順治元年4月、ドルゴンの入関遠征の経緯

 岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 は読んでいて刺激が多く、特に外交面で興味深い本だったのですが、読んでいて一カ所引っかかる部分があったので、今回調べてみました。具体的には下に引用した文章です。

明朝政府は李自成の軍が北京に迫るとの報を受けると、呉三桂を北京に戻して首都の防衛に当たらせる。しかし間に合わなかった。(中略)長城東端の要衝、山海関にはドルゴン率いる清軍が迫っていた。呉三桂は前方に李自成、後方に清朝と挟まれる形になって、窮地に立たされる。(中略)そこで呉三桂は、敵対する清軍に密使を送って、援軍を要請する。(中略)ドルゴンは思いがけず、敵軍の前線の司令官から密使が来たばかりか、その君主の最期まで告げられて、さぞかし驚いたに違いない。(中略)『東華録』という清朝の年代記にみえるこのやりとりは、互いの立場と知略をよくあらわしている。呉三桂はあくまでも前線を守る明朝の将軍として、対峙する敵国の清朝に援助を求めたにすぎない。(中略)ドルゴンは高圧的な態度に出て、あくまで呉三桂の降伏・帰順を強いた。i

 この文章を見るに、
①:滅亡、呉三桂北京を陥落させた李自成と、北方から押し寄せる清朝に挟まれる
②:清朝ドルゴンの滅亡を知らずに山海関まで進軍
③:進退窮まった呉三桂清朝に援軍の要請のため密使を送る
④:の滅亡を初めて知ったドルゴンは驚くが、呉三桂に降伏・帰順を強要
…と言う時系列で岡本センセは理解しているようです。自分の記憶とかなり時系列が違うので驚きました。まぁ、岡本センセも清末の外交関係がご専門だからか、参考にした《東華録》にそんなことでも書いてあったのかしら…と思いながらなんか引っかかっていたんですが、昨日、別の調べ物をしていたところ、似たような文章に出くわしました。

1644 順治元年(崇禎17年) 4 ドルゴン、呉三桂の投降を受け出征し、山海関で李自成を撃破。ii

 山川出版の『世界歴史大系 中国史4』の年表にもこう書かれると、自分の記憶が不安になってきましたので、今回、《明史》と《大清世祖章皇帝實録》で確認して見ました。

 


 まず、明朝の滅亡を時系列で追っていきましょう。崇禎年間実録が編纂されていないので、とりあえず《明史》を見てみましょう。まずは本紀から。

(崇禎十七年三月)乙巳(十七日),賊犯京師,京營兵潰。
丙午(十八日),日晡,外城陷。是夕,皇后周氏崩。
丁未(十九日),昧爽,內城陷。帝崩於萬歲山,王承恩從死。御書衣襟曰:「朕涼德藐躬,上干天咎,然皆諸臣誤朕。朕死無面目見祖宗,自去冠冕,以髮覆面。任賊分裂,無傷百姓一人。」(中略)明亡。iii

 時系列をまとめやすいように自分が日ごとに改行しています。イヤに簡潔な文章ですね。まず、それまでの過程はすっ飛ばしますが、崇禎17=順治元(1644)年3月17日に李自成軍は北京攻略を開始します。次いで18日に北京外城が陥落、19日早朝には内城が陥落し、崇禎帝万歳山景山で崩御します。
 ついでなので、李自成の伝でも確認しましょう。

(崇禎十七年三月)十七日,帝召問羣臣,莫對,有泣者。俄頃賊環攻九門,門外先設三大營,悉降賊。京師久乏餉,乘陴者少,益以內侍。內侍專守城事,百司不敢問。
十八日,賊攻益急,自成駐彰義門外,遣降賊太監杜勳縋入見帝,求禪位。帝怒,叱之下,詔親征。日暝,太監曹化淳啟彰義門,賊盡入。帝出宮,登煤山,望烽火徹天,歎息曰:「苦我民耳。」徘徊久之,歸乾清宮,令送太子及永王、定王於戚臣周奎、田弘遇第,劍擊長公主,趣皇后自盡。
十九日丁未,天未明,皇城不守,鳴鐘集百官,無至者。乃復登煤山,書衣襟為遺詔,以帛自縊於山亭,帝遂崩。太監王承恩縊於側。iv

