康煕帝諸皇子の王府2

  ……とまぁ、前回の記事で書いたように、雍正年間に消えてしまった王府については調べようがないんだろうなぁ…等と考えていたわけですが、ふと思い立って”廉親王府”と言うキーワードで検索してみたところ…意外にも引っかかりましたね…。しかも、直郡王府固山貝子允禟府敦郡王府のことも記載があります。

穿越步步驚心 踏尋阿哥們住的地方(組圖)
穿越步步驚心 踏尋阿哥們住的地方(組圖)

 この記事も《歩歩驚心》の放送当時に書かれた記事みたいなので、おおよそ皆考えることは一緒みたいですね。…書いてあることは興味深いのですが、ビジュアル的には今ひとつ正しいかどうか判断出来ません。というか、九阿哥府邸のこのハイカラな建物は一体?なんでまた、《乾隆京城全図》の和親王府が赤線で引かれてるの?とか、よく分かりません。
 で、その後この頁の元頁と思われるところも検索して発見…。よく分からない写真はどうやら、上のサイトで勝手につけたモノみたいですが、廉親王府九貝子府(九阿哥府邸)は元からついてたみたいですねぇ…。

穿越大清步步驚心 踏尋阿哥們住過的地方
踏尋阿哥們住過的地方 廉親王府
踏尋阿哥們住過的地方 怡親王府
踏尋阿哥們住過的地方 恂郡王府
踏尋阿哥們住過的地方 理親王府
踏尋阿哥們住過的地方 九貝子府
踏尋阿哥們住過的地方 敦郡王府i

で、あまり出典には触れてないわけですが、九貝子府の所に

據《京城坊巷志稿》卷上116頁轉引自《嘯亭雜錄》記述:“恭親王府、貝子胤禟府,俱在鐵獅子衚同。”

 という出典が分かる場所があります。理親王府の所でも《京師坊巷志稿》と言う書名が出てきますね。…と言うワケで、今回は基本的に《京城坊巷志稿》に引用された《嘯亭雜錄》の記事の整理です。

 で、サックリ《嘯亭續録》を検索してみると、維基文庫にありますね。要はWikisourceなんですが。取りあえず、《嘯亭續録》の四巻に京師王公府第という項にサックリ書いてますね…。作者の昭槤ii嘉慶年間から咸豊年間礼親王だった人で…要するに宗室の人なのでかなり信憑性が高いですね。

