乾隆帝の生母について─甄嬛のモデル、海寧陳氏の元ネタ─

円明園での一家

 さて、鈴木真センセの新作論文「雍正帝の后妃とその一族i」という論文が学術的に非常に興味深い上にドラマネタ的にも面白い話だったのでメモ。
 で、どんな内容かというと⇒ドラマ《后宫甄嬛传(邦題:宮廷の諍い女)》の中で、正藍旗漢軍旗人である主人公・甄嬛が宮廷から出て道観に出家?して、再度入内する際にニオフル氏に改称するシーンがありました。ドラマ見ていた時には、楊玉環⇒楊貴妃を下敷きにしたのかなぁ…と思っていたのですが、どうやらこれに元ネタがあったようです…。原作小説は清代がモデルではないので、テレビ版がどれくらい意識しているかは分かりませんけど…。


 まず、清朝公式見解における、乾隆帝生母の身の上についての記事を見てみましょう。

孝聖憲皇后,鈕祜祿氏,四品典儀淩柱女。后年十三,事世宗潛邸,號格格。康熙五十年八月庚午,高宗生。雍正中,封熹妃,進熹貴妃。ii

 《清史稿》列傳一では高宗乾隆帝の生母は孝聖憲皇后であり、鈕祜祿氏ニオフル氏の出身で雍正帝生前は熹妃もしくは熹貴妃と呼ばれていた…と言うことが書かれています。と言うわけで、熹妃鈕祜祿氏という理解があればこの時点でよろしいかと。

 で、元々、蕭奭《永憲錄》という序文に乾隆17年の記載がある、康熙から雍正にかけての編年史に以下の文がある事が知られていました。

(雍正元(1723)年十二月)丁卯。午刻上御太和殿。遣使冊立中宮那拉氏為皇后。詔告天下。恩赦有差。封年氏為貴妃。李氏為齊妃。錢氏為熹妃宋氏為裕嬪耿氏為懋嬪iii

 ほぼ同時代史料の記事に熹妃錢氏とされていることが以前から知られていたわけです。となると、乾隆帝は漢人の母親から生まれてきたのでしょうかねぇ?

(雍正元(1723)年二月戊午(二十二日))傳皇太后懿旨。封側福晉年氏為貴妃。李氏為妃。格格鈕氏宋氏耿氏iv

 しかし、これまで《永憲錄》が何故信用されてこなかったのかというと、同じ巻の別の場所にある、ほぼ同じ内容の箇所で錢氏でなければならない箇所が鈕氏とされているからなんですね。清朝の漢文記事ではマンジュ人名や氏族を略して漢字の一字目を取ってくるという記述がままあります。全部書くと長いし画数も多いのでしんどいんです。なので、この箇所も氏=鈕祜魯氏で、氏というのも氏の誤記だろう…と、これまでは言われていたわけです。かなり苦しい論法ですが《永憲錄》内での記述が落ち着かない上に官選史料で鈕祜魯氏とされている以上仕方のないことかと思います。

(雍正元(1723)年二月)甲子。諭禮部。奉皇太后懿旨。側妃年氏、封為貴妃。側妃李氏、封為齊妃。格格鈕祜魯氏、封為熹妃。格格宋氏、封為懋嬪。格格耿氏、封為裕嬪v
(雍正元(1723)年十二月)丙寅。以冊立皇后、及冊封貴妃、齊妃、熹妃。上親詣奉先殿、行告祭禮。vi
(雍正元(1723)年十二月)丁卯。上御太和殿。命太保吏部尚書公隆科多、為正使。領侍衛內大臣馬武、為副使。持節齎冊寶。冊立嫡妃那拉氏為皇后。(中略)命禮部左侍郎登德、為正使。內閣學士塞楞額、為副使。持節、冊封熹妃。冊文曰。朕惟贊宮庭而衍慶。端賴柔嘉。班位號以分榮。丕昭淑惠。珩璜有則。綸綍用宣。咨爾格格鈕祜魯氏、毓質名門。揚休令問。溫恭懋著。夙效順而無違。禮教克。益勤修而罔怠。曾仰承皇太后慈諭、以冊印封爾為熹妃。爾其祗膺巽命。vii

 それに、上記のように清朝の公文書たる《世宗憲皇帝実録》でも熹妃鈕祜魯氏=ニオフル氏としているのです。まぁ、所謂野史である《永憲錄》は何らかの誤解なり誤記があったんだろう…と、結論づけるしかないでしょう。
 あと《永憲錄》では宋氏裕嬪に封じ、耿氏懋嬪に封じた…とありますが、《実録》では格格宋氏を封じて懋嬪となし、格格耿氏を封じて裕嬪となす…と宋氏耿氏の封号が《実録》と互い違いに記述していると言う点もその信用度を下げる原因となっていました。ともあれ、私撰史書の記述だし宮中のことがよく分からない人が書いたために起こった誤記なんだろう…と言うコトになっていたんですね。

