バトゥ麾下のイギリス人貴族 その3

 ここのところネタにしている、バトゥ麾下のイギリス人将校ネタで取り寄せていた、ガブリエル・ローナイ 著/榊優子 訳『モンゴル軍のイギリス人使節─キリスト教世界を売った男─』角川選書262 が手元に届きました。とりあえず、巻末に上がっているナルボンヌの聖職者イヴォーの書簡を採録したマシュウ・パリスのイギリスの年代記からの引用の中で、件のイギリス人に関連するところを引用してみましょう。

 ダルマチア公は逃げ去る者のなかから八名を捕らえましたが、うち一名はオーストリア侯が見憶えのある男で、イギリス人でありました。さる隠れもなき罪により祖国を永久追放された人物でございます。
 この男はタタールの王の全権大使兼通訳として二度にわたってハンガリー王を訪れ、あからさまに脅しをかけて、王国もろとも一身を投げ出してタタールに臣従しなければ、かならずや災禍に見舞われると警告した由。
 諸侯からタタールについてありのままに述べよと促されると、この男は何の逡巡も見せずに、あらん限りの誓いを立てたうえで、悪魔すら信じさせずにはおかないほどの凜然として陳述いたしました。
 まず最初に身の上について語りました。まだ三十歳にもならぬ青年時代に祖国を追放された直後、アクレで賭事に耽って無一文になり、冬のさなかだというのに、粗末な麻のシャツ一枚と牛革の靴、馬の家のマントが全財産だった由。
 このように屈辱的な窮乏状態に追い込まれ、衰弱しきって道化のように髪を剃り落とされたまま、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、さまざまな国をさすらい歩きました。その間、周囲の人々の親切でかろうじてその日その日の生命を繋ぐことはできたものの、愚かな心の迷いに誘われて、いっそ悪魔の弟子になってしまいたいと軽率にも口にまで出して念じていたそうでございます。
 過労に加えて三度の食事にもことを欠いたまま転々と放浪を続けたのが祟って、やがてついにカルデアで重い病に倒れ、生死の境をさ迷うに至りました。
 もはや先に進むことも引き返すこともできず、息も絶え絶えのままその地に留まるほかありませんでした。ここでも多少とも学問に通じていた素養を生かして人々が話す言葉を書き取りはじめ、後には土地の者かと間違われるほど正確に発音できるようになりました。同じ方法で数カ国語をたやすく身につけたのだそうでございます。
 スパイを通して噂を聞きつけたタタールは、民族をあげての重大な関心事にこの男の目を向けさせ、世界制覇の野望を果す方策を聞き出すや、贈り物を山と積んで忠節を尽さざるをえないように仕向けました。タタール族は通訳にふさわしい人材を確保する必要に迫られていたからであります。i

 ここから分かることは…

①イギリス人はオーストリア侯と顔見知りだったこと。
②イギリス人はモンゴルの通訳兼全権大使としてハンガリー王に二度派遣され、降伏勧告を行ったこと
③イギリス人は祖国を追放されていること。
④イギリス人はアッコで賭事をして全財産すったこと
⑤イギリス人はムスリムの施しを受けて食うや食わずやの生活を送っていたがムスリムには成らなかったこと
⑥イギリス人はそんな中で語学の才能を発揮したこと
⑦イギリス人はモンゴルに才能を買われてスカウトを受けたこと

くらいなことですねぇ…。ドーソン『モンゴル帝国史』の註に有ることは全部書かれていますけど、岡田英弘『チンギス・ハーンとその子孫』に書かれていることは、少なくともイヴォーの書簡には見えません。マグナカルタ云々やイギリス人がバグダードに滞在したかどうか分からないので、これらのことは状況証拠からの推測と言うコトになります。ただ、これも全訳なのかどうか今ひとつ判別しないので保留としたいところですね…。まぁ、『モンゴル軍のイギリス人使節』ではこのイギリス人は、マルコ・ポーロより先にモンゴル本土に行ったことになっていますが、これも眉唾ですね。
 まぁ、『モンゴル軍のイギリス人使節』の原著である”THE TARTAR KHAN’S ENGLISHMAN”は1978年の出版で、『チンギス・ハーンとその子孫』の元になった『チンギス・ハーン』は1986年の出版なので、普通に考えたら、岡田センセの例の記事はこの本を参考にしたのかなという所です。と言うわけで、もうちょっと読んでみます。

  1. P.337~339 [戻る]

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