李自成─駅卒から紫禁城の主へ その2

 と言うワケで、佐藤文俊『李自成─駅卒から紫禁城の主へ(世界史リブレット人041)』山川出版のメモ第二弾です。大まかなところは面白いのですが、細かく調べると多分あの辺りとかこの辺りとか違うんじゃないかなぁ…という予感は有るものの、おもろいです。

◇掌盤子勢力の変質
イナゴ戦法⇒都市支配維持、掌盤子の集合体⇒大掌盤子(李自成、張献忠)への集権体制
革左五営⇒安徽・湖北・河南境界の山岳地帯を拠点とした陝西出身の有力五代掌盤子:馬守応(綽名:老回回)、賀一龍(綽名:革里眼)、賀錦(綽名:左金王)、劉希堯(綽名:争世王)、蘭養成(綽名:治世王)
李自成は崇禎16(1643)年1月に開封戦に勝利すると掌盤子の盤踞を禁じ、襄陽を襄京と改め、旧襄王府宮殿で奉天倡義文武大将軍を自称した。
掌盤子の羅汝才、賀一龍、馬守応らこれに従っては李自成を盟主としたi
しかし、同年3月~4月には李自成は掌盤子解体に反対した賀一龍と羅汝才を殺している。掌盤子が皆殺されたかというとそうでもなく、賀錦、劉希堯は積極的に李自成政権に高級武官として参加した。
元々、粗食粗衣で兵士と苦楽をともにするタイプの李自成と、美食を好み綺羅を着て妻妾を幾人も侍らせる羅汝才とはそりがあわなかったとも言われている。
羅汝才らの掌盤子は混乱をきたし、官軍に降る者が多かった。また、李自成勢力の高級武官となっていた馬守応は羅汝才の殺害を知ると、李自成の帰還命令を拒否して張献忠に合流した。
掌盤子の解体と再編に一段落した李自成は5月に新順王を名乗った。
この頃から六政府(六部)を中心とした中央政権を整備し、進士、挙人を中心に知識人も大順政権に参加した。
掌盤子を解体し、田見秀と劉宗敏を指揮官として軍隊を再編したが、本営は中営(老営)、左営、右営、前営、後営の五営なのは変わらなかった。

◇大順政権の発足
陝西地方に入った大順勢力は各都市を陥落させ、投降を呼びかけ降った者は登用した。その中には、かつて李自成を裏切って明に降った白広恩や、李自成の左目を射貫かせた陳永福もいる。
崇禎17(1644)年1月1日、湖北西部、河南ほぼ全域、甘肅、陝西全域を勢力圏に入れた大順政権は西安で建国を宣言し、国号を大順、年号を永昌とした。
西安を長安と改称し西京とし、秦王府宮殿を皇帝の居所と定めた。始祖を西夏建国の基礎を築いた李繼遷とし、曾祖以下に追尊して妻の高氏を皇后に封じた。
建国宣言の後、大順東征軍は三路に別れて北京を目指して進軍し、行く先々で、降伏すれば攻撃せず官戸を開いて税を免じると触れ回った。多くの都市は戦わずに降っている。
李自成、劉宗敏らの第一隊は寧武関で頑強な抵抗に遭ったので、大同、太原など武力拠点を落とすのは困難と一事西安に戻ることが、大同総兵・姜瓖ii、宣府総兵・王翔胤が投降表を届けに来たため、東征を続行することになった。
彼我の戦力差を感じ取った明官軍はこれ以降、戦わずして降ることが多くなる。

◇崇禎帝の断末魔
マンジュでホンタイジが崩御して6歳のフリンが継位したことを知ると、崇禎帝は皇位継承の混乱に乗じようとしたが、ドルゴンが予想外に政権を掌握していたため果たせなかった。
大順政権の東征を知ると、崇禎17(1644)年1月、南京遷都を討議させたが北京で社稷を死守すべしと言う意見が優勢を占めて遷都は頓挫する。
更に大学士・李健泰に崇禎帝の代わりに親征を行う督師として権限を与えて征西させたが、李健泰は同年3月には保定で大順勢力に投降し、逆に北京攻めの水先案内人として北京に帰っている。
また、同じく1月、寧遠城にいた遼東総督・呉三桂を精兵5千とともに、寧遠城を放棄して山海関に移そうとしたが、協議に時間を要して結局、3月6日に実施している。
それに先立つ3月4日には、呉三桂を平西伯に封じたのを初め、東北辺境の将軍達を封爵している。
しかし、大順勢力が北京に迫ると呉三桂は間に合わず、同僚の薊鎮総督・唐通は駆けつけたものの、3月15日、戦わずに李自成に投降している。
3月17日、大順勢力は北京城下に到達し、大順側から崇禎帝に割地と崇禎帝の退位を条件とした降伏勧告がされたが、3月18日夜になっても返答がなかった。大順軍は北京攻撃を開始し、北京城はあっけなく落城した。
翌3月19日正午頃、李自成は徳勝門から北京に入り、承天門(天安門)で門額「奉天承運」の”天”の字を狙って弓を射かけたが、矢は字の右下に当たった。
崇禎帝は皇太子・朱慈燎と永王、安王の二人の息子を城外に脱出させたが逃げ切れずに李自成の入城を他の官僚たちと共に迎え、劉宗敏預かりとなっていた。
また、崇禎帝も変装して北京を脱出しようとしたが、城門で阻まれて失敗している。百官を集めるための鐘を鳴らすも集まったのは太監・王承恩のみで、遂に万歳山(景山)で崇禎帝は首を吊って自殺し、王承恩も後を追った。
二日後の3月21日に二人の遺体は発見されたが、東華門外に遺体は晒された。
明遺臣の訴えで4月になってようやく崇禎帝と周皇后の亡骸を昌平県の明陵墓に葬られ、王承恩の墓もその傍らに作られた。
順治2(1645)年に王承恩墓の横に順治帝名義の石碑が建てられたiii

◇大順政権の北京
それまで大順勢力は占領した都市では反乱を警戒して民家を摂取することなく城外にテントを張っていた。
しかし、北京を占領すると大順政権の高級武官は明の大官邸宅を摂取し、文官は富裕層の民家を摂取、一般兵士は民居に分居した。
どうやら、命令系統に沿った占拠ではなく、場当たり的な摂取だったようで市民と兵士のトラブルは増加した。
傘下に収めていない地域の支配を見据えて、明の官僚を登用を決めたようだが、三品官以下に限定した。
三品以上の大官は重税を掛けて財産を奪い、規定の額に満たない者や財産の供出を拒否した者は徹底的に拷問を行って財産のありかを吐かせた。
また、拷問によって刑死する者が多かった。更に皇族に関しては制限を設けずに財産と生命を奪った。
流石にまだ決着の付いていない呉三桂と北京市民の反感を考慮して、4月8日には李自成は劉宗敏に拷問を中止させている。

長くなったので分けます。

  1. もっとも羅汝才は代天撫民威徳大将軍と自称して李自成もそれを許した [戻る]
  2. ちなみにこの後、姜瓖は清の入関後、李自成を追うアジゲに投降して李自成を追い詰め、その後アジゲが軍を引き連れてハルハ部に備えるために大同に駐屯すると清に反旗を翻している。ドルゴンはこの反乱を重視し自ら鎮圧に向かっている。最終的には姜瓖は部下の反乱に遭い殺され、アジゲによって大同は落とされている。 [戻る]
  3. 当時はまだ遷都がされていないのでドルゴンの独断だと思われる [戻る]

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