 同じく日ごとに改行しました。本紀とソースが違うのか、こちらの方が記述が詳しいですね。時系列は変わりませんが、3月17日段階で李自成軍が北京を包囲して攻撃を始めると、汚職で給金の滞っていた門外の警備兵はことごとく李自成に降ったとか、18日には彰義門v外にまで侵攻して、李自成に降った宦官が崇禎帝に譲位を迫ると崇禎帝が激怒して親征すると言い出したとか、日が暮れてから彰義門が中から開かれて李自成軍が侵攻し、崇禎帝煤山景山に登って北京のそこら中から烽火が上がっているのに絶望し、乾清宮に戻って二皇子を外戚の周奎田弘遇の邸宅に逃がし、金庸の小説でおなじみの長公主を剣で斬りつけ、周皇后に自害させたとか、19日明け方には皇城も防ぎきれず、また崇禎帝煤山景山に登って衣服に遺詔をしたためて自縊したとか、いやに具体的です。
 ともあれ、崇禎帝の死と明朝の滅亡は3月19日明け方だったと言うことです。

 で、清朝がこの情報をいつ知ったのかについては、実は《世祖章皇帝實録》には記述がありません。ただ、月が変わって4月1日にこのような記事から始まります。

順治元年。甲申。夏四月。戊午朔(一日)。先是、固山額真何洛會等、訐告和碩肅親王豪格。(中略)特訐告於攝政和碩睿親王和碩鄭親王諸王貝勒貝子、公、及內大臣、會鞫俱實。遂幽和碩肅親王。既而以其罪過多端、豈能悉數。姑置不究。遂釋之。奪所屬七牛彔人員。罰銀五千兩。廢為庶人。vi

 これより先、とあるので少なくとも3月時点から話には出ていたようですが、この時期のドルゴンにとって最も手強い政敵である粛親王・ホーゲが、部下である正藍旗グサ・エジェンであるホロホイの讒言を受けて失脚しています。審議の結果、所属ニルを剥奪されて罰金を課され、幽閉の上爵位も剥奪されて、ホーゲ派の有力旗人も処刑されています。滅亡から10日あまり経過していますから、宣和堂はこの事件を入関と全くの無関係の事件とはみることはできません。少なくとも判決に関しては、入関作戦を睨んだ結果となっているはずだと考えています。

 そして、滅亡から2週間あまりたった4月4日になって、范文程の奏上があります。

(順治元年四月)辛酉(四日)。大學士范文程、上攝政王啟曰。「迺者有明、流寇踞於西土。水陸諸寇、環於南服。兵民煽亂於北陲。我師燮伐其東鄙。四面受敵。其君若臣、安能相保耶。顧雖天數使然、良由我先皇帝憂勤肇造。諸王大臣、祇承先帝成業。夾輔冲主、忠孝格於蒼穹。上帝潛為啟佑。此正欲攝政諸王、建功立業之會也。竊惟成丕業以垂休萬禩者此時。失機會而貽悔將來者亦此時。何以言之。中原百姓、蹇罹喪亂。荼若已極。黔首無依。思擇令主、以圖樂業。雖間有一二嬰城負固者、不過自為身家計。非為君効死也。是則明之受病種種、已不可治。河北一帶、定屬他人。其土地人民、不患不得。患得而不為我有耳。蓋明之勁敵、惟在我國。而流寇復蹂躪中原。正如秦失其鹿、楚漢逐之。我國雖與明爭天下、實與流寇角也。為今日計。我當任賢以撫衆。使近悅遠來。蠢茲流孽、亦將進而臣屬於我。彼明之君。知我規模非復往昔。言歸於好。亦未可知。儻不此之務。是徒勞我國之力。反為流寇驅民也。夫舉已成之局而置之。後乃與流寇爭非長策矣。曩者棄遵化、屠永平、兩經深入而返。彼地官民、必以我為無大志。縱來歸附、未必撫恤。因懷攜貳、蓋有之矣。然而有已服者。有未服宜撫者。是當申嚴紀律。秋毫勿犯。復宣諭以昔日不守內地之由。及今進取中原之意。而官仍其職。民復其業。錄其賢能。恤其無告。將見密邇者綏輯。逖聽者風聲。自翕然而向順矣。夫如是。則大河以北、可傳檄而定也。河北一定。可令各城官吏、移其妻子、避患於我軍。因以為質。又拔其德譽素著者、置之班行。俾各朝夕獻納、以資輔翼。王於衆論中、擇善酌行。則聞見可廣、而政事有時措之宜矣。此行或直趨燕京。或相機攻取。要當於入邊之後、山海長城以西、擇一堅城、頓兵而守。以為門戶。我師往來、斯為甚便。惟攝政諸王察之。」vii

