ソグド陰謀論

 宣和堂は以前、どこかで「アッバース革命と安史の乱は両方ともソグドの陰謀」みたいな説を何かの概説書で読んだ記憶があったモノの、どの本に書かれていたのかをど忘れしてしまい、悶々とした日々を過ごしてました。流石にこんな突飛な説を、自分で思いつくわけもないし、どこに書いてあったのか……本棚に立って本を捲ってはこれも違うアレも違うと、捜索する度に発見に到らずなんだっけどこだっけとウンウン唸っていたわけです。ソグドと言えば、森安孝夫センセの『シルクロードと唐帝国i』だっただろうか?それとも、森部豊センセの『安禄山ii』だったか…。でも、この二冊を手に持って何度頁を捲ってもソグド陰謀論は出てきませんでした。

 うむー…どこで読んだんだろう…考えても思い出せないので暫く放っておくことにしました。と、暫く立ってからやんごとなき事情で本棚を整理しているときに、ふと、久しぶりに我等が杉山正明先生の『疾駆する草原の征服者iii』を手にとってパラパラ見たところ、あれ?これじゃん?と思う間もなく、ビックリする程ボロンと出てきました…ソグド陰謀論。手に取ったときに何となくあれ?と言う予感があったんですが、やっぱり、このセンセが仰ってたんですね…!ww

 と言うワケで、備忘録的に長めの引用です。

 これでも事態はなお、あくまでアジア東方域にとどまるかに見える。しかし、それよりさらなる大きな地平が、かかわっていた。安禄山の没後、その衣鉢を事実上で継承した史思明の新国家運動も含めて、従来「安史の乱」と中華風に呼ばれる動乱とその余波のなかで、ティベット高原を中心に「王国」とも「帝国」ともいわれる領域を形成していた吐蕃、すなわちトゥプトは、混乱を衝いて西から迫り、長安をしばらくながら占領した。唐が有名無実となっていることは、もはや誰の目にもあきらかだったのである。
 ところが、もっと西からの波があったらしい。安・史の動乱において、アラブの軍兵が唐側に参陣していたというのである。漢文史料、すなわち唐側の記録にしるされる断片的な記事をよりあつめ、当時の中東イスラーム情勢とも睨み合わせながら、この新見解を提出したのは、中央アジア・中東の歴史をインド亜大陸をも視野に入れつつ研究する稲葉穣である。(中略)
 さらに、この前後で注目すべきは、中東イスラーム世界で大激震がおきていることである。すなわち、ウマイヤ朝に対する抵抗運動というか、「反乱」がおこり、それが成功してアッバース朝という名の新型権力が出現するのである。預言者ムハンマドの叔父に当たるアッバースという人物の血を引くイブラーヒームなるものが、シーア派の支持をとりつけ、反ウマイヤ運動の指導者となった。それを機に、東部イランのホラーサーン地方への工作が盛んになされた。イラン人の解放奴隷アブー・ムスリムが送りこまれ、アッバース家の正当性が宣伝された。
 かくて、ホラーサーンのイラン系の人間を中心とする革命軍が組織され、一気にイランの地を席捲してイラクに侵攻し、ウマイヤ朝の軍団を撃破した。革命は成功し、七五〇年、サッファーフ初代のカリフとするアッバース朝が成立した。ちなみに、かのタラス河畔の戦いは、その翌年というまことにあわただしいなかで起こったことであった。
 世界史上に名高いこの変動については、五年後に東方で勃発する安禄山の新国家運動とのかかわりが、おのずから浮上してくる。ともに、イラン系のものたちが主体となって起こした革命運動だからである。両者の連関を直接に語る史料は、今のところ見当たらない。しかし、ホラーサーンは、かつてアラブ・イスラーム軍の侵攻にサーサーン帝国が崩壊するさい、その王族・貴族を中心とする「亡命政権」が形成されたところである。結局は、それも維持できずに、さらなる東方へ、大量のイラン系の人びとが到来することとなる。唐朝治下のイラン風文化の流行は、もともとあったイラン系・ソグド系の基礎のうえに、ササーン帝国の解体という大波がくわわったものであった
 くわえて、アッバース革命をになった「張本人」ともいうべきアブー・ムスリムは、革命の成功後もホラーサーンを握って、独自の「王国」をつくっていた可能性が高い。バグダードの新カリフ政権の力は、ほとんど及ばないに等しかったと考えられる。イラン系の人間を中心とするこの「ホラーサーン権力」が、アム河から東の旧ソグド地域を含む中央アジアに対して。はたしてどれくらいの影響力をもったのか、残念ながら定かにはわからない。唐に参陣した「アラブ兵」の素性も、混沌たるその渦のなかに求められるのだろう。
 西のアッバース朝の出現、東の安禄山・史思明の新国家運動──。西は成功し、東は失敗するかたちとなった。だが、アジアの東方も、中東・北アフリカも、新しい時代の扉がともどもに開かれてゆく。その東西の連動現象は、東西の文献資料の狭間に入りこんで確たる証拠は残念ながら見出せないが、歴史上のきわめてありうべきこととして、わたくしたちに投げかけられている。iv

