『大清帝国の形成と八旗制』メモ2 ─ウラ ナラ閥とフリンの継位─

 続けて、杉山センセの『大清帝国の形成と八旗制』のメモ。今回は、第一節 両黄旗──ウラ=ナラ氏の部分です。何にせよ自分の興味あるドルゴン時代の政争についての記事が多いので、引用長めです。ていうか、この本あれば史料で調べられる範囲は全部網羅できちゃってる感じですかね…。あとは、参考文献に上がってる史料に直接当たるしか無いですね。細かい描写までは当然全部上がってはいないので。

図2-1 ウラ=ナラ氏略系図i
図2-2 ウラ=ナラ氏と順治期政争関係者ii

 図は省略しますが、これあればおおよそのウラ ナラ氏アイシン ギョロ氏との関係は網羅できます。要するに、白旗三王(アジゲ、ドルゴン、ドド)の生母であるマンタイの娘・アバハイとその弟のアブタイ、そして、マンタイの弟であるブジャンタイの娘の嫁ぎ先(ショト、サハリヤン、アイドゥリ……と、ドゥドゥ)が天命末から順治中に至るまでの政争に関係してるのでは無いか?というのが、この節の主眼ですので、その関係を整理するにはこの系図を確認すべきかと…。

 ブジャンタイは、シュルガチの二人の娘エシタイ=ゲゲ(Esutai Gege 額実泰格格)・オンジュ=ゲゲ(Onje Gege 娥恩哲格格)、それにヌルハチの娘の和碩公主ムクシ=ゲゲ(Muksi Gege 穆庫什格格)を相次いで娶っており───にもかかわらず、最終的には敵対して滅ぼされるのであるが───、第四子バヤン・第五子ブヤントゥはムクシの所生、また第六子モー=メルゲンと第八子ガダフンは何れかの公主の所生であった。iii

 この辺はブジャンタイの子供たちの母親の中には、ヌルハチの娘やシュルガチの娘がいたことが確認できればいいかと。

 従来、ウラ=ナラ氏一族は無条件にドルゴンと結びつけられてきたが、直接の主従関係はアジゲとの間に設定されていた。すなわち、アブタイは一六四二(崇徳七)年十月にアジゲを告発、その結果「阿布泰納哈処、告首して一旗に同居するに便ならざるを以て、命じて其の弟多羅豫郡王(ドド)の旗下に挑撥せしむ」とあって、それまでアジゲ属下だったことが知られる。また、従弟モー=メルゲンは、その官職を「長史」と記され、一六三七(崇徳二)年の大事に朝鮮出兵後の行罰では、「王のところに留めおかず、ニルに追い立てた(発与牛彔、不許永入王府)」との処分を受けているので、旗王との深い関わりが推測される。後年、彼はドルゴンの死の直後にアジゲが摂政王の座を狙って失敗した際、「毛墨爾根、曾て大罪を犯すも死を免ぜられ、其の英王(アジゲ)の処に行走するを禁ぜらる。……今、王の乱謀に預かり、兵を率ゐて前住すれば、応に斬として其の家を籍すべし」とあって、アジゲと行動を共にして「率兵前往」までしたとして、処刑されることになる。これらから、モー=メルゲンはアジゲの王府の長を務めたものとみて誤りあるまい。彼らブジャンタイ家は、アブタイと異なりアジゲ属下に留まったのである。iv

 ウラ滅亡後、アブタイ家は元々はアジゲ属下に配置されたモノの、崇徳7(1642)年にアジゲを告発してドド属下に移籍したようですね。しかし、ブジャンタイ家…の息子たちはそのままアジゲ属下に留まり、特にシュルガチの娘の子であるモー・メルゲン英親王府長史アジゲの家宰機関の長官を務めて、アジゲの失脚にお供していると言うことですね。と言うワケで、他家に嫁いだブジャンタイの娘たちはむしろアジゲと連携してそうですね。実家はアジゲの属下ですからねぇ…。