 長々と書いていますが、「此正欲攝政諸王、建功立業之會也。竊惟成丕業以垂休萬禩者此時。失機會而貽悔將來者亦此時。何以言之。」…諸王が功名を立てるのはまさに今この時、この千載一遇のチャンスを生かさないでどうする!後から後悔してもしょうがない!今でしょ!と、かなり范文程ドルゴン…というか、この時はドルゴンジルガラン両人を指しているのだと思いますけど今出兵しないでどうするんだ!と、せっついています。
 ただ、低いレベルで流寇と張り合って、天聰年間遵化県永平府を占領して放棄したようなやり方をしていては人心を失うので、軍には官民を撫して、規律を守らせ、秋毫も犯させなければ、清朝中原を占領するという意図を人民に知らしめることができ、河北一帯は収まりましょうと、ただ、占領した地区の民衆の妻子は我が軍から離れたところに隔離して、軍には朝な夕なに下女を届けさせて、問題の発生を未然に防ぎましょう…問題ズバリですね。アジゲみたいな人が好き勝手やって占領地で評判下げるのを見越してます。というか、この段は范文程によるホンタイジ華北侵入に対する全面的なダメ出しなんですが、いいんですかねぇ…。ともあれ、この時点では范文程河北省なり黄河以北なりを占領することを想定しているだけで、旧領全域を一気に占領してしまうような構想ではなかったようですね。
 で、このまま北京に直行して、機会があればこれを攻め取ってしまえばいいし、漢土に入った後に山海関の西にある要衝をどこか押さえて兵を入れれば、山海関を無力化できるとしているので、この時点では呉三桂からの申し出はかけらもなかったことがわかりますし、呉三桂が敵対しようとしまいと北京を攻め落とすつもりだったことがわかります。
 范文程の上奏があったため4月4日のこととして記録が残っていますが、おそらくは滅亡の報が入ってから清朝としてどうすべきか話し合って来たのではないでしょうか。ただ、北京陥落を知っていたのかは微妙な文章になってますね。中原に鹿追うとか、李自成軍が中原を蹂躙している今の状況は末に楚漢が競った状況と似ているとか、の滅亡を念頭に置いたようなこと言っていますが、が滅亡したとか北京が陥落したとか言う内容のことを直接書いているわけではありません。
 それに、《清史稿》では、これを滅亡の報告に接する前の上奏だとしているんですよね。

世祖即位,命隸鑲黃旗。睿親王多爾袞帥師伐明,文程上書言:「中原百姓蹇離喪亂,備極荼毒,思擇令主,以圖樂業。曩者棄遵化,屠永平,兩次深入而復返。彼必以我為無大志,惟金帛子女是圖,因懷疑貳。今當申嚴紀律,秋毫勿犯,宣諭進取中原之意:官仍其職,民復其業,錄賢能,恤無告。大河以北,可傳檄定也。」及流賊李自成破明都,報至,文程方養疴蓋州湯泉,驛召決策,文程曰:「闖寇塗炭中原,戕厥君后,此必討之賊也。雖擁眾百萬,橫行無憚,其敗道有三:逼殞其主,天怒矣;刑辱搢紳,拷劫財貨,士忿矣;掠人貲,淫人婦,火人廬舍,民恨矣。備此三敗,行之以驕,可一戰破也。我國上下同心,兵甲選練,聲罪以臨之,卹其士夫,拯其黎庶。兵以義動,何功不成?」又曰:「好生者天之德也,古未有嗜殺而得天下者。國家止欲帝關東則已,若將統一區夏,非乂安百姓不可。」翌日,馳赴軍中草檄,諭明吏民言:「義師為爾復君父仇,非殺爾百姓,今所誅者惟闖賊。吏來歸,復其位;民來歸,復其業。師行以律,必不汝害。」檄皆署文程官階、姓氏。viii

