本屋を歩いていたところ、見慣れた唐人〈唐人宮楽図〉1を表紙にした絵があったので手に取ってみたところ、南條竹則『飽食終日宴会奇譚』日本経済新聞出版社 だった模様。早速購入。またぞろ中華の宴会料理を飽食するという内容。しかも、一章一宴会らしく、旨そうな料理が目白押しです。すさまじく手間をかける中華料理の中でも宴会料理がメインなので、レシピ的な読み方は期待できませんが、とにかく出てくる料理が全部旨そうで頭がくらくらします。お腹すいたときは読まない方が無難です。
で、美味しそうな料理の合間に乾隆帝の記事も何個かあったのでとりあえずメモ。
孔府のもやし料理は有名で、中には「醸豆莛」という、もやしの中に餡を詰める、恐ろしく手間のかかるものもあるそうだ。しかし、一番よく知られている「油潑豆莛」は、単なるもやし炒めである。
『中国名菜精萃』によると、ある時、乾隆帝が孔府へ来て食事をしたが、どうも食がすすまない。それで、おそばに控えていた衍聖公が料理人を呼び、食欲が出てお腹にももたれない料理を何かこしらえるように命じた。
料理人は緑豆もやしに花椒を少し加え、油で炒めて出したところ、皇帝はお気に召して、「悪くない。こんな料理は初めて食べる!」といった。以来、これは孔府の名菜となったのだそうな。
続いて来た「金香白玉板」は、軽く揚げた豆腐を白玉に見立てている。ふつうは「金鑲白玉板」とかく場合が多い。
これも乾隆帝ゆかりの料理だ。
ある時、乾隆帝がお忍びで田舎を歩いているうちに、お腹がペコペコになり、農家で夕飯を食べさせてもらった。家の人はこの素朴な豆腐料理を出したが、空きっ腹にまずいものなしで、皇帝はたいそう喜び、「この料理は何という名前か」ときいた。
家の人はただの豆腐というのが恥ずかしいので、「金鑲白玉板(金を嵌めた白玉の板)でございます」とこたえたというのだ。
乾隆帝は幾度も北京の都から江南へ行幸したが、小説や言い伝えの世界では、水戸黄門のように各地をお忍びでめぐり歩いたことになっている。そうしてあちらこちらに、この皇帝と食べ物にまつわる話がある。豆腐ももやしも、乾隆帝の膳にのぼれば名菜になってしまうのだから、大したものだ。2
何というか、いかにも乾隆帝っぽい話。そこら中に目黒のサンマがうようよしているわけです。
最近作では割に迷走しているイメージがあったのですが、またでふ先生の美味しそうな記事に巡りあえて幸せです。とりあえず、美味しい宴会料理を食べるように味わって読みます♪また渋谷の中華料理屋に行きたくなりましたよ。
と言うワケで、落合淳思『古代中国の虚像と実像』講談社現代新書 を読了…。まあ、予想通りサラッと読める本ではありました。
どういう本かというと、金文偉い!二次文献資料カッコワルイ!と言う、発掘ブームに沸く中国の世相を反映した最近の学会の風潮をデデーンと主張してる本です。まあ、文献資料でも古い時代に書かれたモノに価値があり、数百年経ってから書かれたモノにはあまり価値がないというスタンスですね。
言わんとしていることはわかるものの「密室で会話されたとするモノが史書に書かれているのがそもそもおかしい」という類の事例を押し並べて「だからこの話は作り話だ!」という感じでガンガン断定していくのはどうかと…1。史書に書かれている”史実”は、そのまま当時起きた”事実”とは違うのは…、何というか今更ご高説垂れて貰うまでもなく常識の範疇ではないかなぁ…とも思うんですけどねぇ…。せいぜいが「密室で行われたことが外に漏れる可能性は極めて低いので信憑性には欠けるモノの、後世の史家及び当時の市井の人々が納得する説話であった」とする方がいいと思うんですけどねぇ。それならば一番わかりやすい四知でも例に出せばいいのに…と思うんですが…。
大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史﹑東萊太守.當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震.震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者.」震曰:「天知,神知,我知,子知.何謂無知!」密愧而出.後轉涿郡太守.性公廉,不受私謁.子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」2
まあ、有名な話なので楊震、四知とでも検索すれば意味は出てくると思います。要するに、要職にあった楊震の元に夜半、王密という人が任官の便を図って貰おうとして、賄賂を持って行ったところ楊震は受け取らず、王密が「今は夜ですし知っている人もいません」と促すと「天知る地知る我知る君知る…なんで誰も知らないと言うことがあろうか!」といったという説話ですよね。