 折角ですから他の后妃の出身も見ていくと…皇后に封じられたウラナラ氏は、雍親王藩邸時代の嫡福晋で、このサイトでも何度も触れているウラ国の王族の末裔ですから、押しも押されぬ名族の出身です。
 で、側福晋であった年氏こと年貴妃は、権臣である鑲白旗漢軍旗人年羹堯の妹なので名門とは言えなくとも要人の一族です。后妃の中では一番羽振りがいい実家ですし、何より年貴妃は雍正帝の一番の寵愛を得ていたようです。まぁ…年貴妃は病気で早世してしまいますし、兄の年羹堯はそれからまもなく失脚してしまうんですが…。
 また、ニオフル氏は開国の功臣であるエイドゥの一族ですが、熹妃の実家はエイドゥ嫡流ではなく、その傍流だったようです。
 と、公文書にはこうあるんですが、鈴木センセの論文では更に突っ込んで確認を続けます。乾隆年間には鑲黄旗に移旗される熹妃ニオフル氏の実家は、複数の家譜を確認するに雍正帝即位前の管轄旗である鑲白旗ボーイ・ニルであったことが分かります。ボーイ・ニルは罪人や罪人に連座したものが落とされることもありますが、雍正帝生母の出身もそうであったように、決して身分は高くはないものの、皇位継承を憚られるような被差別的な集団ではなかったようです。
 では何故熹妃ニオフル氏の出自を伏せなければならなかったのか?熹妃ニオフル氏は、ボーイ・ニル出身とはいえマンジュ出身ではなく、漢族出身、かつ名族ではなくどちらかと言えば身分の低い家柄だったのではないか?と鈴木センセは続けます。《愛新覺羅宗譜》を活用して乾隆帝即位を画期として、熹妃の実家の人々は錢佳氏錢氏からニオフル氏に改称されていることを突き止めます。

 さらに、ここにきて官選史料…しかも一次資料に近い史料の中に、この説を補強する史料を紹介されています。

《雍正朝汉文谕旨汇编》1巻

《雍正朝汉文谕旨汇编》1巻

   雍正元年二月十四日奉
 上諭遵
太后聖母諭㫖側福金年氏封為貴妃側福金李氏封
  為齋妃格格錢氏封為熹妃格格宋氏封為裕嬪
  格格耿氏封為懋嬪該部知道viii

 と、雍正朝の諭旨から《永憲錄》と同じ記述が見つかったんですよね。熹妃錢氏宋氏裕嬪耿氏懋嬪…と言うわけで、図らずも宋氏耿氏の封号も《実録》ではなく《永憲錄》の記述の方が正しかったことが証明されてしまいました。しかも、他の箇所では訂正が入っている箇所もあるようですが、ここに至ってはスルーです。官選史料で間違いなしと判断されてるって事ですね。すくなくとも、雍正帝治世ではこれで問題はなかったと言うことになります。

 つまりまぁ…。雍正帝崩御段階では生母の家格が最も高く、康熙帝も目をかけていた四阿哥 宝親王・弘暦が衆望を得て即位した…という前提は、母親の家格が崩れることによって宝親王弘暦が決定的な皇位継承候補でもなかった事が判明し、そもそも康熙帝の評価というのは同時代史料で確認できない以上は後付けなのでは?と言うコトになるわけです。清朝皇帝の中でも最も波乱のない皇位継承と言われる雍正乾隆も他の皇位継承と変わりなく、四阿哥・弘暦は他の皇位継承候補者と比較して圧倒的なアドバンテージがなかったわけです。この時点なら、むしろ年貴妃所生の八阿哥福慧阿哥(弘晟)の地位が抜きんでて高いことになります。

 ともあれ、乾隆帝は即位後に己の生母の出自について改竄を行い、身分の低い漢軍ボーイ・ニル錢氏もしくは錢佳氏出身であったのに、マンジュ名族ニオフル氏として記録には残した…と言うことになるかと。
 鈴木センセは書いてませんけど、このあたりから錢qián氏陳Chén氏と混同され、果ては乾隆帝漢人である浙江省杭州府海寧陳氏の出身である…という伝説の元になったんじゃないか…という感じにはなるんですかねぇ…。
 で、海寧陳氏伝説と言えば、ご存じ金庸の代表作の一つ《書剣恩仇録》の主人公陳家洛なわけですが、海寧陳氏伝説は事実ではないにしても、何らかの事実に即していた可能性はあるわけですねぇ…。

 まぁ、正直自分は書剣はあんまり好きじゃないんですけどねぇ…。

参考文献:

鈴木真「雍正帝の后妃とその一族」⇒『史境』71号 歴史人類学会
《清実録》中華書局
《雍正朝汉文谕旨汇编》1巻 広西师范大学出版社

  1. 『史境』71号 歴史人類学会 [戻る]
  2. 《清史稿》巻二百十四 列傳一 后妃 世宗孝聖憲皇后 [戻る]
  3. 《永憲錄》巻二 [戻る]
  4. 《永憲錄》巻二 [戻る]
  5. 《清世宗憲皇帝實錄》巻四 [戻る]
  6. 《清世宗憲皇帝實錄》巻十四 [戻る]
  7. 《清世宗憲皇帝實錄》巻十四 [戻る]
  8. 《雍正朝汉文谕旨汇编》 [戻る]

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