◎京師王公府第
嚐閱吳長元《宸垣識略》記王公府第居址,實為苦心。然不知名位之先後,故多遺佚,今就所知者,開列於左。鄭親王府在西城大木廠。公巴爾堪宅在散子胡同。公敬文宅在石虎胡同。貝勒尚善宅在醬房胡同,今廢為木廠。公門度宅在細米胡同。貝子傅拉塔宅在背陰胡同。公德普宅在興隆街。貝子羅托宅在兵馬司胡同。公屯齊宅在幹石橋。貝子固爾瑪渾宅在轆轤把胡同。公劄爾哈齊宅在西斜街。貝子吳達海宅在乾麵胡同。公拜音圖宅俟考。禮親王府在普恩寺東。克勤郡王府在石駙馬大街,公諾尼宅在石駙馬大街。貝勒喀爾楚渾宅在太平湖,今為榮王府。順承郡王府在麻線胡同。貝勒杜蘭宅在扁擔胡同。公□□□宅在烏衣庫。謙郡王府在羊市大街。巽親王府在缸瓦市,今為定親王府。貝勒杜度宅在絨線胡同。敬謹親王府在東鐵匠胡同。貝子特爾祜宅在臭水河。貝子穆爾祜宅在宣武門內。貝子蘇弩宅在象房。貝子準達宅在宣武門西城根。貝子薩弼宅在老來街。公阿拜宅俟考。公塔拜宅俟考。饒餘親王府在王府大街,今為昭忠祠。貝子博和托宅在東江米巷。貝勒博洛宅俟考。公巴布□宅在西安門大街。武英親王府在東華門,今為光祿寺衙門。睿親王府舊在明南宮,今為緞匹庫,新府在石大人胡同。豫親王府在三條胡同。公賴慕布宅在燒酒胡同。肅親王府在玉河橋東岸。溫郡王府在理藩院大街。承澤親王府在太平倉。直郡王府在西直門大街。公常舒宅俟考。公高塞宅在板橋胡同。公葉布舒宅在兩兒胡同。公韜塞宅在菜廠胡同。裕親王府在台吉廠。恭親王府在鐵獅子胡同。直郡王府在於家井。理親王府在德勝門外鄭家莊,俗名平西府。理郡王府在王大人胡同。公永敬宅在興化寺街。公弘眺宅在豐盛胡同。公弘燕宅在蔣家房。公弘睦宅在喜雀胡同。誠親王舊府在官園,今為質親王府,新府在蔣家房。恆親王府在東斜街,今為惇親王府。公弘升宅在奶子府。淳親王府在玉河橋西岸。廉親王府在王府大街,今為昭忠祠。貝子允禟宅在鐵獅子胡同,今為和親王府。貝子允礻我宅在關防口。履親王府在東北小街。怡親王舊府在煤炸胡同,今為賢良寺,新府在朝陽門北小街。寧郡王府在新開路。貝勒弘昌宅在燒酒胡同。貝勒弘暾宅在蘇州胡同。恂郡王府在西直門大街。泰郡王府在扒兒胡同。愉郡王府在三轉橋西。果親王府在草廠胡同,今為端親王府。貝勒允禕宅在王府倉。貝勒允祜宅在南小街。貝勒允祁宅在北小街。諴親王府在大佛寺街。貝子弘午宅在取燈胡同。和親王府在鐵獅子胡同。定親王府在缸瓦市。貝子綿德宅在石虎胡同。糸盾郡王府在方家胡同。榮親王府在太平湖。質親王府在官園。儀親王府在長安街,係耿仲明宅。成親王府在淨業湖北岸,係明珠宅。慶親王府在三轉橋,係和珅宅。貝勒永基宅在西直門大街。惇親王府在北小街。瑞親王府在草廠胡同。iii

 ……ココまで来ると圧巻ですね。ともあれ、ワッと出されても何が何だかよくわからんです。ちなみに、清代王府の一覧と現在地というのもネットで見つけたりしてます☞北京清朝王府位置表。これはこれで労作なんですけど、結構古い本を参考にしてるみたいで情報が古いみたいですね。

 情報が多すぎて目的のためにはやや煩雑なんですよね…。なんで、今回は康煕帝阿哥達の王府を一個ずつ朱一新《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》北京古籍出版社 から引用してみることにしました。サックリ検索したところ百度百科王府の記事がわりと豊富にあったので、これもリンク張ってみました。自分意外に需要があるのかはなかなかわからんですけど。

01:直郡王府☞北京西城区西直門内前半壁街23号院

丁家井 井二。正黄旗漢軍都統署在焉。嘯亭續録‥直郡王府在丁家井。iv

 丁家井って言うのが《乾隆京城全図》見ててもどこかよくわからんです。しかし、どうやら直郡王府遺構が敷地内にある!と言うのを売りにしたホテルがあったらしく、これも検索したら見つかりました。
北京汉天唐宾馆
 西直門あたりにあったみたいですが、《乾隆京城全図》見てもこの辺に王府が在ったようにも思えないのですけどねぇ。ともかく、あるって言うモノはあるんでしょう。ちなみに少なくとも民国6(1917)年まで直郡王家は存続していることが確認出来ます。

02:理郡王府☞東城区北新橋三条胡同東口路北

王大人衚衕
井二。嘯亭續録‥理郡王府在王大人衚衕。采訪册‥梁公第在王大人衚衕。謹案‥王諱弘㬙、聖祖孫廃太子理密親王允礽次子、諡曰格。密王舊府在德勝門外鄭家莊、俗稱平西府。王得罪後、長子弘晳降襲郡王、晉親王、伋居鄭家莊。乾隆四年黜屬籍、以弘㬙封。(後略)v