 安史の乱とアッバース革命を「ともに、イラン系のものたちが主体となって起こした革命運動だからである。」…と表現して、ソグド・イランネットワークが、さも唐からアッバース朝まで隈無くカバーしているかのように語りながら、「両者の連関を直接に語る史料は、今のところ見当たらない。」…要するに、思いつきで言っているので根拠が無いがないことを認めてるわけです。寝言は寝てから言うべきです。更に、「西のアッバース朝の出現、東の安禄山・史思明の新国家運動──。西は成功し、東は失敗するかたちとなった。(中略)その東西の連動現象は、東西の文献資料の狭間に入りこんで確たる証拠は残念ながら見出せないが、歴史上のきわめてありうべきこととして、わたくしたちに投げかけられている。」と、締めくくっていますが…いや、見えないよ!そんな連動ないよ!ソグドがイラン系ってだけで、どんな秘密結社がユーラシアの東西に蔓延ってることにされてるんだよ!
 先に挙げた『唐帝国とシルクロード』や『安禄山』でも、ソグドネットワークが意外にも中国本土に深く入り込んでいたこと、ソグディアナ(トゥラーン=マー・ワラー・アンナフル)までのネットワークが商隊によって維持されていたと言うことが紹介されています。しかし、ソグディアナとホラーサーンが連携していたなんてことは杉山センセ以外に主張されている方はいないんじゃないでしょうか…。確かに、ソグディアナとホラーサーンは隣接してます。しかし、同じイラン系ではありますが、ムスリム化しているアッバース朝と非ムスリムのソグドという、宗教の異なる別集団であったわけです。ソグドがアッバース朝治下に入った途端、五年かそこらで安史の乱をプロデュースできるような強固なネットワークが構築されていた…とは、自分は信じられません。もし、はなからソグドがアッバース革命を引き起こす側にいたのだとしたら、最初からソグドは人材なり資金なり兵力送るなりしてるでしょう。それに、革命がなった時点でもう少し分かりやすい動き方するのでは無いでしょうか…。そもそも、ソグド自体もタラス河畔の戦い以前は、唐の庇護下にある都市国家群ですから、一枚板の統一国家では無いわけです。どうやって意思統一して東西で革命を引き起こすことが出来たのか?もし、どこかの都市国家のみが単独でアッバース革命と安史の乱を計画したというなら、それはどの国なのか?何故可能だったのか?考えれば考える程、謎が倍々バイバインです。
 要するに、東西で革命を起こそうとするソグド・イランネットワークなんていうものは妄想の類です。酒の場の冗談なら面白いんでしょうねぇ…。年代の近い別の地域で起こった事件ではありますが、基本的には別々の事件です。あるいは、調査すれば動乱に到るまでの共通項はあるかも知れません。また、時代の潮流という意味での、構造的共通点も発見できるかも知れません。しかし、基本的には意図したモノでは無いはずです。偶然でしょう。

  1. 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』講談社 [戻る]
  2. 森部豊『世界史リブレット人018 安禄山―「安史の乱」を起こしたソグド軍人』山川出版社 [戻る]
  3. 杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者 ─遼 西夏 金 元─』講談社 [戻る]
  4. 杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者 ─遼 西夏 金 元─』講談社 P.54~57 [戻る]

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