 范文程はこの上奏の後、李自成北京を陥落させたという報せを、療養のために訪れていた蓋州ixの温泉で聞いて、すぐさまムクデン盛京に引き返して李自成撃つべし!と再度上奏したことになっています。
 は?温泉?!と、温泉に注意が引かれますが、それはさておき、そもそもドルゴンが軍勢集めたのは李自成の勢力が増しての勢力が衰退したのを見て計画したことで、北京陥落とかの滅亡とは何の関係もないことになりますね…。温泉云々のことは《清史列傳》の范文程の伝には記載がないのでソースがわかりません。それに、4月4日の范文程の上奏からドルゴン出征の4月9日までは5日しかありませんし、《世祖章皇帝實録》を読むに范文程は遠征軍に随行して後に北京で活動していますから、これから遠征に出ようっていうブレーンが出征の5日前から療養のために温泉地に出かけるかっていうのは違和感あります。自分は現時点では、范文程が温泉地に行っていたとしても4月4日以前の話ではないかと思っています。

”hese be aliha amba cooha i ejen”印=奉命大将軍印

 で、3日後の4月7日にはドルゴン奉命大将軍印が下賜され…つまり奉命大将軍に任命されます。

乙丑(七日)。上御篤恭殿。賜攝政和碩睿親王多爾袞大將軍敕印。敕曰。「我皇祖肇造丕基。皇考底定宏業。重大之任。付於眇躬。今蒙古、朝鮮、俱已歸服。漢人城郭土地、雖漸攻克。猶多抗拒。念當此創業垂統之時。征討之舉、所關甚重。朕年冲幼、未能親履戎行。特命爾攝政和碩睿親王多爾袞、代統大軍。往定中原。用加殊禮。錫以御用纛蓋等物。特授奉命大將軍印。一切賞罰、俱便宜從事。至攻取方略、爾王欽承皇考聖訓。諒已素諳。其諸王、貝勒、貝子、公、大臣等、事大將軍、當如事朕。同心協力、以圖進取。庶祖考英靈、為之欣慰矣。尚其欽哉。」王受印敕。行三跪九叩頭禮。x

 かいつまんで訳すと、順治帝…まぁ、当時10歳にもならない順治帝がこんなこと言うわけないので、孝荘文皇后ともう一人の摂政王・ジルガランが代行したんでしょうけど、「本来は朕が親征すべき所だが、まだまだ幼いので軍務を全うすることができない。特になんじ摂政和碩睿親王ドルゴンに大軍の統帥権を代行させるので、もって中原を平定しろ。特に奉命大将軍印を授けて、一切の賞罰を任せ、外征中の指揮を一任する。諸ベイレベイセ大臣らは奉命大将軍には朕に仕えるのと同じように仕えること。」と、詔勅を下し、ドルゴンは印勅を受けて三跪九叩頭礼を行った。と言うことで、ドルゴンはほぼ皇帝と同じ権力を有する全権委任を受けて奉命大将軍印を授かり出征することになったようです。これが形だけの権力ではないことはすぐに分かります。
 ちなみに、元々武功が薄かったジルガランは、ホンタイジ崩御後は寧遠あたりに遠征に出ていたのですが、この時は留守番を買って出ているようです。博打みたいな遠征ですし、華北侵攻の方面軍を統帥した経験もあり、その他の戦功も申し分ないドルゴンに頼るしかなかったんでしょう。

 更に2日後、ついに入関遠征軍は出征したようです。

(九日)是日、攝政和碩睿親王多爾衮、同多羅豫郡王多鐸、多羅武英郡王阿濟格、恭順王孔有德、懷順王耿仲明、智順王尚可喜、多羅貝勒羅洛宏、固山貝子尼堪、博洛、輔國公滿達海、吞齊喀、博和託、和託、續順公沈志祥、朝鮮世子李●xi、暨八旗固山額真、梅勒章京、詣堂子。奏樂。行禮。又陳列八纛。向天行禮畢。統領滿洲蒙古兵三之二、及漢軍、恭順等三王、續順公兵、聲礮起行。xii