 自分が前の項で疑問だった理親王府理郡王府の関係性がバッチリ書かれてますね。廃太子二阿哥康煕年間咸安宮に幽閉されていて、雍正年間に入って德勝門外の鄭家莊…つまり、現在の北京市昌平区…詰まるところ居庸関のあたりに整備された平西府に移されてます。長子・弘晳理郡王に封じられ、二阿哥が他界した後に理親王になった時にも鄭家莊に住んでいたというので、理親王府鄭家莊にあったようです。弘晳乾隆4(1739)年に反逆罪に問われて皇籍を剥奪され、弘㬙理郡王に封じられた後の王府北京内城王府なわけです。でも、何の根拠で百度百科にはこの北京王府平西府より前に使われてたとか書かれてるんだか分かりませんねぇ…。理親王家辛亥革命まで続きますが、民国に入ってから敷地は転売されます。現在敷地は中華全国帰国華僑連合会辨公楼華僑飯店になっているようですvi
 平西府は今整備されて観光スポットになってるようですね。ちなみに、この王府平西王呉三桂とは何も関係ないと言う話です。
平西王府
理郡王府

03:誠親王府 舊府☞平安里西大街中間路北 新府☞新街口東街

六條衚衕
井一。有日本國使館。采訪册‥元公第在六條衚衕。謹案‥公爲聖祖三子誠隠郡王諱允祉之後。(後略)vii
官園
嘯亭續録‥誠親王舊府在官園、今爲質親王府。謹案‥誠王諱允祉、聖祖三子、雍正中以罪除。乾隆二年追諡曰隠。(後略)viii
漿家坊衚衕
漿或訛蒋、俗訛蒋養房。(中略)嘯亭續録‥誠親王新府在蒋家房。宸垣識略‥固山貝子宏景府在蒋養房衚衕。謹案‥宏景、聖祖孫誠親王次子。王以雍正八年五月獲譴、是月、宏景由輔國公晉貝子、即新府也。其舊府在官園、已見前。(後略)ix

 で、これも難解な誠親王府ですね。誠親王府はどうやら三阿哥景山永安亭に幽閉された辺りで一度王府を追い出されてるようなんですが、その前後関係がよく分からなかったんですが、これでどうやら納得の結果を得られそうです。移転前の誠親王府西直門近くで、三阿哥景山永安亭に幽閉されそのまま没すると、後に二十一阿哥慎郡王府になったみたいですね。ちなみに二十一阿哥は子供がなかったために乾隆帝の第六子の永瑢貝勒に封じて嗣がせて、後に質郡王に封じられるので、誠親王舊府質郡王府とも言われます。
 誠親王舊府を追い出された後、誠親王家積水潭新府に移るようですね。ただ、三阿哥の子孫は親王はおろか郡王にも封爵されていないので、あくまで通称と考えた方が良いようです。
 
 ちなみに三阿哥が幽閉されていた景山永安亭は《唐土名勝図会》巻二の二十二頁の景山の絵に寿皇殿の左手に描かれていることが確認出来ました。…十四阿哥が幽閉された寿皇殿と比べると随分と粗末に見えますね…。

『唐土名勝図会』巻二 二十二頁

『唐土名勝図会』巻二 二十二頁

 この絵だと分かりづらいんで寄ってみるとこんな感じデス。

『唐土名勝図会』巻二

『唐土名勝図会』巻二 二十二頁部分

诚亲王府
慎郡王府
棍贝子府
唐土名勝図会x巻二

04:雍親王府☞雍和宫大街路東

栢林寺衚衕 栢林寺、元遺刹、詳寺観。其西爲雍和宮、世宗潜邸。地以宮名、詳宮禁。xi

 で、おなじみの雍親王府です。今はチベット寺院として知られる雍和宮なんですが、清代の書物をツラツラ読んでみると、どうも清朝治下では雍和宮は寺院ではなく離宮扱いだったみたいですね。《京師坊巷志稿》でも宮禁という括りみたいです。まぁ、この書物は《順天府志》の草稿であって完成版ではないそうなので、詳しくは寺廟の項を!とか、詳しくは宮禁の項を!と書かれてますが、そんな項目はありません。
雍和宫

