると更にややこしくなるので割愛)。
  チベットダライ・ラマを頂点とした政教一致の宗教国家が已然として存在しており、仏法の守護者たる文殊皇帝としてダイチングルン大施主皇帝の統治を受け入れ、モンゴルは已然として遊牧生活を営みつつ、大元ウルス大ハーンの後継者たるダイチングルン大ハーン皇帝の統治を受け入れ、東トルキスタンでは異教徒ながらイスラーム法の守護者としてダイチングルン皇帝を受け入れた。
 しかし、ダイチングルンの勢力が衰えると、朝廷では漢族有力者を用いて立て直しを図ったため(洋務運動にしろ変法運動にしろ、主体は漢族であった)、次第に外藩部ではダイチングルンの支配を受け入れていた要因自体が薄れていった。
  清末には東トルキスタンではイスラーム教徒の叛乱が起こり、それに乗じてイギリスの影響下にあるコーカンド・ハン国の軍人=ヤクブ・ベク東トルキスタンに侵攻すると、東トルキスタンの放棄さえ議論された。しかし、ヤクブ・ベクダイチングルンが派遣した塞防派左宗棠に一蹴されると、一気に叛乱は鎮圧された。叛乱鎮圧後は、理藩院に属していた東トルキスタンの統治を、新疆省を設置してこれに移管して直轄領とした。以後、新疆省巡部など主要な役職は漢族によって占められることになる。
 で、間もなくダイチングルンが滅亡し、中華民国が成立するや否や、モンゴルチベット中華民国宗主権を認めずこぞって独立を表明し、それぞれロシアイギリスを頼って実質的な独立状態を保った。

 と、後はややこしくなるのでココで一旦切るとして、要するにモンゴルチベットも、ダイチングルンによる支配は受け入れたとしても、漢族による支配は受け入れない!と中華民国の成立時期に表明しているのだ。東トルキスタンにしても、ヤクブ・ベクの政権が瓦解していなければ、イスラーム教徒の叛乱が鎮圧されていなければ、同じようなコトを表明していただろう(チベット、モンゴルに比べて求心力に欠けており、統一性に欠けていたため小勢力に分裂していたかも知れないが…)。
  辛亥革命のスローガンも滅満興漢と言うぐらいなので、実は清末革命派外藩部の領有には殆ど関心がなかったようで、中華民国建国期のドタバタで急に決まったようなコトなのだ。

 と、ダイチングルンの歴史と清末から中華民国成立期旧外藩部の動向を知らないことには、今日何でチベット東トルキスタンで暴動が起こるのかは分かり辛い。少なくとも、暴動を起こした!とされる側には、漢族に支配される謂われはなく、ダイチングルン滅亡後に火事場泥棒的に掠め取った宗主権領有権でしかない!と捉えているのだと思う。もっとも、辛亥革命から百年、国共内戦終結から五十年が経過していて、もはやダイチングルンの統治云々だけで全て説明できる問題ではなくなってはいるんだけど…。

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