 ズラズラ人名が並んで堂子詣をしたって何のこっちゃと思いますが、《清初内国史院满文档案譯编》には

四月初九日。摄政和硕睿亲王率大军征西明国xiii

と、ありますので、これが入関作戦の戦勝祈願のためのお参りだったことがわかります。なので、ココに見えてる人たちが入関作戦に従軍した人たちですね。白旗三王三順王ロロホン(鑲紅旗ヨト系)、ニカン(鑲紅旗チュイェン系)、ボロ(正藍旗アバタイ系)、マンダハイ(正紅旗ダイシャン系)、トゥンチハ(鑲藍旗アミン系)、ボホト(正藍旗アバタイ系)、ホト(鑲白旗アジゲ系)らが上がっています。後の理政三王(ニカン、ボロ、マンダハイ)はじめ、ドルゴン期の政治軍事で活躍した人物が多いんですが、やっぱりこの作戦に加わって戦功を立てたって言うのが後々の抜擢に繋がるようですね。ウラナラ閥に偏るでもなく、八旗の左右翼に偏るでもないバランスの取れた配置です。従軍して同じ釜の飯を食って、成功体験を共有する人たちをドルゴンは閨閥よりも優遇したということになるんではないでしょうか。なかなかに面白いと思います。
 あと、入関出征軍マンジュモンゴル八旗兵の2/3+漢軍(=ウジェン・チョーハ・重火器部隊)+三順王続順公の降将漢人部隊。ついでに朝鮮世子と書かれてますけど、恐らく朝鮮国部隊は従軍していないでしょう。谷井陽子先生の説xivに従えば、この頃の八旗の総員兵力は2万前後ですから、その他の軍がどれくらいなのかわかりませんけど、2万を超さない程度の軍勢だったのではないかと。

洪承疇

 で、進軍を開始した遠征軍が遼河地方に駐屯したところで、洪承疇に軍事についての諮問を行ったところ、范文程と同じようなことを繰り返しつつ、李自成鎮圧に功績があった洪承疇ならではの具体的な献策を行っています。

庚午(十三日)。攝政和碩睿親王師次遼河地方。以軍事諮洪承疇。承疇上啟曰。「我兵之強、天下無敵。將帥同心。步伍整肅。流寇可一戰而除。宇內可計日而定矣。今宜先遣官宣布王令。示以此行。特掃除亂逆、期於滅賊。有抗拒者、必加誅戮。不屠人民、不焚廬舍、不掠財物之意、仍布告各府州縣、有開門歸降者、官則加陞。軍民秋毫無犯。若抗拒不服者、城下之日、官吏誅。百姓仍予安全。有首倡內應、立大功者、則破格封賞。法在必行。此要務也。況流寇初起時、遇弱則戰。遇強則遁。今得京城、財足志驕。已無固志。一旦聞我軍至、必焚其宮殿府庫。遁而西行。賊之騾馬、不下三十餘萬。晝夜兼程、可二三百里。及我兵抵京、賊已遠去。財物悉空。逆惡不得除。士卒無所獲。亦大可惜也。今宜計道里。限時日。輜重在後。精兵在前。出其不意。從薊州密雲近京處、疾行而前。賊走、則即行追剿。儻仍坐據京城以拒、我則伐之更易。如此庶逆賊撲滅、而神人之怒可回。更收其財畜、以賞士卒。殊有益也。初明之守邊者、兵弱馬疲。猶可輕入。今恐賊遣精銳、伏於山谷狹處、以步兵扼路。我國騎兵、不能履險。宜於騎兵內選作步兵。從高處覘其埋伏。俾步兵在前。騎兵在後。比及入邊、則步兵皆騎兵也。孰能禦之。若沿邊仍復空虛、則接踵而進。不勞餘力。抵京之日、我兵連營城外。偵探勿絕。庶可斷陝西宣府大同眞保諸路、以備來攻。則馬首所至、計日功成矣。流寇十餘年來、用兵已久。雖不能與大軍相拒。亦未可以昔日漢兵輕視之也。」xv

