『大清帝国の形成と八旗制』メモ3 ─ホンタイジの本名─

 と言うワケで、一息つけそうなので、久しぶりに杉山センセの本のメモをば…。満族史研究会第30回大会はざっとレポを書いたモノのどこまで書いて良いものやら見当が付かないので、取りあえずオロオロするコトにしました。


 ホンタイジ(hong taiji)という名前が”皇太子”という漢語⇒モンゴル語に由来すると言うコトは、つとに指摘されています。同時代のモンゴルでもホンタイジという名前は王公の名前としてメジャーですし、”副王”を意味する称号でもありますが、マンジュとしては少し見かけない名前ではあります。もし、これが太宗=スレ・ハンの本名であったなら生まれついての”皇太子”であったということになるでしょう。しかしながら、元々はヌルハチは元妃・トゥンギヤ氏所生のチュエン、ダイシャンを後継者と目していたらしいことは《満洲老檔》はじめ当時の記録を見ると明らかですし、むしろ四大ベイレの中ではアンバ・ベイレ=ダイシャン、アミン、マングルタイに比べても一番立場が弱かったと言われています。つまり、必ずしも太宗=スレ・ハンはヌルハチの後継者として目されていたわけでは無いわけで、即位後は正にその正当性を主張していく事に躍起になるわけで、盤石な状態で権力継承が行われていたわけではありません。
 という所で、杉山センセの本の引用です。

 ホンタイジについて常に語られるのは、その名が「皇太子」に由来すると言うことである。ホンタイジという語の語源は漢語の「皇太子」であると言われるが、漢語から直接入ったものではなく、漢語起源のモンゴル語「ホンタイジ qong tayji」に由来するのは確実である。彼がその名のゆえに元来意中の後継者だったという憶説や。予言的な符合であるという公式資料の評言は、もとより取るに足らないが、そもそもこの「ホンタイジ」が、実は本名ではなかったとみられることが、夙に指摘されている。すなわち三田村[一九四二:一四頁]によれば。明の陳仁錫「山海紀聞」に「喝竿」、朝鮮『仁祖実録』に「黒還勃烈」とあって、本名はヘカン、ホンタイジは通称だというのである。三田村は、モンゴルにルーツをもつイェヘの王女の所出ゆえに、「モンゴル王子」という意味で通称されたものと推測しており、また李光濤[一九四八]は、その登位を正当化するために即位後に自称したものと説く。i

 と言うコトで、三田村泰助の古典的研究について触れられてますね…(李光濤論文については手続きすれば見られそうなんですがねぇ…)。と言うワケで、京大のサイトでその論文iiのPDFが公開されているので、見てみましょう。

然し本當の名は皇太極ではなかった様である。 明の陳仁錫の山海紀聞によると「黄旗下是喝竿汗。老奴第四子也。老奴死。喝竿立。奴衆稱爲汗」とある。この通りであれば太宗の本名は皇太極でなくては喝竿hekanといふ事になる。この事實は先年和田先生から教示されたのであつたが私は他に證據がないので少しく疑問を抱いて居たが、今度李朝仁祖實録を見ると、太祖の没した時にこの前後の情報を齎した平安監司の馳啓がのせてあつてその文中「奴酋死後。第四子黒還勃列承襲」と記して居る。黒還勃列はhekan beile(貝勤)で陳仁錫の記述に合する事になり太宗の本名は通説の皇太極でなくてへカンである事が確かめられた。さうすると皇太極はどうなるか。この名稱が當時建州内部で用ゐられて居た事は確かで朝鮮の記録に洪大主・弘太市・紅歹是と冩して居る事によつて知り得る。その故にhongtaijiは太宗の通稱であつたらうと思ふ。この言葉は元來蒙古語から轉化した詞で、蒙古では王族の子弟を指して用ゐた言葉で王子の意味である。太宗が特にホンタイジと呼ばれる理由はあるので、彼の母の姓葉嚇納喇氏で名は蒙古哲哲Monggojeje(mongoは蒙古、jejeは姐姐音冩)と稱した。彼女の里方の葉嚇納喇氏はその始祖は土黙特tumet姓の蒙古人で、それが海西女直族の納喇氏を滅しその姓を冒したので謂はゞ蒙古系女眞貴族の家柄である。従ってモンゴジエジエ生む所の太宗を建州部衆が本名へカンを云はずに蒙古の王子を意味するホンタイジを以て呼び慣はしたものと考へられる。既に記した如く常時の女眞族上流社會は蒙古文化が風靡したのであるからこの通稱から推察すると、太宗の貴公子振りはその出自教養武勇等、凡ての點で太組の他の諸子を凌いだ壓倒的存在で修った事が窺へよう。そして太宗の中の文字の素質は一面母の系統を受けついだものと思へる。

 と、太宗=スレ・ハンの母親がモンゴル色が説くに強いイェヘ出身であったことから、モンゴル王子の意味でホンタイジという通称で呼ばれたのではないか?という説ですね。これはこれでありそうなんですが、いやそれはしかし…と、結構黙殺されてはいたんですよね。他に太宗の本名がヘカンだった説を推してる学者さんも見たこと無いです。で、杉山センセはサラッとこの説を又引っ張り出して、肯定してるんですよね。