アブタイは①ホンタイジの嗣立と、②フリンの嗣立の二度にわたってこれに反対する動きを取り、少なくとも②において、ドルゴンの擁立を企てたというのである。そこで、天聡~順治期の、関連する動きを追ってみたい。
 ホンタイジの継位をめぐっては、ドルゴン自身が「太宗文皇帝之位、原係奪立」と語ったことが知れているように暗闘があり、①にある、大妃アバハイと弟アブタイ夫妻が「太祖時……欲陥太宗」としたというのが、具体的に何を指しているのかは不明であるけれども、ヌルハチ晩年の水面下の抗争を推測させる。その結果を窺わせるものとして諸家によってたびたび引かれるのが、ホンタイジの嗣立から一年半ほど経った一六二八(天聡二)年三月に見える、私婚をめぐる以下の事件である。(中略)
 この一件から、一六二五(天命十)年八月の「黄字檔」勅書では三等総兵官であったアブタイが、僅かな間に遊撃にまで降格されており、このとき一介の備禦に落とされたことが知られる。(中略)
 一方で、この件自体に注目するならば、旧両黄=新両白旗における結合関係の構築が見て取れる。すなわち、旗王ドドは、属下の重臣アサンの弟アダハイ(Adahai 阿逹海)の仲介で、母系の叔父アブタイの娘、すなわち交叉イトコの女性を娶ろうとしていたのである。ここで仲立ちしたアダハイは鑲黄旗に勅書があり(表2-1:31)、『宗譜』によれば、ドドの側福晋として「伊爾根覚羅氏護軍統領阿逹海之女」とあるので、彼自身が主ドドと姻戚関係にあったことが知られる(後掲図3-4)。アサンも、没後の一六五二(順治九)年に、アブタイと列ぶドルゴン支持者として名前が挙がっているのである。v

 この辺は鴛淵一「鄭親王擬定阿布泰那哈出罪奏に就てviに書かれている、ドルゴン没後の、ジルガランによるアブタイに対する告発文についての考証からです。
 で、手始めにホンタイジが継位したばかりの天聰2(1628)年というタイミングで、ホンタイジ議政王大臣の審議を経ないで勝手にドドアブタイの娘が婚姻を上げたとして、アブタイらがホンタイジに叱責を受けた件を取り上げています。《宗譜》によると、ドドの妻にウラ ナラ氏のアブタイの娘…という人は記録されていないので、この際に離縁させられたんでしょうね(ナラ氏の夫人は複数人いますが)。ドドアブタイの娘の仲立ちをしたという事で、アジゲホショ・ベイレの位を剥奪され、ドルゴンと交代させられ、以後ずっとアジゲドルゴンより一段したの評価をされています。この時期はまだホンタイジが権力確立されていない時期とされていますから、ダイシャンアミンマングルタイアブタイウラ ナラ関係者を支持しなかったと言うコトになるんでしょうね。
 それにしても、このときのホンタイジの怒りは尋常では無く、今後は諸ベイレアブタイの関係者が姻戚を結ぶことを禁じています。

[Ⅱ-6B] 六月初一日、アダハイを殺した。……また一罪。「アブタイ=ナクチュの娘を何れの諸ベイレも娶るな。諸ベイレの娘をアブタイ=ナクチュ(の子)に与えるな。親戚となってはならない。讒悪である」と断じた。ハンは諸ベイレと議して定め、禁じた。(アダハイ)はそれに背いてエルケ=チュルフを唆し、自分は娘をアブタイ=ナクチュの息子に与えて親家となっているので、「ハンや諸ベイレに請うて、汝はアブタイ=ナクチュの娘を娶れ」と唆したとして、アダハイを死罪としてあった。……vii