本当にこのことを知る人がいなかったのなら、この話は史書に載ることなく二人だけの秘密になったはずですが、史書に残されているところを見ると楊震が恐れていたように誰かに見張られていたのか、恩を感じた王密が喧伝したのか、改心のディベートを楊震自信が吹聴して回ったのかいずれかですよね?史書にはママどうしてこの話が伝わったんだろう…という話は多くあります。こういうのを一つ一つあげつらって「作り話だ!」というのは…ナンセンスだと自分は思うんですけどねぇ…。むしろ、当時その説話が事実だと信じられた…もしくは史書を書いた人物にとっては事実だと信じ…そして後世の人も事実だと信じた…という社会的な側面の方が中国史では特に留意すべきだと思うんですが…。信憑性が薄いというのであれば同意するんですけど、信憑性が薄い=作り話であるというのは些か飛躍のしすぎだと思うんですが…。この辺、一般書だから敢えて強調したかったのかも知れませんが、ちょっと飛躍しすぎのような印象を受けました。
で、文学と史学が未分化の状態とよく言われる《史記》や、あの平勢氏によるとプロパガンダだと言われる《春秋左伝》も、事件の数百年後に書かれた史書で信用に値しないとか書かれていますが…。この論法で行くと《史記》の武帝朝の記述は同時代資料として全面的に信頼が置ける文章と言うコトになるでしょうし、《春秋左伝》も比較的記事の新しい部分については作為が少ないといえることになるんでしょうけど、その辺についてはスルーですね…。こういう人が見落とすのは、「一次資料も同時代資料も、二次資料や後世の資料同様嘘をつくし、完全な事実を述べない」と言うコトですね。むしろ、社会的な制約のある一次資料の方が禁忌に触れて書けないこともあるはずですから、扱いには十分注意が必要なはずです。
あと、《孫子》については、いろいろ根拠をあげて《孫子》が春秋時代の孫武の著作ではない根拠をあげています。その中で孫武が呉で活躍したのが事実ならば、海上戦に関する記述がないのはおかしい…と書かれてます3。むしろ戦国時代に書かれた兵書なら、一般的に言われているように、何故攻城戦の記述がないのか?と言うコトにも答えないと断言はできないはずなんですけどねぇ…。
それに《史記》では、孫武は斉の出身で、元々『孫子兵法十三篇』が評判だったために闔廬に謁見したように読めるんですが4、自分の漢文力がないから呉に行ってから《孫子》を書き上げたように読めないのか…それとも最近の研究で《史記》の孫子呉起列伝が否定されているのかは知りませんが、どうして海上戦の記述がないことが《孫子》の偽書疑惑の根拠になるのかさっぱりわかりません…。この部分に関しては平勢氏同様の胡散臭さを感じるのが残念ですねぇ…。
面白かったのが、やっぱり専門の甲骨文と、平勢氏完全否定のところだけだったのが残念でしたが…。
今日も去年、2008年11月に北京に行った際の写真のお蔵出し。昨日は意外と長い文章になったので今回はサラッと。
これ撮る時に派手に転んで同行者たちをドン引きさせました
今回は燕京八景の瓊島春陰。金・章宗の頃からいわれ出した1名所のキャッチフレーズに、清・乾隆帝が乗っかって文句を代えたり場所を変えたりしたわけです。
横にも何か掘ってます
ちなみに明昌年間と乾隆年間の燕京八景は以下の通り。
■明昌年間■
1:太液秋風 2:瓊島春陰 3:道陵夕照 4:薊門飛雨 5:西山積雪 6:玉泉垂虹 7:盧溝暁月 8:居庸畳翠
■乾隆年間■
1:太液秋風 2:瓊島春陰 3:金台夕照 4:薊門煙樹 5:西山晴雪 6:玉泉趵突 7:盧溝暁月 8:居庸畳翠2
文句の異同があるのは三カ所、場所の異同があるのは一カ所ですね。ちなみに道陵は章宗の陵墓です。整備された絶景だったようですが、明代に万暦帝が女真族の末裔たる満洲族に対する報復として道陵を破壊させたので、乾隆帝の選からは外れています。いたたまれない話ですが、ドルゴンが北京入城する際に道陵破壊の報復として、万暦帝の定陵の地上部分を破壊されたようです。因果応報ですね…
聳え立つ感じで素敵です
で、現在立ち入りを禁止されている箇所を除いて、燕京八景の石碑巡りでもしたいナァ…と考えていたら、ググるともうやっておられる方がおられました…。
この際の北京旅行ではできるだけこの石碑を巡ろうと思いつつ、結局地下鉄10号線 金台夕照駅に近い金台夕照にすら行けず、瓊島春陰のみになってしまったわけです。せめて太液秋風くらいは遠景から眺めたいと思ったのですが、団体行動を乱すわけにも行かずこれも断念…。
ちなみに瓊島春陰の石碑は北海公園内の以下の場所にあります。
と言うワケで、2008年11月に北京に行った際に観光した場所の第二段。このときの旅のテーマである普度寺=叡親王府です。
結構見かけない様式の建築
で、この普度寺、元々明代には皇城東苑とか小南城とか言われておりました。皇太子が居住する重華宮という宮殿だったようですね。有名なところでは土木の変後、北京に送還された正統帝がこの宮苑の敷地内にあった崇質宮で景泰帝に幽閉されたとか言われてます。まあ、天順帝になってまた皇城に戻るわけですけど。
