歴代帝王廟

 と言うワケでどうも。長らく更新サボってました。何というコトは無く、ただTwitterで事足りてたので更新が滞っていただけなんですが…。
 ここのところ、ツラツラ『アジア遊学 契丹[遼]と10~12世紀の東部ユーラシア』勉誠社を読んでました。何せ島田正郎『契丹国―遊牧の民キタイの王朝』東方選書以来の纏まった一般流通する本なので。で、その中で「清人の見た契丹」と言う章で歴代帝王廟について触れているのに興味が引かれたので、今日はこのネタを書いてみようかと。気にはなってるモノの未だに行ったことが無い北京の観光スポットなんですよねぇ。


 中華王朝のアイデンティティは正閏論として長い歴史があり、その王朝がどの王統を継承しているのか?というのは、存外バカに出来ない問題だったりします。中国における歴史とは政治だと言い換えても良いくらい、当時の世相を反映していますから当然当時の情勢とは無関係ではありません。所謂中国東北地区と朝鮮半島の境界線に存在した王朝なんかは、未だに歴史的王朝の系譜が取りざたされたりするわけで、死に絶えた学問ではない当たり頭が痛い部分もありますが興味深いですね。
 さて、正閏論で有名なのは南宋・朱熹が三国時代の分裂状態の中から後漢の禅譲を受けて成立した曹魏ではなく、何千有るか分からない分家が存在する劉氏の末裔を称した蜀漢を正統としたあれですね。実態とは乖離してる上に、理念的にも蜀漢が滅亡した後、西晋に王統が引き継がれるというのは飛躍してると思います。これも、領土の北半を金に奪われた南宋の正当性を理念的に主張するためだとも言われています。正直、正統も何も実効支配すれば後から方便は付いてくるんじゃ無いの?とは思うモノの、現在でも契丹[遼]、金、大元ウルスがメインストリームから外れた歴史だという歴史観が幅をきかせてますから、案外効果はあったみたいですね。
 まぁ、実は明代はこの辺りはあまり問題視されなかったようです。ついでに言えば、南北朝の正閏論についてもスルーですね。しかし、モンゴルの支配を覆して中国大陸を支配した大明だけに、契丹[遼]、金、大元ウルスに関しては徹底的にこれを排除して大明は宋の王統を嗣いだ!と言うコトにしたみたいですね。唐の崩壊後、大雑把に五代→北宋→南宋→大元ウルス→大明という感じに継承される唐宋変革が問題とされるストリームです。明代初期に当時の首都・南京に建てられた歴代帝王廟には、三皇五帝から元・世祖=クビライまで祀っていたそうですi。。契丹[遼]や金の皇帝はガン無視を決め込んで、徹底的に異民族支配の記憶の痕跡を抹消しようとしたようですが、流石に大元ウルスが中国大陸を支配した事実は認めないわけにも行かなかったみたいですね。嘉靖年間に入るとタタールと所謂倭寇と称される海賊…北虜南倭に悩まされた事でそれすら嫌になったらしく、南京に置き去りになっていた歴代帝王廟を嘉靖10(1531)年に北京に誘致した際には明初と同じ顔ぶれだったようですが、創建13年後の嘉靖24(1545)年には元・世祖=クビライは祭祀を取りやめたようです。他にも合祀されていたムカリ、ボロクル、ボオルチュ、チラウン、バヤンの祭祀を取りやめたみたいですね。モンゴル関係の人々はこの時に祭祀を取りやめたまま、大明は滅亡します。
 で、大清の入関後すぐさま順治元(1644)年、これに明・太祖を加えます。大清が大明の後継国家だという事をことあるごとに喧伝したという事は、この面からもうかがえますね。さらに翌順治2(1645)年に契丹[遼]太祖、金太祖、金世宗、元太祖を加えます。この時にムカリとバヤンも功臣として合祀が復活してます。これが何を意味しているかというと、大清は大明を後継しただけではなく、唐滅亡後に契丹[遼]→金→大元ウルス→大明という感じに継承される、征服王朝が問題とされるストリームをも継承したという宣言です。国初は後金(アマガ・アイシン・グルン)として、金の後継国家を謳い、その後、大元ウルスの伝国の玉爾を得たことでモンゴル・ハーンとして即位してるわけですから当然ですね。更に順治8(1651)に順治帝が親政を開始する際に各地の帝王陵墓へ官僚を派遣して祭祀を行ったようですii。この際にも契丹、金、大元ウルスの帝王も祀ったようです。しかし、その後、理由はよく分からないものの、順治17(1660)年に契丹[遼]太祖、金太祖、金世宗、元太祖が祭祀から外されています。功臣の中から除外されたのは北宋の潘美と南宋の張浚なのでこれも謎ですねiii。この時には守成七帝ivが順治帝の肝いりで増祀されています。それまで創業の君主が祀られていた歴代帝王廟の性格がここで変化したわけですね。契丹、金、大元ウルスの皇帝が祭祀から外されたのは、彼らの治世では天下が治まってはいなかったので、その他の帝王には及ばないという理由のようですがv正直ピンと来ませんからよく分かりません。
 よく分からないながらも、順治帝没後、康煕元(1662)年には、歴代帝王廟の祭祀リストの見直しがされ、契丹[遼]太祖、金太祖、金世宗、元太祖の祭祀が復活し、反対に守成七帝が祭祀から外されて神牌が歴代帝王廟から撤去されています。また、歴代帝王廟は創業の君主だけを祀る廟に逆戻りですね。順治帝の親政に関連する対立があったように見えてしまうのは自分が穿ちすぎてるんですかね?ちなみに歴代帝王廟のサイトで引用している《清世祖実録》には、この辺りのゴタゴタが紹介されていますが、自分の手元にある乾隆年間の欽定北京ガイドブックであるところの《日下旧聞考》の歴代帝王廟の項ではこの辺バッサリ切られてますね。