 ではあるんですが、この後にも出てきますが、何故かヌルハチ異母弟・バヤラの第五子バヤラは宗室であるにもかかわらずアブタイの娘を娶っています。シハン黄旗大臣として活躍していますから、宗室とは言え当然ホンタイジの直属の部下です。と言うコトは、ホンタイジの意向を汲んだ上での婚姻だったのでしょう。まぁ、この文章でも「何れの諸ベイレも娶るな」としていることから、当時は閑散宗室であったシハンは適用外だとされたのかも知れませんが…。いずれにしろ、シハンアブタイの娘との間の子は天聰7(1633)年の生まれですから、少なくともこの事件の5年後には娶っていたと言うことですね。下手したら、ドドと結婚するはずだった女性がシハンに嫁いだのかも知れません。

 これに続く第二幕が、②フリンの即位であった。一六四三年八月のフリン擁立をめぐる過程については、内藤湖南[一九二二]の先駆的研究以来、数多くの蓄積があり、経緯はほぼ明らかになっている。それによれば、九日夜にホンタイジが急死し、緊急の会議で激論が闘わされた末、十四日にフリンの嗣立が決定し、二十五日にフリンが即位した。しかし、フリン嗣立が決まった十四日、アブタイが身分剥奪処分を受け、続いて十六日に、ダイシャンの子ショト(Šoto 碩托)夫妻と孫の多羅郡王アダリ(Adari 阿逹礼)母子がドルゴン擁立を図ったとして処断されるという事件が起きている。フリン擁立をめぐる確執は、ホーゲ派対ドルゴン派の対立として更に激化して翌年には大量の刑死者を出すに至るが、ここで見える二例も、このような慌ただしい時期に即刻処分が為されている点で重要であろう。(中略)
 アブタイは大喪に際し、ドド属下に転じていたとはいえ、内大臣の列に在りながら宮中に参列せず、ドドに私従したとして処罰されたのである。さらに二日後の丁丑条には、(中略)旗王クラスのショト・アダリが処刑されるという大事が出来した。(中略)ショトはダイシャンの子で鑲紅旗の故ヨトの下にあり、またアダリは親ホンタイジで知られた故サハリヤン(Sahaliyan 薩哈廉)の子で正紅旗旗王であり、(中略)また処罰は、一方は夫妻、他方は母子と言うのも不可解である。
 だが、『宗譜』によれば、ショトの「嫡妻」、アダリの「嫡母」はともに「烏喇納喇氏布占泰貝勒之女」とあり、ウラ最後のベイレ・ブジャンタイの娘、すなわちアブタイの従姉妹であることが判明するのである。すなわち、ショトとアダリの処罰がそれぞれ「夫妻」と「母子」だったことは根拠があったのであり、「阿逹礼之母、碩托之妻、相助為乱」(「残巻」)、「同劭托夫妻・阿打里母子、又陰謀作乱」(「罪奏」)というのは、むしろ「妻」と「母」こそが陰で糸を引いていた可能性を示唆するであろう。そしてこのことは、事件の黒幕がアブタイだという「擬定阿布泰那哈出罪奏」の記述を裏づけるものである。ドルゴン没後の告発によれば、このときアジゲとドドがドルゴンに即位を勧めていたといい、それが実話であるかどうかはともかく、そのような時にアブタイが「私自に豫王に随従」していることは重大であろう。
 また、このとき使者に立つなどして処刑される覚羅ウダンはショト属下のバヤラ=ジャラン=ジャンギンで、その母は、ドド属下のレフ(Lefu 勒伏)島地方トゥンギヤ氏のリサン(Lisan 礼山)の娘、妻はドルゴン属下のウバイ(Ubai 呉拜)の姉妹であった。すなわち、主ショトの親衛に属すとともに、彼自身が他旗である両白旗と深い関係がある人物だったのである。viii

 と、長いですが、フリン順治帝継位の直後に起きた、アブタイの身分剥奪とショト夫妻、アダリ母子の処刑のあらましは、およそこれ以上詳しくは分からないレベルの文章です。自分が棚上げにしていたウダンについても詳しく出自から属旗まで書かれているので、放心しますね…。何もくわえることはありません。