05:恒親王府☞朝陽門内焼酒胡同

乾石橋東斜街
舊有鑲藍旗官學、今移西斜街紅廟、見後。嘯亭續録‥恒親王府在東斜街、今爲惇親王府。謹案‥恒王諱允祺、聖祖五子、諡曰温。惇王諱綿愷、仁宗三子、諡恪。xii

 ちなみに恒親王家嘉靖年間鎮国公にまで爵位が落ちたために王府を追い出されてます。その後、王府惇親王に下賜されますが、この惇親王嘉慶帝の第三子・綿愷の事なので、七阿哥淳郡王とは関係ありません。で、綿愷に跡継ぎが居なかったために、道光帝の第五子・奕宗が養子に入って惇親王家を嗣ぎました。その後は徐々に爵位が低くなって辛亥革命に至るみたいですね。
恒亲王府

07:淳郡王府☞東城区東交民巷正義路西側五号院 東長安街14号

橋三。在城根者曰南玉河橋、江米巷者曰中玉河橋。橋東路北有衚衕曰勾張衚衕。在長安街者曰北玉河橋。中河沿東西井各一、北河沿井一。(中略)采訪册‥肅親王府在在御河橋東。嘯亭續録‥惇親王府在御河橋西岸。謹案‥(中略)惇王諱允祐、聖祖七子、諡曰度。裔孫奕梁降襲、俗稱梁公府。今廃爲英國使館。(後略)xiii

 いきなり惇親王府になってますが、どうやら地理的には淳親王府で間違いないようです。東交民巷ほど近くにあって、後に咸豊10(1860)年以降は英国大使館として使用されたワケですから、ここは後に北清事変というか義和団事件の際に籠城戦があって各国大使が立て籠もった場所ですね。なので、王府はほぼほぼ瓦礫と化しています。百度の記事では《乾隆京城全図》では淳親王府が何も書かれていない空白地とされていることにも触れていて、この時期は確かに淳親王は王位に在ったので、あるいは乾隆15(1750)年以降にこの地に淳親王府が移って来たのではないか?と言う説が書かれてますが疑問ですねぇ…。自分は史書に書かれていない事件に巻き込まれたとか、そういう感じのコトじゃ無いかと疑ってます。
淳亲王府
原英国使馆

08:廉親王府☞東城区台基廠南側東交民巷15号院内

四王柵欄
迤西井一。昭忠祠在北、詳祠祀。嘯亭續録‥饒餘親王府、廉親王府、在王府大街、今皆爲昭忠祠。謹案‥饒餘親王諱阿巴泰、太祖七子、以功封郡王。復以子岳樂晉親王、贈如其爵、追諡敏、三傳無嗣、爵除。廉王諱允禩、聖祖八子、雍正四年黜屬籍。乾隆四十三年詔復之。今昭忠祠在臺基廠東北。臺基廠本王府街、明中葉後置廠於此、故名。續録所稱、從其朔也。xiv
王府大街
元名丁字街、見析津志。明建十王邸於此、稱王府街、井二。兵部所屬會同館在東、掌驛政、明初燕臺驛故址也。詳衙署。嘯亭續録‥饒餘親王府、廉親王府、倶在王府大街。(後略)xv