国立国会図書館デジタル化資料 清三朝実録採要 八巻49/64コマ より部分摘出

国立国会図書館デジタル化資料 清三朝実録採要 八巻49/64コマ より部分摘出


 そして、康煕60(1721)年、康煕帝が歴代帝王廟の祭祀リストの見直しを思い立って整理を命じたモノの志半ばで康煕帝が崩御し、康煕61(1722)年にその遺言を雍正帝が守ると言う形で、歴代帝王廟の祭祀リストが抜本的に改革されます。守勢七帝が撤去された後は創業の君主だけを祀っていた歴代帝王廟が、守成の君主も含むようになって、祭祀対象者も倍増されます。ここで北宋諸帝の前に契丹[遼]太宗、景宗、聖宗、興宗、道宗の神牌が置かれ、南宋諸帝の後に金太宗、章宗、宣宗の神牌が置かれましたvi。ちなみにこの際も、後漢は桓帝、霊帝の後に昭烈帝=蜀漢・劉備の神牌を置いて、その後すぐに唐・高祖=李淵の神牌が来る構成になっていたようです。要するに魏晋南北朝ブッタ切りですね。更に、明代は万暦帝、泰昌帝、天啓帝の三人は国を滅ぼしたとして祭祀に含めず、代わりに国を滅ぼしたのは崇禎帝の責任ではないという判断で崇禎帝は祭祀に含めたようです。この時に功臣の祭祀も大幅に増えたのですが、何故か蜀漢・趙雲が入ってますね。他の人と見比べても明らかに浮きまくりです。このリスト自体は康煕帝の意見がかなり反映されたようなので、三国演義の影響を疑いたくなります。趙雲、諸葛亮が入っていて関羽が入っていないのは、おそらく明代から武成王=太公望に代わって国家祭祀されるようになったからなんでしょうね。
 最後にやはり、乾隆帝の出番です。まず、乾隆元(1736)年、即位後すぐに明・建文帝を祭祀のリストに加えています。なんか、共感するところがあったんですかね。その後、乾隆27(1762)年に歴代帝王廟を重修した際には、青と緑の瑠璃瓦であった歴代帝王廟の瓦を、黄色の瑠璃瓦に改めて格を上げてます。更に、乾隆49(1784)年に《四庫全書》の《大清通礼》viiを読んでいた際に、理屈に合わない表記があったと言うので、思い立ってリストを作り直しています。ちなみに、後漢の桓帝、霊帝の神牌を撤去し、代わりに東西晋、北魏、前後五代(劉宋、南斉、陳、後唐、後周)viiiの二十一人の帝王を祭祀リストに加えたようです。歴代帝王と言っても単純に即位した皇帝を全て祀ったわけではないんですね。その時代ごとの価値観で加えたり削ったりしたようです。
 ちなみに、南京の歴代帝王廟には歴代帝王と功臣の塑像が飾られていたようで、演劇の題材にもなったようですねix。北京の歴代帝王廟は神牌という表記で分かるように位牌が置かれていただけみたいです。軸に書いた画像くらいはお供えしたんじゃないかとは思うんですが、その辺はよく分かりません。