 さらに余震は続き、翌一六四四(順治元)年六月には、鑲藍旗棋王の一人である鎮国公アイドゥリが、フリンの嗣位に不満を漏らした廉で、妻およびこのハイドゥリ(Haiduri 海度里)とともに処刑される。この事件に関しては他の史料を欠くが、『宗譜』によれば、アイドゥリの妻は、これもショト・サハリヤンと同じくブジャンタイの娘であり、さらにハイドゥリは「嫡妻烏喇納喇氏長史懋墨爾根之女」とあってモー=メルゲンの娘を娶っており、夫妻は交叉イトコであったのである。以上から、ドルゴン嗣立運動の背後にある姻戚勢力の影がはっきり看て取れるであろう。ix

 で、自分が何度か取り上げたアイドゥリです。ここも、特に加えることは無いんですが、アイドゥリは処刑された順治元(1644)年正月に会合で誓詞を交わしたと供述していますから、従兄弟同士で妻の実家でもあるブジャンタイの息子たちと誓詞を交わしたのかも知れないなぁ…などと妄想してしまうくらいですかねぇ…証拠があれば一緒にしょっ引かれてるハズなので、証拠は無かったんでしょうから何とも言えませんが。

 フリン嗣立をめぐる暗闘が、ホンタイジ即位に続く第二波であるとするならば、第三波はドルゴン没後の政争であった。一六五〇(順治七)年十二月、ドルゴンが死去すると、翌年早くも黄旗反ドルゴン勢力の巻き返しが始まり、数々の獄が生起した。まず、先に見たようにアジゲが摂政王の座を狙って失敗した際に、モー=メルゲンが兵を動かして行動を共にしたとして処刑される。さらに一六五二(順治九)年三月には、黄旗でありながらドルゴンに阿附したとしてバイントゥ、グンガダイ(Gūnggadai 鞏阿岱)・シハン(Sihan 錫翰)ら五人が処断された際、モー=メルゲンの兄バヤンも「伯陽は官職を革去し、牛彔に併せて間人と為し、伯陽の母は和碩格格を革去す」(『世祖実録』)とあって、革職されている。ここには「巴顔」とだけあって旗属・出自は明記がないが、「巴顔之母革去和碩公主」とあるので、ウラのバヤンに間違いない。(中略)
 また、このとき処刑されたシハンはヌルハチ異母弟のバヤラの子であったが、同じ記事に「伯陽、尓寄養錫翰之子巴図・巴哈納」とあって、子をバヤンに預けていたといい、その密接な関係が知られる。『宗譜』によれば、シハンの妻はほかならぬアブタイの娘であった。彼らバヤラ諸子がドルゴンに与したのは、単に一事の権勢になびいた「阿附」というだけでなく、これらウラ=ナラ氏王家との密接な婚縁が背後にあったことに因るのだろう。x

 と言うコトで、ウラ ナラ氏の暗躍をドルゴン没後にまで拡げています。アジゲの蜂起?にモー・メルゲンが積極的に関わっていたというのは自分も知らなかったので、これは勉強になりました。個人的にはドルゴン没後の政争は、ホーゲ贔屓でドルゴン嫌いの順治帝ドルゴン治世下では抑圧されていた黄旗大臣が結託し、それに阿るその他諸々がドルゴン残党叩きに必死になったという構図だと思っているので、ウラ ナラ氏だから処罰された…というより、単純にドルゴンと関わりが深かったという事だと思います。ドルゴンドドアジゲも特段持ち上げた訳では無いとも思うので、いわんやウラ ナラ氏をば!という感じだと思うんですけどねぇ。ただ、バヤラの息子三兄弟(バイントゥ、ゴンガダイ、シハン)については自分もドルゴン治世期のキーパーソンだと思っているので、シハンの嫡福晋がアブタイの娘だという指摘は盲点でした…。いや、まだ《宗譜》をよく読んでなかったんですが…。

 と、今回はこの辺で…。

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