清初ウラナラ閨閥 継妃

  前の項で触れた、ホーゲの母親であるホンタイジ継妃……の父親であるボクド・ベイレですが、よくよく《清史稿》を見るとブジャンタイの伝にボクドについて記述がありました。

(萬暦)三十五年春正月,東海瓦爾喀部蜚悠城長策穆特黑謁太祖,自陳屬烏喇,為布占泰所虐,乞移家來附。太祖命貝勒舒爾哈齊褚英、代善率諸將費英東、扈爾漢、揚古利等以兵三千至蜚悠城,收環城屯寨五百戶,分兵三百授扈爾漢、揚古利護之先行。布占泰使其叔博克多將萬人要諸途。日暮,扈爾漢依山結寨以相持。翌日,烏喇兵來攻,揚古利率兵擊敗之,烏喇兵引退,渡河陟山為固。褚英、代善等率後軍至,緣山奮擊,烏喇兵大敗,代善陣斬博克多。是日晝晦,雪,甚寒,烏喇兵死者甚眾,俘其將常住、胡里布等,斬三千級,獲馬五千、甲三千以還。i

 攻め込んできたマンジュに抗戦するために、ブジャンタイが叔父に当たるボクドに兵を預けて派兵してますね。善戦はしたようですが、シュルガチチュエンダイシャンフィヨンドンフルガンヤングリの軍勢に対抗しきれず、遂にはダイシャンに斬られています。これはどうやら継妃ホンタイジに嫁ぐ前の話のようなので、中々ややこしいですね。


 で、更にネットを巡回していたら、ホーゲの母親の記事を見つけたり…。

繼妃烏拉納喇氏,烏拉貝勒博克鐸(博克鐸貝勒,萬曆三十五年三月二十日,與子被諸英、代善斬殺)女,實太祖大妃之從姑也。明萬曆三十六年來歸,三十七年,生皇長子肅武親王豪格。三十九年,生皇二子洛格。後繼立為福晉。天命六年,生皇長女固倫公主。天命八年五月前因違背太祖不許乘轎旨意而被廢棄,當遣歸母家,是否再嫁待考,生卒年不詳。
(考:《滿文老檔》第五十一冊(中華書局1990年版485頁)記載天命八年五月初九日:初九日,汗於八角殿召集瞻河之姑及諸女訓示之。因諸女驕縱無度,故斥之曰:“天設國君,豈可不體天意而治以道統也?何以仰體天意?懲惡揚善是也。我莊屯之諸貝勒,有被殺被貶者,於我並無仇怨,因其敗政驕縱,繩之以法而已。至至掌國政之諸貝勒,尤不能枉法而行。爾等居家之婦人,倘毀法驕縱,豈肯徇情放縱而廢法典乎?男子披甲胄戰死於疆場者,乃為不敗其黨,死之以義。爾等居家之婦人,違法敗政,生又何益?擇賢而有功之男,與爾等匹配,豈令其受制於爾等乎?爾等競淩侮己夫,為非作歹,其惡甚於鬼魅矣。猶如萬物皆依日光,以遂其生,爾等亦依汗之光心安其生。所出驕縱之事,皆因姑爾等事先未好生訓導諸女之故,治罪之後,爾勿再登我門,勿來諫我。”
汗曰:“初我未乘轎,諸福晉亦不乘之。齋桑古阿哥之母在時,輕漫於我,赴我家宴,來去皆乘轎,故因如此作惡致罪而死。又車爾格宜之妹豪格之母,來往其父家時,乘拖床經大阿哥、阿濟格之門,也乘拖床進我之門。因其輕漫之惡行,以致獲罪,被其夫棄之。諸貝勒勿辱新弟媳、子婦等;諸弟媳、子婦亦勿似昔致罪之福晉等,侮漫長者。”
由此可見,繼妃萬曆三十六年來歸的時候,因為太宗已娶元妃,當時的身份應該為側福晉,元妃三十九年生皇次子後再未見消息,當不久去世,繼妃繼立為福晉,被廢棄的時間應當在天命八年五月前,因為天命六年生太宗的長女,太祖的以上這段訓話應該因此而發,廢棄的原因就是因為違背了太祖不允許乘轎的旨令)。

 この記事を見ると継妃萬暦35(1607)年に、彼女の父親であるボクダダイシャンに斬られた後、翌萬暦36(1608)年にヌルハチの保護下に入っているようです。おそらくブジャンタイイェヘに逃亡した後、捕虜となったのでしょう。で、記録がないのでハッキリしませんが、この頃ホンタイジに嫁いだようです。当時、ホンタイジには元妃というアンバ・フジン(嫡妻)が健在だったので、アスハニ・フジン(側妻)として嫁いだようです。
 更に翌萬暦37(1609)年に長子・ホーゲを生み、萬暦39(1611)年には次子・ロロを生んでいます。又、この頃から元妃が公式文章に見られなくなることから、継妃ホンタイジアンバ・フジン(正妻)に昇格したようです。で、天命6(1621)年には長女であるアオハン・グロン公主(敖漢固倫公主)iiを生んでいます。で、前の項に書いたように天命8(1623)年5月に驕慢の罪でホンタイジと離縁の上、実家に戻されています。今回見つけたのは漢訳だけなので、機会があればこの辺《満洲老檔》で確認します。
 この詳しい記事を見ると、繼妃が輿に乗って通り過ぎたのはアジゲ邸の門前だけではないようですね。アンバ・アゲダイシャン邸とアジゲ邸及びハンヌルハチ皇宮の門前を輿に乗って通り過ぎたた事を咎められています。更にヌルハチはこの行為を驕慢だとしてますが、この叱責を受けて夫であるホンタイジに棄てられた…とあるみたいですね。自分は大妃アブハイ繼妃の失脚に関与していると仮定していたんですが、これでは断定できませんね。むしろ、天命5(1620)年にダイシャンが失脚して以来、対抗馬が軒並み消えて自勢力を拡大していたホンタイジに対する牽制という意味の方が強いのかも知れません。もしかすると、ホンタイジウラ・ナラ氏に対する恨み辛みは、この際に危うく継位をふいにされそうになった事への八つ当たりなんじゃないか…って気さえしてきますが…。
 それに、繼妃は離婚後実家に戻ったとは言っても、父親のボクドはもう他界しています。また、文中に”車爾格宜之妹豪格之母“とあるからには、ウラ王族のボクド家はチェルゲイ?なる人物が継承していたんですかね。明らかにニュフルエイドゥ家のトゥルゲイの兄であるチュルゲイとは違う人でしょう。しかし、《八旗通志》初集や《欽定八旗通志》ザッと見た限りではこの人物パッと見つからないですし、専管ニルの論文あたりザッと見てもウラ王家の系統は3ニルに統合されてますが、その中にはボクド系が継承したニルはないんですよね…まぁ、マンタイ系もないんですが。
 この資料でも、繼妃ホンタイジとの離婚後にどこかに再嫁したかも知れないと書かれてますが、そう言うこともあるかも知れませんねぇ。

  1. 《清史稿》 卷二百二十三 列傳十 [戻る]
  2. マングルタイの同母妹の再嫁先であるアオハン部のホショ・ダルハン・バトゥル親王バンディ( Bandi 班第 ソノムの甥)に降嫁しているので、アオハン・グロン公主と呼ばれている [戻る]

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