 で、最後に歴代帝王廟の祭祀リストに最終的に残った人達のリスト載せておきましょう。

三皇→太昊伏羲氏 炎帝神農氏 黄帝軒轅氏
五帝→帝少昊金天氏 帝顓頊高陽氏 帝嚳高辛氏 帝堯陶唐氏 帝舜有虞氏
夏→禹 啓 仲康 少康 杼 槐 芒 泄 不降 扃 廑 孔甲 皋 発
殷(商)→湯 太甲 沃丁 太庚 小甲 雍已 太戊 仲丁 外壬 河亶甲 祖乙 祖辛 沃甲 祖丁 南庚 陽甲 盤庚 小辛 小乙 武丁 祖庚 祖甲 廩辛 庚丁 太丁 帝乙
周→武王 成王 康王 昭王 穆王 共王 懿王 孝王 夷王 宣王 平王 桓王 荘王 僖王 惠王 襄王 頃王 匡王 定王 簡王 霊王 景王 悼王 敬王 元王 貞定王 考王 威烈王 安王 烈王 顕王 慎靚王
前漢→高祖 惠帝 文帝 景帝 武帝 昭帝 宣帝 元帝 成帝 哀帝
後漢→光武帝 明帝 章帝 和帝 殤帝 安帝 順帝 沖帝
蜀漢→昭烈帝
東晋→元帝 明帝 成帝 康帝 穆帝 哀帝 簡文帝
南北朝→劉宋:文帝 孝武帝 明帝 南斉:武帝 陳:文帝 宣帝 北魏:道武帝 明元帝 太武帝 文成帝 献文帝 孝文帝 宣武帝 孝明帝
唐→高祖 太宗 高宗 睿宗 玄宗 粛宗 代宗 德宗 順宗 憲宗 穆宗 文宗 武宗 宣宗 懿宗 僖宗
五代→後唐:明宗 後周:世宗
北宋→太祖 太宗 真宗 仁宗 英宗 神宗 哲宗
南宋→高宗 孝宗 光宗 寧宗 理宗 度宗 端宗
契丹[遼]→太祖 太宗 景宗 聖宗 興宗 道宗
金→太祖 太宗 世宗 章宗 宣宗 哀宗
大元ウルス(モンゴル)→太祖 太宗 定宗 憲宗 世祖 成宗 武宗 仁宗 泰定帝 文宗 寧宗
大明→太祖 惠帝 成祖 仁宗 宣宗 英宗 景帝 憲宗 孝宗 武宗 世宗 穆宗 愍帝
 王莽、隋煬帝、北宋徽宗当たりが抜けてるのはしょうがないにしても、秦始皇や隋文帝はおろか、魏晋南北朝や五代で王朝ごとすっぽり抜けてるところが結構あるんですな。