 このことはその後はほとんど深められていないが、あらためて確認すると、ヘカンという名を記す記事は、同時代の明・朝鮮史料にかなり見いだすことが出来る。それらは全て名をヘカン、元来の地位をベイレないし第四ベイレと伝えており、それらの記事に併載される情報の精度も高いことから、信を置くに足るものと判断されるのである。したがって、残念ながら正確な語と語義は不明だが、ホンタイジが本名でなかったことは確実と思われる。iii

 と、折角表になってるので、引用しておきましょう。
表4-1 「ヘカン」名記載記事一覧(P.224)

1626年奴酋死後。第四子黒還勃列承襲。朝鮮『仁祖実録』巻14、天啓六年十月癸亥条三田村[1942];李光濤[1948]
1626年(1642年述)六年八月、奴児哈赤死、其四子河干貝勒立。銭謙益「特進光禄大夫左柱国少師兼太子太師兵部尚書中極殿大学士孫公行状」『牧斎初学集』巻47上
1630年(1642年述)奴四酋河干貝勒、傾巣入寇、偽二王子安明貝勒居守瀋陽。銭謙益「特進光禄大夫左柱国少師兼太子太師兵部尚書中極殿大学士孫公行状」『牧斎初学集』巻47下己巳の役(1629-30)で河北に親征した際の記事
1629年四月間、四憨掲竿先至。『国榷』巻90、崇禎二年三月条同上
1630年頃号憨者主也。[四男、名喝竿。称憨不出戦]
一、黄旗下是喝竿憨。老奴第四男也。老奴死。喝竿立。奴衆稱爲憨、偽号後金国皇帝。倒黄旗、則喝竿之頸可繋、頭可献。内有黄心紅辺者、台吉超哈貝勒乃喝竿之男。
陳仁錫「山海紀聞」『無夢園集』三田村[1942]
1641年建主喝竿以三千騎来援。『国榷』巻97、崇禎十四年八月辛酉条

 探せばもっと出てきそうですね…。で、そんじゃホンタイジってどう言う名前なの?って言うことが続きます。

 では、そのホンタイジとはいかなる名であろうか・先学がこれを通称や自称のように述べる点については、再検討の余地がある。ホンタイジなる名は、「洪大主」(『光海君日記』)、「紅歹是」(『建州見聞録』)、「黄台住」(『遼夷略』)などと伝えられており、異なる情報源をもつ複数の外国人が記す以上、公的な場で用いられていたはずであるから、単なる通称ではなく、ヌルハチが授与した称号とみなくてはなるまい。この点について少し検討したい。iv

 確かにただの通称を複数の外国人が記述するのは不自然…と言うコトで、更に続くわけです。

賜号を持った形跡のない三兄マングルタイがベイレないしタイジと称される一方で、ホンタイジがベイレなどを附称することなく並記されており、また、これらを載せる『原檔』「荒字檔」では、長兄チュエンは「argatu tumen」、次兄ダイシャンは「guyen baturu」と、両者とも概ね称号で記されている。これらの用法からすると、「ホンタイジ」は、アルガトゥ=トゥメンやグェン=バトゥルと同様の、ヌルハチによる賜号と判断するのがするのが適切と思われる。『原檔』では一見ホンタイジが呼び捨てに見えるのに対し、マングルタイがベイレ号ないしタイジ号を附称されるのは、むしろ「ホンタイジ」が称号であって、マングルタイには賜号がないゆえに実名に連称されたものと解することができよう。v

 ホン=タイジがアルガトゥ=トゥメンやグェン=バトゥルと同じくモンゴル由来の称号だというのは、なる程筋の通った論ですね。

 以上の論と既知の情報を整理してみると、次のようになる。
本名      :ヘカン
即位前の称号  :ホンタイジ hong taiji(一六〇七~一二?~)・四(ドゥイチ)ベイレ duichi beile(一六一九~二六)
君主としての尊号:スレ=ハン sure han(一六二六~三六)
         →寛温仁聖皇帝(ハン) gosin onco hūwaliyasun enduringge han(一六三六~)
 ただし、称号や尊号をとることは漢字圏でも非漢字圏でも珍しいことではないが、君主の実名は忌避すればよいのであって、記録は残る。ところが、実名の忌避にとどまらず、本名を記録から抹消してしまった(とみられる)ことは、ホンタイジの特異な点であり、また彼の人物と施策を考える上で考慮しなければならない点であろう。vi

 ホントに太宗=ホンタイジって陰険で嫌な感じする人なんすよなぁ…。まぁ、イモっぽいヘカンよりホン タイジっていうモンゴル的に洗練された名前で呼ばれたかった厨二キャラという線もありますが…。

  1. 『大清帝国の形成と八旗制』P.223 [戻る]
  2. 再び清の太宗の卽位事情に就いて『東洋史研究』7巻1号 [戻る]
  3. 『大清帝国の形成と八旗制』P.223~224 [戻る]
  4. 『大清帝国の形成と八旗制』P.224 [戻る]
  5. 『大清帝国の形成と八旗制』P.225 [戻る]
  6. 『大清帝国の形成と八旗制』P.228 [戻る]

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