鑲紅旗 承澤親王ショセ その2

 流石に絶版文献参考するのは時間かかるなぁ…と、前回の記事書いてぐぬぬ…と思っていたら、手元にあった杜家驥《八旗与清朝政治论集》をパラッと見てたら、注にありましたね…。ショセのニルが元々ショトのニルであった説を長いけど引用してみましょう。

最早封入王公领旗的皇子、是太宗第五子硕塞、入封镶红旗、时间当在顺治元年四月或稍早。因《清世宗实录》卷4、顺治元年四月戊午条记豪格说、”和硕睿亲王将五牛彔人给予硕塞阿哥”、这五牛彔、应是几月前所籍没的被处死的镶红旗贝子硕托的牛彔、《清世祖实录》卷1、崇徳八年八月丁丑条记有”籍硕托家并其子拉哈齐、兰布给和硕睿亲王”、这里所的”籍家”就包括其所领牛彔及所有家产、硕托一支已开除宗籍、所以籍其家包括其所领牛彔都给了睿亲王多尔衮、由多尔衮再分给硕塞。i

適当な訳⇒最も早い時期の皇子の封爵は太宗の五子・ショセで、鑲紅旗に封じられた。時期は順治元(1644)年4月かあるいはそれよりも早い。《清世宗実録》巻四に順治元年4月戊午の条にホーゲの発言が根拠となる…。
 と言うので、その箇所を見てみましょう。

順治元年甲申、夏四月戊午朔。(中略)肅親王、謂何洛會及固山額真俄莫克圖曰「和碩睿親王將五牛錄人給與碩塞阿格。其意何居。」何洛會對曰「此正為國效力以垂名於萬世也。」王不悅。ii

適当な訳⇒順治元年4月戊午。肅親王(ホーゲ)はホロホイ及びグサ エジェンオモクトゥに「和碩睿親王は5ニルをショセ・アゲに与えた。これにどんな意味があると思う?」と尋ねた。ホロホイは「これは国のための立派な行いですから、(睿親王の)高名は万世に残るでしょう」と答えたので、肅親王は不機嫌になった。
 と言うワケで、ホロホイホーゲを弾劾する供述の中でこの挿話が出ています。この会話の真偽はともかく、確かにショセがこの時期にはドルゴンから5ニルを与えられていたことは確かなようです。
 しかし、この時ショセに与えられたのがショトのニルだったのかは書かれていませんが、ショセ鑲紅旗所属であること、これ以前にドルゴン鑲紅旗ショトのニルを接収していますから、前後関係を考慮するとドルゴンが管理していたショトのニルをショセに与えた…って言うことになりそうデスね。

(崇徳八年八月)丁丑(中略)籍碩托家並其子拉哈、齊蘭布、給和碩睿親王。iii

 ショトのニルがドルゴンの管理下にあったことは、崇徳8(1643)年8月の記事にあります。ショトドルゴン擁立を謀って実父であるダイシャンの告発を受けて罰せられた事に対する処置です。杜家驥センセは”籍碩托家”でショトの家財…つまりニルは没収され、ドルゴンの保護下に入ったと解釈しています。自分も同意見です。しかし、この記事を見ると書いてあるように、ショトの嫡子であるラハ(拉哈)、ジランプ(齊蘭布)らもこの際にドルゴンの庇護下に入ったようですから、それを無視してショトの遺産であるニルを何故ホンタイジ五子のショセに継がせたのかは分かりません。

硕塞当时是封入原硕托所在的镶红旗、因《清初内国史院满文档案译编》(中)顺治三年十二月下有”镶红旗本设议政大臣二人、现因缼一人、授多罗承澤郡王(硕塞)下大章京拜善为议政大臣”的记载。硕塞之得镶红旗佐领是在其封郡王的顺治元年十月以前。故曾争皇位的多尔衮把反对太宗之子继位的硕托处死后、把籍给自己的牛彔给予顺治帝之兄硕塞、应是安抚笼络帝支及帝属两黄旗大臣的一种手段。所以硕塞之分得镶红旗牛彔、不属于正式的分封制度下的入封。当时也尚未形成皇子入封王公之旗的分封制度。但它却为以后皇子入封下五旗开了先例。iv

 で、杜家驥センセはこれに続けて《清初内国史院满文档案译编》を引用してます。ついでに引用してみます。

(順治三年十二月)初十日。(中略)镶红旗本设议政大臣二人、现因缼一人、启皇叔父摂政王后、授多罗承澤郡王下大章京拜善为议政大臣。v

適当な訳⇒順治3(1646)年12月10日、鑲紅旗には元々議政大臣の定員は二人だったが、今は一人欠員が出ている。皇叔父摂政王にお伺いを立てて、多羅承澤郡王(ショセ)麾下の大章京(アンバ ジャンギン?)の拜善(バイシャン?)を議政大臣に選出した。
 サラッと杜家驥センセは”启皇叔父摂政王后“という下りをサックリ削ってますね…。ともあれ、杜家驥センセは続けて…ショセ鑲紅旗ニル エジェンに封じられたのは、ショセ郡王に封じられる順治元年10月以前だとしています。さっきの《清初内国史院满文档案译编》で引用した記事…何か関係あったのかしら…。
 ともあれ、訳の続き⇒皇位継承に絡んだドルゴン太宗の子の継位を否定したショトの処刑後、自分の管轄下にあったニルを順治帝の兄であるショセを与え、順治帝身辺と周辺の両黄旗大臣を籠絡する為の一種の手段とした。なので、ショセが獲得した鑲紅旗のニルは正式な分封制度の元で行われた入封でない。当時はまだ皇子の王公への入封は分封制度が整っていなかった。ただし、この例は却って皇子の下五旗への入封の先例となった。
 …と、言うことで、杜家驥センセは、ドルゴンによるショセ鑲紅旗への入封はあくまでドルゴン順治帝周辺…ホルチン モンゴル閥の孝荘文皇后と、ソニンタンタイ両黄旗大臣達への懐柔策であったとしています。
 自分はこれには違和感有りますね。ショセの生母は側妃イェヘ ナラ氏、嫡福晋はナラ氏ですから、ショセを抜擢することで順治帝側に何のメリットがあるのかはよく分かりません。一方で同じく異母兄のホーゲを排除しているわけですから、何だそりゃって事で。
 しかも、ドルゴンが心ならずもショセ鑲紅旗を与え、郡王に封じたのであれば、反対派を押さえ込んだ順治5(1648)年以降に排除してしまえば良かったわけです。しかし、ドルゴンショセを排除しないばかりかむしろ抜擢して、戦場でワザワザ爵位を親王にあげています。少なくとも死の間際までドルゴン理政三王に次ぐ信頼をショセに寄せていたようです。しかし、ドルゴン死後のショセは他のドルゴン派の王公等のように急死することは無かったモノの、順治12(1655)年に没するまでさしたる業績を残していません。要するにドルゴンに近すぎたために干されたようなんですよね。どうも、懐柔のためだけにショセを抜擢しているようには思えないんですが、じゃあなぜドルゴンショセショトのニルを継がせたのか?についてはやはり分かりません…。

  1. 杜家驥《八旗与清朝政治论集》P.265 [戻る]
  2. 《清世祖実録》巻四 [戻る]
  3. 《清世祖実録》巻一 [戻る]
  4. 杜家驥《八旗与清朝政治论集》P.265 [戻る]
  5. 《清初内国史院满文档案译编》(中)P.340 [戻る]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。