宣教師の見た肅親王ホーゲ

 と言うワケで、ゴールデンウィークを利用して、矢沢利彦センセの”De bello Tartarico historia“の訳本、『だったん戦争記』を確認してきました。収蔵図書館がやたら少ないと思ったらこれ、50頁程度の同人誌ですわ…。後書きにも、ワープロ・文豪mini7買ったンで三ヶ月で打ち込んでみたゾ!みたいなコトが書かれてますね。おう、同人誌や…。ただ、中身についてはやっぱり面白いコトが書いてありました。
 ”De bello Tartarico historia“はイタリア人のイエズス会宣教師である衛匡國ことマルティノ・マルティニ(Martino Martini)の著作です。主にアマワンこと皇父摂政王ドルゴン漢土征服時代のコトについてあれこれ書かれています。
 色々興味深い事と、それあんまり興味無いわっていう宣教師事情も書かれているのですが、まず、ホーゲの記事を引用してみましょう。

 かれiがせん西省iiに侵入するかしないうちに、皇帝の叔父[兄が正しい]であるだったんiii人たちの将帥[太宗の長子肅親王ホーゲ]が5千のだったんiv兵を率いて到着した。他の部隊がその後を追っていた。だったんv人の習慣に従って、5名の騎兵が先行していた。なぜならば、だったんvi人はつねに数人のものを先行させ、もし彼らが厚く遇されるならば、服従と和平のしるしとだvii見なすけれども、、もしかれらになにかが引き起こされるならば、それによって来たるべき戦闘のしるしを認めるからである。この騎馬の先兵を匪賊の斥候かviii見つけたので、ただちにその到来を報告した。ところが、匪賊は斥候たちの言葉をあざ笑い、まさかだったんix人は空を飛んでやってきたのではあるまいと尋ねた。その時多数のひとびとが死刑に処せられるために、かれのまえにつながれて来ていた。また四川省に戻る許しを求めたという理由で、わが会の神父たちも死刑を宣告されて、そのなかにいた。なぜならば、かれらはその省を改宗する命を受けていたからである。しかし匪賊の思いがけない死がかれらを差し迫った危険から救った。けだし丁度その時にだったんx人が正真正銘到来したということが将軍たちによって報告されたからである。これを聞くや、かれはもともと剛勇の士であったので、自らただちに天幕から飛び出し、甲ちゅうxiも着けずに槍をひっさげ、僅かの従者を連れてだったんxii人の到来を探るために、陣営の外に出た。丁度そこへ例の5人のだったんxiii兵が現れて、暴君に激しく襲いかかった。かれらが射た最初の矢がだったんxiv人と多くの他のひとびとにとって幸福であったことには、この匪賊の凶悪な心臓を貫き、すべての人間を殺すであろうと考えられていた、そしてまた匪賊という卑しい身分から出て、ついには皇帝の称号を暴力で握ったこの男の生命を奪ってしまった。こうして残念な怪物は倒れたのであった。かれを打ち倒したあと、残りのだったんxv兵が一斉に到着し、首領を失ったかれの全部隊に苦もなく襲いかかった。多くの兵士はだったんxvi人に降伏したが、他のものは殺害されたり、逃亡したりした。そのあと四川省に生き残っていた気の毒なひとびとは、だったんxvii人をあたかも救世主のように迎えた。こうしてシナの最西部にあり、チベット国に隣接しているこの省もだったんxviii人に服従した。
 こうしてこの省に治安を確立し、守備兵を配置したのち、だったんxix人の将軍は首都北京へ戻る準備をしていた。その時すでに釈放されていたわが会の神父たちは四川省に留まる許可を自ら願い出た。しかし将軍はこの許しを与えようとは望まず、自分は北京の皇帝のもとに沢山の客人を連行しなくてはならないと述べた。わたしは1650年にこの市[北京]でかれらと別れた。xx

 と、ホーゲが先行させた斥候部隊が放った一矢で、張献忠が一戦も交えずに落命した事が書かれています。ワザワザ当時死刑されかけていた宣教師からマルティノが聞いた話のようなので、少なくとも四川にいた宣教師はこう言うことだと認識していたみたいですね。教会史料を通してみた張献忠の四川支配xxiという論文によると、この頃張献忠の支配下にはイエズス会ルイス・ブリオ(Louis Buglio 利類思)とガブリエル・デ・マガリャンエス(Gabriel de Magalhāes 安文思)という宣教師がいたようです。この論文によると、マルティノの『韃靼戦争記』のこの部分も二人の宣教師による『中国の有名な盗賊張献忠によって行われた暴政についての報告書』から作成されたと考えられるみたいですね。この本についてはフランス人イエズス会宣教師・グールドン(F.M.J.Gourdon 古東洛)の《聖教入川記》という本に漢訳が残って居るみたいですね。もの凄く珍しいことですが。あと、『四川Sú chuēng省とキリスト教会が破壊され、失われたことについて、そしてその地でルイス・ブリオとガブリエル・デ・マガリャンエスがとらわれの身になったことについての報告』というイエズス会史料もあるようなので、十中八九マルティノはこの二人のことを書いているようです。

 ところが、前記の将軍はこれほどの大勝利を収めた後、兄弟[叔父が正しい]であるアマヴァンから非道な待遇を受けた。すなわちかれは凱旋式を望んでいたのに、死に出くわしてしまったのである。なぜならば、何ヶ月にも及ぶ長途の行軍の間に、困苦を不断に忍ばなければならなかったことと、終始厄介事に遭遇したことから、戦闘によるのよりも以上の多数の兵士を失っていたからである。かれは自分が賞賛に値する働きをしたと信じていたのにも拘わらず、用兵に抜かりがあったと非難されたので、憤怒を抑えることが出来なかった。そこでだったんxxii式フェルト帽を脱ぎ取って、地上になげつけた(このことは憤怒を表す最も強い表現である)。そのためにシナ[明]皇室の血を引いたものがなにか罪を犯した時に、シナ皇帝によって投ぜられるしきたりになっていたある監獄に入れられることに決まった。この監獄はカオチャン[高しょうxxiii、高い垣]と呼ばれている。しかしかれはだったんxxiv人のうちで最初にこの屈辱を受けるものにならないようにするために、入獄に先立って自分の邸で自ら首を吊って死んだ。この皇子はその高まいな精神とすばらしい功業とにふさわしいもっといい運命に恵まれてもよかったのである。このことがアマヴァンの嫉妬に起因すると確信すひともなくはなかったが、わたしは剛毅ではあるが、向こうみずな気質をもった兄弟[甥]に対して、だったんxxv人の平安のために少なからず懸念していたので、アマヴァンがこのような処置を取ったのであると信じている。xxvi

 マルティニアマヴァンの聡明さを信じているものの、やはりホーゲに同情する声は当時からあったみたいですね。いかにもいちゃもん付けて粛正してるわけですし。まぁ、ある意味、ドルゴン白旗兄弟よりはホーゲの方を評価していたからこそ排除せざるを得なかったんでしょうし。嫌疑かけられて激高したホーゲが入獄を嫌って自縊したというのも何だか納得してしまう顛末ですね…。短慮ではあるけど、俠気に溢れたホーゲというイメージには沿った結末ではあります。

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  20. マルチノ・マルチニ/矢沢利彦『だったん戦争記』P.55~56 [戻る]
  21. 浅見雅一「教会史料を通してみた張献忠の支配」『史学』第五十九巻第二・三合併号 [戻る]
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  26. マルチノ・マルチニ/矢沢利彦『だったん戦争記』P.56 [戻る]

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