(東)→東廡の功臣(西)→西廡の功臣
三皇→(東)風后 倉頡(西)力牧
五帝→(東)夔 伯夷(西)皋陶 竜 伯益
殷(商)→(東)伊尹 傅説(西)仲虺
周→(東)召公奭 畢公高 召穆公虎(召穆公) 仲山甫(西)周公旦 呂尚 呂侯 方叔 尹吉甫
前漢→(東)張良 曹参 周勃 魏相(西)蕭何 陳平 劉章(城陽景王) 丙吉
後漢→(東)鄧禹 耿弇(西)馮異 馬援
蜀漢→(東)諸葛亮(西)趙雲
唐→(東)房玄齢 李靖 宋璟 郭子儀 許遠 李晟 裴度(西)杜如晦 狄仁傑 姚崇 張巡 李泌 陸贄
契丹[遼]→(西)耶律曷魯
北宋→(東)曹彬 李沆 王曾 富弼 文彦博(西)呂蒙正 寇準 范仲淹 韓琦 司馬光
南宋→(東)李綱 韓世忠 文天祥(西)趙鼎 岳飛
金→(東)宗翰(メネガ)(西)赫魯(斡魯、オル) 宗望(オルブ)
大元ウルス→(東)穆呼哩(ムカリ) 博果密(不忽木、布呼密 ブクム?)(西)巴延(巴顔 バヤン) 托克托(トクト)
大明→(東)徐達 常遇春 楊士奇 于謙 劉大夏(西)劉基 李文忠 楊栄 李賢
 こちらは聞いたことも無いような人が目白押しですね。間違っているところがあったらご指摘下さい。夔とか竜はホントに功臣なの?と不安デス。一応、《日下旧聞考》は確認しましたが…。

参考:
歴代帝王廟サイト内 歴代帝王廟大事記
『契丹[遼]と10~12世紀の東部ユーラシア』勉誠社 「清人からみた契丹」
《日下旧聞考》北京古籍出版
国立国会図書館デジタル化資料 清三朝実録採要 第8冊
『都市芸研』第八輯/「明太祖遊武廟」物語の成立と展開
《北京古建築地図 上》精華大学出版社

  1. 具体的には三皇=伏羲・神農・黄帝、五帝=少昊・顓頊・帝嚳・堯・舜、三王=夏禹王・商湯王、周武王,漢高祖、漢光武帝,唐太宗、宋太祖、元世祖 [戻る]
  2. 三皇五帝、殷3名、周3名、前漢3名、後漢 光武帝、北魏 孝文帝、唐4名、後周 世宗、契丹[遼] 太祖、北宋 太祖・太宗・真宗・仁宗、金 太祖・世宗、元 太祖・世祖、明 洪武帝・宣徳帝・弘治帝・嘉靖帝 [戻る]
  3. 潘美は《楊家将演義》の奸臣・潘仁美のモデル。祭祀から外された原因は楊業親子を見殺しにしたこととなっている。張浚は張俊と間違われたのでは?とも思うものの、李綱を弾劾して岳飛から兵権を奪い、岳飛と韓世忠の国家祭祀を認めなかったことが原因とされている模様。ちなみに、張浚ではなく張俊は《説岳全伝》では奸臣として登場する。いずれにしても、楊業と岳飛という宋代の救国英雄と対立したことが問題視されている点が共通している。 [戻る]
  4. 殷 中宗=太戊、高宗=武丁、周 成王、康王、前漢 文帝、北宋 仁宗、明 弘治帝の七帝 [戻る]
  5. 遼太祖、金太祖、元太祖原未混一天下,且其行事亦不及諸帝王,不宜與祭,著停止。 国立国会図書館デジタル化資料 清三朝実録採要 第8冊 [戻る]
  6. と、「清人のみた契丹」には書かれているが、《日下旧聞考》には北宋南宋の次に契丹[遼]、金の順でリストアップされている。根拠があるのかも知れないので、今のところ保留。 [戻る]
  7. 検索したら驚くことにデータがあったので紹介しておく→早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 大清通礼 ちなみにココのデータベースは他にも漢籍のPDFデータが多数あってオススメ [戻る]
  8. 東西晋と北魏はともかく、前後五代がよく分からないので調べて見た。《日下旧聞考》巻五十一 城市 内城西城二 によると、この時増祀されたのは東晋 元帝、明帝、成帝、康帝、穆帝、哀帝、簡文帝、劉宋 文帝、孝武帝、明帝、南斉 武帝、陳 武帝、宣帝、北魏 道武帝、明元帝、太武帝、文成帝、献文帝、孝文帝、宣武帝、孝明帝、後唐 明宗、後周 世宗。東西晋(と言いつつ東晋しか含まれていないのだが)、北魏を除くと、劉宋、南斉、陳、後唐、後周の五代と言うコトが分かる。五代十国の五代ではないことに注意。 [戻る]
  9. 『都市芸研』第八輯/「明太祖遊武廟」物語の成立と展開 参照 [戻る]

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