 と言うワケで八阿哥王府ですね。饒餘親王安親王に改称されて、その後断絶して王府八阿哥ベイレに封じられた時に下賜され、そのまま雍正年間に入って廉親王府として使用されたと言うのが、《嘯亭續録》の解釈のようです。百度百科の記事では安親王府廉親王府は隣り合った別の王府だったという解釈みたいです。安親王家雍正元(1723)年まで王府を存続しているので、どうやら廉親王府安親王府は隣り合わせの別の王府だったと考えた方が良さそうですね。《北京清王府xviによると、《乾隆京城全図》で言うところの経板庫こそが廉親王府ではないか?という、王梓《北京地方志 風物図志 王府》の説を紹介しています。傾聴に値する説だと思います。
 いずれにしても東交民巷の一角である台基廠廉親王府が在ったことには変わりません。康煕年間八阿哥ベイレに過ぎなかったのですが、ベイレにしては大きな王府だと思います。貧乏設定にそぐわない豪邸ですねwともあれ、《歩歩驚心》のスタート地点は東交民巷だったようですね。スッキリしました。
 で、八阿哥の死後、雍正年間には廉親王府昭忠祠の敷地一部となります。百度百科安親王府の項によると昭忠祠はその後、オーストリアの軍営になったと在ります。しかし、東洋文庫の『北京籠城xviiの地図を見てみると…台基廠と言う地名は見えるんですがオーストリア軍営とかそう言う表記は見あたらんですねぇ…。これは北京籠城光緒26(1900)年の出来事なので、その当時の地図というコトになりますが、オーストリア大使館堂子の東に表記されているモノの、そんなに敷地は広いようには見えません。ただ、光緒34(1908)年の《詳細帝亰輿圖》を見ると確かにこの辺りは奥国使署と在りますので、オーストリア大使館程度な気もします。とことが、その後の民国10(1921)年の《新測北京内外城全圖》を見ると、確かに台基廠のあたりは奥使署とか奥軍営とか在るので、百度百科の記事は間違いではないようですね。いずれにしろ、廉親王府と言うコトで紹介されていた建物が何なのか気になりますねwあれなんなんだろwwでも、今はこの辺りは物々しい雰囲気でとても散策なんて出来る雰囲気じゃないみたいですねぇ…。
廉亲王府
安亲王府
裕亲王府

09:固山貝子允禟府☞張自忠路路北 平安大街 東四十条路口

鐵獅子衚衕
井一。嘯亭續録‥恭親王府、貝子允禟宅、倶在鐵獅子衚衕。貝子宅今爲和親王府。謹案‥恭親王諱常潁、世祖五子、今爲承公府。貝子允禟、聖祖九子、雍正四年黜屬籍、乾隆四十三年詔復之。和王諱宏晝、世宗五子、諡曰恭、今爲廉公府。(後略)xviii
東直門大街
(前略)宸垣識略‥和親王府在北新橋南、一等昭毅伯第在白廟前。案‥和王府、據嘯亭續録在鐵獅子衚衕。xix

 と言うワケで九阿哥の府邸は,九阿哥の死後、雍正帝の第五子である宏晝雍正11(1733)年に和親王に封じられた際に王府として下賜されたみたいですね。皇籍を剥奪されたサスヘの府邸を下賜されるのってどうなんですかねぇ…。まぁ、ヘシェン(和珅)の府邸も自尽後に慶親王に下賜され、巡り廻って恭親王府になってたりしますからあんまり気にならなかったのかも知れません。
 で、和親王府となった九阿哥府邸はその後、光緒32(1906)年には近隣の貝勒斐蘇府和敬公主府と共に清朝政府に接収されて、大門以外の建物を取り壊されて、敷地の西部に陸軍部が、東部に陸軍所属の貴胄学堂が建設されました。翌光緒33(1907)年には海軍が設立され、貴胄学堂海軍部としました。この際にどうやら李鴻章がフランスから建築家呼んでレンガ造りの洋風建築をこさえたみたいです。
 その後、辛亥革命を経て北洋政府が成立すると、中華民国元(1912)年には袁世凱総統府国務院が置かれ、後に中華民国13(1924)年に段祺瑞政権が発足するとその執政府になります。
 で、更にその後日本占領時期には華北駐屯軍総司令部と特務機関である興亜院になっています。で、国共内戦とか色々あって北京清朝王府位置表によると、現在、中国人民大学清史研究所になっているみたいですね。
 何とも数奇な運命を経た建物ですね…。ともあれ、ようやっと九阿哥府邸の説明に和親王府の地図や西洋風の建築の写真が使われてるのかわかりました。あれ、袁世凱総統府にして段祺瑞執政府だったわけですね。
胤禟的府邸
和亲王府
段祺瑞执政府旧址
中国人民大学清史研究所
清史研究所

