ドルゴンの印璽

 と言うわけで、前回触れた大将軍号印の話から、今回はドルゴンの入関前後からの勅書に捺印される印璽の話です。
 まず、「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」という論文から長めの引用です。

hese be aliha amba cooha i ejen「hese be aliha amba coohai ejen」

一方、崇徳八年(1643)に太宗のホンタイジが没すると、ドルゴンは幼少の順治帝を擁立し、鄭親王のジルガランとともに輔政王として攝政に就任した。そして、明攻略事業の主役であった攝政王ドルゴンは、しばしば降伏を勧める詔勅を出したが、その文書にはなんとホンタイジが、和碩睿親王ドルゴンに[奉命大将軍]と称号を授け与えた[hese be aliha amba coohai ejen]という勅印が使われていた。本来なら詔勅には[制誥之寶]や[皇帝之寶]を捺すべきであるが、それにふさわしくない「官印」を用いたことには違和感があろう。しかも、攝政王ドルゴンは次に列挙するように、意識的に印を使い分けていることがわかる。

ⓒ 勅諭都督府都督僉事孔希貴、茲以定鼎燕京、薊鎭爲畿輔要區、建威銷萌亟需彈壓、特命爾充總兵官、鎭守薊州等處地方。(中略)。順治元年九月十一日。※印[hese be aliha amba coohai ejen]。
ⓓ 皇帝勅諭衍聖公孔興燮。(中略)。順治六年十二月十一日。※印[制誥之寶]。
ⓔ 大淸國/攝政王令旨諭都司徐標・沈高簡等。(中略)。順治元年八月十八日。※印[hese be aliha amba coohai ejen]。
ⓕ 攝政王令旨諭諸王及大臣知悉。(中略)。順治元年五月 日。※印「なし」。

以上、例のⓒは、明の総兵官である孔希貴を薊鎮の総兵官に任命した勅諭であり、勅諭といっても年月日に捺されたのは印璽ではなく、官印の[hese be aliha amba coohai ejen]であり、同様にⓔの「大清国攝政王令旨」にも使われていた。一方、ⓓは衍聖公に下した勅諭であり、衍聖公とは山東省の曲阜にあって歴代王朝から尊崇を受けていた孔子直系の子孫のことで、いわば中華の精神文化の伝統を象徴する身分である。これに対して用いるのは、清廷が自ら刻した印璽ではなく、天の命の象徴として有徳の王者のもとに帰した「伝国の璽」こそふさわしいと考えたわけである。つまり、衍聖公に下した勅諭には上述した漢文のみの[制誥之寳]が使われたことがわかる。i

 と言うわけで、入関作戦前にドルゴンが詔勅を降した…と書いてる割に、日付がないのでよくわかりません。順治元(1644)年4月以降はドルゴンは正式に奉命大将軍に任命されていますから、”hese be aliha amba coohai ejen”印を使用していても、それがホンタイジが崇徳3(1638)年にドルゴンが任命された時に使用していた印だとしても、再任されているわけですからまた意味が違うのではないかと思うんですけどねぇ…。
 ともあれ、ドルゴンは崇徳末年には吏部管理部務王であったので、吏部印(hafun i jurgan i doron)であってもいいんじゃないかと思うんですが、やはり、奉命大将軍印(hese be aliha amba coohai ejen)である点は注意を要する点かもしれません。

hafun_i_jurgan_i_doron「hafun i jurgan i doron」ii

 一方、ⓕは、対内の諸王や大臣等に出した「勅諭」であるが、奇妙なのは年月日は書かれているのに、印を用いていないことである。かつて今西春秋は、「勅諭として全然体を成さぬことである。漢文の終わりにも、又満文の終わりにも、全く日付の記入が無い。日付の下部に押捺さるべき最も重要な印璽が無い。謂わば正式の勅諭として発令されたものではない」と述べている。これは順治六年(1649)正月八日に『太宗実録』の編修のために、内三院の大學士であるガリン(剛林)や甯完我等に下した攝政王の「勅諭」である。確かに、その後の甯完我や洪承疇に下した「勅諭」も公刊されたものを見る限りでは、今西春秋が指摘したように、満漢合璧の形で日付と印璽が、いずれも用いられていないことは明らかである。当時は公表された史料に限りがあるから、正式の勅諭ではないと考えたのは当然なことだろう。
 ところが、ⓕの場合は、「攝政王」は「天」より一文字を下げているのに対し、実録編修の勅諭の冒頭の「皇父」は、太宗と同じく二文字を抬頭し、また先述した順治七年(1650)十二月二十日の「皇父攝政王多爾袞喪儀合依帝礼詔」は、「皇父」を「天」と「太宗」とともに二文字抬頭する一方で、「皇帝」の方はかえって下げられている。「皇父」を加えるだけで勅諭に変化が表れていることがわかる。そもそも対外的には攝政王の勅諭であれば、ドルゴンは自らの将軍官印を捺していたにもかかわらず、「皇父」になると日付から印まで存在せず、正式の勅諭ではないように思わせた理由は何なのだろうか。ここに、時間と空間をこえた歴史考察の難しさがある。
 こうしてみると、すでに片岡一忠(2008)は、「攝政王令旨には北京入城以前から押印がない」と指摘していたが、しかし、ⓔのように将軍の官印が捺されたとすると、必ずしもそうとも言えないことがわかる。とりわけ、冒頭に「勅諭」と「大清国攝政王令旨」とある場合には、将軍の官印を使用しており、それは、フリン(福臨)は幼少で即位したため叔父のドルゴンが攝政王、ジルガランが輔政王となり、しかも、明攻略事業と北京遷都など初期草創期において、ドルゴンが国政の最高権力者として存分に活躍し、入関前後の多難な政局の運営に当たって、そのとき最高の権力の所在を示すのがほかでもないこの官印なのである。例のⓒとⓔとはそうした状況の証左ともいえる事例だろう。iii