あんまりかっこよくないドルゴン像
で、清初には叡親王・ドルゴンが重華宮を府邸を定めました。大体、世襲鉄帽子王家でも北京内城に府邸を置くことはあっても、ドルゴンのように皇城内に府邸を置くことはその後もありませんでした。北京に入場した際に一時的に武英殿で玉座についたというのも肯けますね。ドルゴンが執政した当時は夜になっても車馬が絶えることが無かったと言います。
民家一つ分高い基壇の上に建ってます
で、どの文献を見ても「叡親王府は土台が高く、宮城が見渡せた」という類のことが書いてあるんですが、今ひとつピンと来なかった訳です。ちなみに、この高台が皇城と秘密の通路でつながっている…という類の伝説もあるみたいですね。その通路を通ってドルゴンは紫禁城と叡親王府を行き来したとか言うコトになってるみたいです。
車と比較すると基壇が相当高い
ご存じの通り、ドルゴンは齢三十九という若さで狩猟中に死去した後、順治帝により大逆の罪に問われて叡親王家の王位は剥奪されて、皇籍からも抹消されました。
山門の中が叡親王府と普度寺関連の展示室です
この時、府第も没収されたのですが、一時は皇帝と同様に義宗という廟号までドルゴンは追号されていますから、その後王府は再利用されることは無く、次第に荒れてゆきました。
で、順治帝の短い治世が過ぎて康煕帝の御代になると、元々冤罪であったドルゴンの名誉回復が行われ、次いで叡親王府跡もモンゴルから招来したマカカラ仏=大黒天を祀る嗎噶喇廟に改装されました。
マカカラ仏の残骸らしきモノの展示
更に乾隆年間に修築されて嗎噶喇廟は普渡寺もしくは普度寺と改称されます。ちなみに《乾隆京城全図》1では啞滿逹■嘎廟2となっています。
使い勝手良すぎ今の学生恵まれすぎ
おそらく、普度寺に改称される前の地図なんでしょうけど、嗎噶喇廟と音通…と言いたいけど言えないような字面ですね…。それにしても、ディジタル・シルクロードが公開している《乾隆京城全図》のGoogle Earth版=古都北京デジタルマップの使いやすさは異常です。
ちなみにドルゴンは鑲八旗の旗王です
《日下旧聞考》3によると、乾隆年間の普度寺にはマカカラ像とともにドルゴンの遺品(武具など)が安置されていたようです。その後、国家の庇護の元、清末まで普度寺は広大な境内を所有しつつ、《天咫遇聞》4によると、マカカラ像らしき仏像とドルゴンの遺品とともにかれの護衛兵というかバートルの像も残っていたという記述があります。
おされシティー
しかし、さしもの普度寺も辛亥革命後は廃れていきます。中共成立後にはついに南池子小学校の校舎として使用されたようです。文革の被害とも無縁ではなかったはずです。少なくとも1980年代には辿り着くのも難しい様なごちゃごちゃとした胡同の中にあったようで、中の建築はお世辞にも良い保存状態ではなかったようです5。
北京税務博物館(月曜休館)
その後、1990年代の改革開放とともに徐々に整備され、2007年05月16日に北京税務博物館として一般公開されるに至ったわけです6。自分が行った時には周りも景観区としてかなり整備されいて、迷うかと思ってビクビクしながら探したら意外にも一発で発見できました。…もっとも、定休日で北京税務博物館として解放されている本殿には入れませんでしたが…。
看板ドーン!
正直、叡親王・ドルゴンに思い入れが無い人にお勧めできるほどすばらしい観光地ではないのですが、ドルゴンと聞いてピンとくる方は是非訪問してはいかがでしょうか?タダですし…。
本殿の基壇自体も高い
と言うワケで、困ったときのお蔵出し。去年の11/24に北京に行った際の写真でお茶濁してみます~。
観光スポットが星の数ほどある北京。最近は経済発展に伴いナイトスポットもじゃんじゃか開発されてますからワザワザお化けが出そうな場所に行く人もいないと思いますが、なかなか良い感じのスポットです。ただ、街灯まばらで結構ビクビクしながら現地に到着しました。いや、賑やかな場所から外れている割に、容赦なく真っ暗で驚きました。
ただ、城門がライトアップされていて幻想的なこの雰囲気には何も代え難いですねぇ…。まるで暗闇の中にポツンポツンと明かりが灯ってる様はまるでドラマの中のようです。文化遺産の中でご飯が食べられると思うと、なんかワクワクしますね…。日本ならあんまりこういうところ無いでしょうけど。
まあ、夜の北海公園内に入ろうと思うと、要予約の方膳飯荘に食事に行く!という条件があるわけです。で、その方膳飯荘ですが…売り物の満漢全席?は正直、普通の中華料理のコース料理でしたし、不味くはないモノの目から鱗が落ちるほど美味しいモノでもない訳ですが、夜の北海公園を歩けると言うだけでもなかなか乙な経験でした。自分一人だけならまず、予約とかめんどくさいコトしなかったでしょうしねぇ~。