10:敦郡王府

南、北官房
官房或作關防。南官房口西小衚衕井一。嘯亭續録‥貝子允䄉宅在關防口。謹案‥允䄉聖祖十子、初封郡王。雍正二年以罪除。乾隆二年封輔國公、六年薨、以貝子禮葬。xx

 と言うワケで十阿哥敦郡王府です。《乾隆京城全図》によると、官房口什刹海銀錠橋にほど近い場所です。現在も観光スポットとして人気のある北京の中でも風光明媚な場所です。《歩歩驚心》の様に夫婦仲睦まじくこのような場所で暮らせるのなら、十阿哥は幸福な環境にいたとのだと思います。ただ、《乾隆京城全図》の南官房辺りを見てみても、なんというか王府とおぼしき建物が見当たりません。二阿哥を除けば最も母親の地位が高いとされる十阿哥なのですが、王府は意外と小規模だったみたいです。跡地も何もよく分からないみたいなので、本当にココなのかなぁ…という気もしないでもないんですが、《嘯亭續録》にもバッチリココだって書いてますから間違い無いとは思います。しかしながら、手元に届いた《北京清王府xxiによると、爵位を継承出来なかった十阿哥の子孫が代々南官房に住み、1938年になって売却したと言う説を紹介しています。元々は王梓《北京地方志 風物図志 王府》の記述みたいですね。でも、《尋訪京城清王府》だと南官房胡同45号が敦郡王府の一部だと言う説が紹介されてますねぇ…。ムム…。

 と、長くなってきたのでここで一旦切ります。思いの外面倒になってきましたw

  1.  で、他にもまとめられた記事もあったんで一応上げておきます。上の記事とほぼ一緒だけど細かく違うのでこれまた厄介ですが一応上げて置きます。
    大阿哥胤褆与直郡王府
    四阿哥胤禛与雍亲王府
    八阿哥胤禩(sì)与廉亲王府
    九阿哥胤禟与九贝子府
    十阿哥胤礻我(é)与敦郡王府
    十三阿哥胤祥与怡亲王府
    十四阿哥胤禵与恂郡王府 [戻る]
  2. 神田信夫『清朝史論考』山川出版社 第II部 清史史料編 『嘯亭雑録』と其の筆者礼親王昭槤 [戻る]
  3. 維基文庫《嘯亭續録》巻四 [戻る]
  4. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.146 [戻る]
  5. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.175 [戻る]
  6. 竇忠如《北京清王府》百花文芸出版社 [戻る]
  7. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.120 [戻る]
  8. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.145 [戻る]
  9. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.155 [戻る]
  10. 早稲田大学図書館 古典籍総合データベース [戻る]
  11. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.175 [戻る]
  12. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.88~89 [戻る]
  13. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.55 [戻る]
  14. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.58 [戻る]
  15. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.75 [戻る]
  16. 竇忠如《北京清王府》百花文芸出版社 [戻る]
  17. 柴五郎・服部宇之吉 大山梓 編『北京籠城 北京籠城日誌』東洋文庫53 [戻る]
  18. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.116 [戻る]
  19. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.171 [戻る]
  20. 《京師五城坊巷衚衕集 京師坊巷志稿》P.161~162 [戻る]
  21. 竇忠如《北京清王府》百花文芸出版社 [戻る]

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