 と言うわけで、睿親王なり皇父摂政王なりそれに即した印璽もあったはずですが、檔案などで認められるのは奉命大将軍印だけのようですね。もっとも、論文で上げられているのは順治元年の詔勅なので、皇父摂政王に封じられて以降の檔案ではないのでしょうから、何とも言えませんが…。論文で上げられている「皇父攝政王多爾袞喪儀合依帝礼詔」はドルゴン死後に順治帝が下した詔勅なので、「han i boobai/皇帝之寶」が捺されていても、ドルゴンが自分で捺すわけはありませんから問題はないことになります。

boobai「gurun be tuwašare doro be aliha wang ni boobai/監国摂政王寳」iv

 上の印は宣統帝・溥儀の父親にして最後の摂政王である醇親王・載灃のものですが、こういう感じの印はドルゴン時代のものは残っていないみたいですね。なんだか奇妙に思えます。ちなみに皇父摂政王は”doro be aliha han i ama wang”なので印文はまた違ってくるはずです。関係ないですけど、奉命大将軍=”hese be aliha amba cooha i ejen”とは”aliha”という単語が共通してるんすな。お気に入りの単語だったんですかね。

 ところで、ドルゴン死後に上げられた罪名として玉璽を自宅に持ち帰った…と言うのがあったので、てっきりそういう檔案があるんだと思ってたんですよね…。

 順治帝をつれて北京にうつったドルゴンは、いまや完全な独裁者になった。彼は皇父摂政王の称号をもち、皇帝の印璽を自分の邸にもちだして政務をとり、いっさいの文章はドルゴンのもとにおくられてその決済をうるようになった。v

 この印璽が「制誥之寶」なのか「han i boobai/皇帝之寶」なのかは不明ですけど、手元にあった概説書『紫禁城の栄光 明・清全史』にもこうあります。念のためにソースを確認してみましょう。

(順治八年二月)癸巳,蘇克薩哈、詹岱、穆濟倫首告故攝政王多爾袞逆節皆實,籍其家,誅其黨何洛會、胡錫。vi

 《清史稿》本紀のドルゴンが罪を問われる記述では、具体的には何も載っていませんね…。

(順治八年)二月,蘇克薩哈、詹岱訐告王薨時,其侍女吳爾庫尼將殉,請以王所製八補黃袍、大東珠素珠、黑貂褂置棺內。王在時,欲以兩固山駐永平,謀篡大位。固山額真譚泰亦言王納肅王福金,復令肅王子至第較射,何洛會以惡言詈之。於是鄭親王濟爾哈朗、巽親王滿達海、端重親王博洛、敬謹親王尼堪及內大臣等疏言:「昔太宗文皇帝龍馭上賓,諸王大臣共矢忠誠,翊戴皇上。方在沖年,令臣濟爾哈朗與睿親王多爾袞同輔政。逮後多爾袞獨擅威權,不令濟爾哈朗預政,遂以母弟多鐸為輔政叔王。背誓肆行,妄自尊大,自稱皇父攝政王。凡批票本章,一以皇父攝政王行之。儀仗、音樂、侍從、府第,僭擬至尊。擅稱太宗文皇帝序不當立,以挾制皇上。搆陷威逼,使肅親王不得其死,遂納其妃,且收其財產。更悖理入生母於太廟。僭妄不可枚舉。臣等從前畏威吞聲,今冒死奏聞,伏願重加處治。」詔削爵,撤廟享,並罷孝烈武皇后諡號廟享,黜宗室,籍財產入官,多爾博歸宗。vii

 ドルゴンの列伝を見ても、ジルガランから恨みがましい感じで、儀仗、音樂、侍從、府第が不遜だった!という告発があったみたいですが、肝心の玉璽のことは触れられていません。

