順治帝の廃后とドルゴン

 陳捷先《順治寫真》遠流出版 のメモ。今回は順治帝の皇后廃立のこと。

 順治帝の廃后=靜妃は順治8(1651)年に皇后に冊立されますが、早くもその二年後には皇后の廃立が取りざたされます。実録を見るとこんな感じデス。

(順治十年八月)丁亥。大學士馮銓、陳名夏、成克鞏、張端、劉正宗奏言。「今日禮部諸臣、至內院恭傳上諭。察前代廢后事例具聞、臣等不勝悚懼。竊惟皇后母儀天下、關系甚重。前代如漢光武、宋仁宗、明宣宗、皆稱賢主、俱以廢后一節、終為盛德之累。望皇上深思詳慮、慎重舉動。萬世瞻仰、將在今日。得㫖、關系至重。宜慎舉動。」果如所言。「皇后壼儀攸系。正位匪輕。故廢無能之人。爾等身為大臣、反於無益處、具奏沽名。甚屬不合。著嚴飭行。」i

 《順治寫真》を参考にザッと訳すと…順治10(1653)年8月丁亥(26日)、大学士・馮銓、陳名夏、成克鞏、張端、劉正宗らが「今日、礼部の諸臣は内院に到りて上諭を恭しく伝えましたが、察するに歴代廃后の故事についてお尋ねとのこと、臣等は恐懼いたしました。皇后は天下の母ですから、非常に重い存在です。たとえば後漢の光武帝、北宋の仁宗、明の宣宗などの例は皆賢主でありましたが、皇后を廃立したので遂に徳が絶えてしまったのです。皇上は深慮を巡らして、軽挙を慎まれて下さい。陛下の声望が決まるのは正に今日この時なのです。皇后という存在は甚だ重いのです。軽挙を慎まれるよう。」と、このように言った。順治帝は「皇后は壼儀を納めていればよいので、その地位は軽いものだ。無能の人ゆえに廃するのだ。汝らは大臣のくせに、無益なことで反対し、古くさい名分論を持ち出すか?甚だ不合理である。」
 壺儀が何を指すにか調べが付かなかったんですが、要するに大臣達が軒並み反対しているのに、順治帝は聞く耳持たず、皇后は無能だから廃立すると言う点では変わりませんね。ともあれ、順治帝は皇后の廃立という国家の一大事を思い立ち、故実を調べよ…という形で大臣達に相談したところ、全員一致の大反対にあったと言うコトですね。
 更にその二日後の話も《世祖実録》にあります。

(順治十年八月)己丑。諭禮部、「朕惟自古帝王、必立后以資內助。然皆慎重遴選、使可母儀天下。今后乃睿王於朕幼冲時、因親定婚。未經選擇。自冊立之始、即與朕志意不協。宮閫參商、已歷三載。事上御下、淑善難期。不足仰承宗廟之重。謹於八月二十五日、奏聞皇太后。降為靜妃、改居側宮。」ii

 順治10(1653)年8月乙丑(28日)、順治帝は「朕は古からの帝王を思い起こすに、必ず后の内助の功があったと考える。しかるに皆は慎重に過ぎ、何かと言えば”母儀天下”と言う言葉を振りかざす。今の皇后は朕が幼い時に、睿王=ドルゴンが自分と近しいものと決めた婚姻であって、朕の選択を経ていない。その皇后ときたら、冊立されてから朕とは心がかけ離れていて協力しようともしない。宮廷に来てからすでに三年経とうというのに、朕に仕えて叔徳を旨とするわけでもない。宗廟に祀られる様な人物ではない。8月25日にすでに皇太后には報告済みだ。皇后を靜妃に降格させ、居所を(皇后の住居である乾清宮から)側宮に移せ!」と礼部に命令された。
 8月26日に大臣達に廃后の故実を調べさせる前に、すでに8月25日の段階で皇太后=孝荘文皇后・ブムブタイには廃后のことを相談というか通達していたわけですね。順治帝の廃后は孝荘文皇后の兄であるジョリクト親王・ウクシャンの娘ですから、順治帝にとっては母方の従姉妹に当たります。ホルチン閥ど真ん中の女性ですから、当然孝荘文皇后の肝煎りです。しかし、最初は無能だ何だと言っていたんですが、要するにドルゴンが選んだ皇后だから気に食わない!と言って、史書の上では3日くらいで廃后してます。他の例を詳しく知っているわけでは無いんですが、いくら何でも早すぎませんかねぇ…。

 で、この記事見つけるときに、目に入ったのですが、こんな記事が…。

(順治十年八月)丁丑。先是、睿王多爾袞專政。潛有異志。上嘗幸睿王邸第、隨駕內大臣、及侍衛等、不及二十人。一等侍衛喀蘭圖聞之。懼有叵測。急歸家。挾弓矢追從、密為防衛。至是、上嘉其忠誠不怖死、特賞十丁之莊一。鞍馬全副。銀五百兩。升二等阿達哈哈番、為一等阿達哈哈番。iii

 順治10(1653)年8月丁丑(16日)、かつて睿王ドルゴンが専権を振るっていた頃、密かにドルゴンは逆心をもって居た。順治帝が睿親王府に行幸される時、一行は内大臣や侍衛など20人に満たない人数だった。一等侍衛ハランドゥ?(喀蘭圖)はコレを聞くと、もしものことがあることを恐れた。急ぎ家に帰って弓矢を担いで一行を追いかけて、密かに隠れて一行を守った。この時、陛下はこの死を恐れぬ忠義をよしとして、特に賞して十丁の荘園を一つ、鞍を付けた馬、銀五百両を与え、二等アスハン イ ハファン(ashan i hafan 男爵)から一等アスハン イ ハファンに昇格させた。
 どうやら廃后の十日前くらいにドルゴンについて何らか思い出すことがあり、ドルゴンの見舞いに行った際にストーキングしてきたヒヤ(侍衛)を取り立てて、それでも気が済まなかったのか、ドルゴンが勝手に決めた皇后を廃立することを思い立ったようですね。もう、2~3年経ってるのに…と言ってもこの頃は順治帝はまだハイティーンですから、まぁ、仕方なかったのかなぁ…と言う気もしますが…。
 それにしても、順治帝のドルゴン絶対ゆるさねぇ!は、廃后にまで及んでいたと言うことですね…。この後、順治11(1654)年5月に迎える孝惠章皇后もホルチン王家の出身ですが、ウクシャンとブムブタイの兄・マンジュシリの孫娘です。ウクシャンの娘である廃后と比べると、孝荘文皇后とは少し血縁が遠くなります。で、自分で選んだ孝惠章皇后にも見向きもせず、結局、順治帝は賢皇貴妃ドンゴ氏=孝獻端敬皇后に首ったけだったわけで……。本音と建前が分からないわけでは無かったのに、やっぱりドルゴンだけは許せねぇ…と言うコトなんでしょうねぇ…。

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