(順治八年二月)癸巳。蘇克薩哈、詹岱、穆濟倫首告睿王薨於出獵之所。侍女吳爾庫尼、將殉葬時。呼羅什、博爾惠、蘇拜、詹岱、穆濟倫五人至。囑之曰。王曾不令人知備有八補黃袍、大東珠素珠、黑狐褂、今可潛置棺內。及回家殯殮時。羅什、蘇克薩哈、詹岱、穆濟倫將八補黃袍、大東株素珠、黑狐褂潛置棺內。又王欲於永平府圈房、偕兩旗移駐。與何洛會、羅什、博爾惠、吳拜、蘇拜等密謀定議。將圈房之人、已經遣出。會因出獵稽遲未往等語。事聞。
上令諸王大臣質訊。時固山額真尚書譚泰、亦首言睿王取肅王妃并令肅王諸子至第較射時、何洛會詈之曰:「見此鬼魁、不覺心悸。」蘇克薩哈告於睿王。王曰:「想彼欲媚我而為是言也。但我之愛彼、更自有在。」貝子錫翰、亦首言何洛會向我言:「上今親政。兩黃旗大臣、與我相惡。我昔曾首告肅王。今伊等豈肯不殺我、而反容我耶。」於是併案會訊俱實。以睿王私制御用服飾等件。又欲率兩旗駐永平。陰謀篡逆。睿王應籍沒、所屬家產人口入官。其養子多爾博、女東莪、俱給信王。何洛會前首告肅王。非肅王有抗上之罪也。肅王以睿王攝政、心懷篡逆。不能隱忍發言。何洛會黨附睿王、乃以首告。彼時即應正法。今複言皇上親政。兩黃旗大臣、與我相惡。必挾仇殺我。罪一。以惡言加肅王諸子。罪一。睿王欲另駐永平時、同與密謀。罪一。何洛會應凌遲處死。籍其家。胡錫、知其兄何洛會種種逆謀、不行舉首。亦應凌遲處死。籍其家。蘇拜、知睿王棺內置黃袍、黑狐褂、東珠素珠、徇隱不首。罪一。睿王欲另駐永平時、同與密謀。罪一。蘇拜、應斬。因先犯死罪、曾蒙聖恩寬宥。仍應免死。奏入。得旨、依議。viii

 で、《実録》確認すると、やっぱり一番詳しいですね。しかし、ドルゴン死後の罪状としてココで上がっているのは、1:勝手に皇帝の専用衣装である黄袍を作らせ、大真珠、黒狐(貂?)のコートと一緒に棺に入れるようにと、侍女であるウルフニ?(吳爾庫尼)を通してスクサハらに指示したこと。2:(本来両黄旗が領有すべき)永平府を両白旗の旗地(圏地)として横領したこと。3:謀反を企んだこと。あとは間接的に、4:ホーゲ未亡人を娶ったこと(ひいてはホーゲを冤罪によって処刑したこと)。あたりが上がっていますが、玉璽を勝手に邸宅に持ち帰ったことは少なくともこの時には問題視された形跡がありません。重大なことだと思うんですけどね…。というか、ドルゴンが玉璽をガメていたとするソースがパッと出てきませんでしたねぇ…。
 それはともかく、ネットなどで見かけてはいたんですが、ドルゴンの娘の名前を東莪とするソースなんなんだろうなぁ…と思ってたんですが、《清世祖実録》のこの記事なんですね。養子である後継者・ドルポとともに信郡王・ドニ預かりになったと言う下りに出てきます。

睿親王取肅親王福金,召肅親王諸子入府校射,何洛會詈之曰:「見此鬼魅,不覺心悸!」尚書譚泰聞其語。及睿親王薨,世祖親政,何洛會語貝子錫翰曰:「兩黃旗大臣與我相惡,我嘗訐告肅親王,今豈肯容我?」八年二月,蘇克薩哈等訐睿親王將率兩白旗移駐永平,且私具上服御,及薨用斂,何洛會、羅什、博爾惠等皆知狀。時羅什、博爾惠已先誅,執何洛會,下王大臣會鞫。譚泰、錫翰各以何洛會語告,又追論誣告肅親王罪,與其兄胡錫並磔死,籍其家。ix

 ホロホイの下りに出てくるフシ?(胡錫)は《実録》ではホロホイの弟になっていますが、《清史稿》ではホロホイの兄になっています。なんにせよ、ホロホイの親族でわかるのは、このフシだけなのかなぁ…と言うことでメモ。

 もっとも、ドルゴン大嫌いの順治帝のことですから、ドルゴンが下した勅書の中で玉璽が捺されていたり、皇父摂政王印に類する印璽が捺されていた档案が棄却された可能性はあるのですが、それなら、「制誥之寶」あたりも棄却されててもおかしくないと思うんですが、どうなんですかねぇ…。

  1. 庄声 「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」『歴史文化社会論講座紀要』 第12号 [戻る]
  2. 《清史図典》第一冊 太祖 太宗朝 P.201 [戻る]
  3. 庄声 「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」『歴史文化社会論講座紀要』 第12号 [戻る]
  4. 《清史図典》第十一冊 光緒 宣統朝 上 P.77 [戻る]
  5. 岡田英弘/神田信夫/松村潤『紫禁城の栄光 明・清全史』講談社学術文庫 1784 P.216 [戻る]
  6. 《清史稿》卷五 本紀五 世祖 福臨 二 順治八年 [戻る]
  7. 《清史稿》卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞 [戻る]
  8. 《大清世祖實錄》卷五十三 [戻る]
  9. 《清史稿》卷二百四十六 列傳三十三 何洛會 [戻る]

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