 かいつまんで訳すと、「清軍は強くて、天下無敵。将帥の意思疎通も取れているし兵卒の訓練も行き届いています。流寇と戦えば一戦で決着がつくはずです。先に令を布告して、逆賊に示しておけば短期間で賊は滅びます。抵抗する者たちは誅戮すべきですが、虐殺や焼き討ち、略奪を禁じる旨を各府州県に布告すべきです。そして、開城して投降した官吏は官位を上げ、民を秋毫も犯してはなりません。もし、抵抗する者があれば官吏は誅殺すべきですが、民衆は保護すべきです。内応して功績を立てた者には破格の報償を与えるべきです。法を厳格に適用するのはこの作戦の要となります。
 流寇が勃興したころ、弱い軍がいれば戦い、強い軍に見つかれば逃げました。今、北京を獲得したことで、流寇は財を得て驕っているので、すでに確固としたビジョンはありません。一旦、我が軍が来たと聞けば、必ず宮殿や府庫に火をかけて西に逃げることでしょう。賊の軍勢は30万を降りませんが、昼夜兼行すれば2~300里は進軍できます。その後、我が軍が北京を確保しても、賊がすでに去った後では府庫は空で、士卒への報償もありません。
 そこで、今から北京までの距離から換算した行軍スケジュールを決めて、輜重(補給)を置いて精鋭を先行させ、賊軍の不意を突きます。薊州密州雲州あたりから長城を越えて一気に北京を攻撃すれば、賊は逃走しますから追いかけて掃討すればいいのです。もし、一部が北京に居座って抵抗するようなら容易く討ち取れますし、蓄財を摂取して士卒の報償に当てることができます。
 以前、国境地帯は弱兵を配置して馬も疲れていたため侵入も簡単でしたが、今は賊を恐れて精鋭を派遣しています。その歩兵が山谷の隘路に根を張って街道を守っています。我が軍の騎兵ではこれを攻撃することは難しいので、騎兵の中から兵を選んで歩兵として高所から偵察して伏兵を探り、歩兵を騎兵に先行させて拠点を攻め取った後は、歩兵を騎兵に戻せば防御できます。もし、国境地帯がもぬけの空になっていれば、摂取して進軍すればいいのです。
 もし、賊が北京に籠城するなら、我が軍は城外に野営して賊の外部との連絡を絶ち、陝西大同などとの要路を遮断して援軍に備えれば数日で北京は陥落します。
 ただ、流寇は挙兵して十余年が経過していて、大軍と戦闘したことがないとは言え、過去の漢兵のように軽視できる存在でもありません。」
 と、まあ流石に李自成軍と軍双方と対峙した軍人だけに、具体的かつ、的確な指摘が多いですね。しかし、漢人官僚が口をそろえて、もし清軍李自成軍とが戦えば一戦して勝つと信じて疑わないのはなんか凄いですね。実際に一戦して負けた後の李自成軍の行動にしても、宮殿と府庫を焼いて西の本拠地に逃げ帰るとこまで、洪承疇は正確に予想しています。ホンタイジは降伏した洪承疇鑲黄旗漢軍に配して厚遇したという話ですが、《清史稿》にあるように、その後官職を得たわけではありません。入関作戦に従軍したことで洪承疇の才覚は清朝治下で発揮されるわけですが、故国の首都を占領した後、財貨をどう分配するかを上奏するあたりなんだかゲスい感じはしますね…。
 あと、サラッと書いてますが、《世祖章皇帝實録》の中でようやく北京陥落についての言及がされています。少なくとも4月13日までには清朝北京陥落についての情報を得ていたわけで、後に触れる呉三桂の書簡によって知らされたわけではないようです。
 で、入関作戦軍が出征を開始した後でも、洪承疇は「從薊州密雲近京處」としていて、山海関から入関するという発想がないようです。むしろ、「明之守邊者」とか「沿邊」あたりは山海関を想定しているようにも取れます。ともあれ、進軍を開始した4月13日の段階では、山海関を無視して入関する予定だったようです。

呉三桂

 で、その二日後、皆様お待ちかねの呉三桂からの打診があります。

壬申(十五日)。攝政和碩睿親王師次翁後。明平西伯吳三桂、遣副將楊珅、遊擊郭雲龍、自山海關來致書曰。「三桂初蒙我先帝拔擢、以蚊負之身、荷遼東總兵重任。王之威望、素所深慕。但春秋之義、交不越境。是以未敢通名。人臣之誼諒、王亦知之。今我國以寧遠右偏孤立之故、令三桂棄寧遠而鎮山海。思欲堅守東陲而鞏固京師也。不意流寇逆天犯闕。以彼狗偷烏合之衆、何能成事。但京城人心不固。姦黨開門納款。先帝不幸。九廟灰燼。今賊首僭稱尊號。擄掠婦女財帛。罪惡已極。誠赤眉綠林黃巢祿山之流。天人共憤。衆志已離。其敗可立而待也。我國積德累仁。謳思未泯。各省宗室、如晉文公漢光武之中興者、容或有之。遠近已起義兵。羽檄交馳。山左江北、密如星布。三桂受國厚恩。憫斯民之罹難。拒守邊門。欲興師問罪、以慰人心。奈京東地小、兵力未集。特泣血求助。我國與北朝通好、二百餘年。今無故而遭國難。北朝應惻然念之。而亂臣賊子、亦非北朝所宜容也。夫除暴剪惡、大順也。拯危扶顛、大義也。出民水火、大仁也。興滅繼絕、大名也。取威定霸、大功也。況流寇所聚金帛子女、不可勝數。義兵一至、皆為王有。此又大利也。王以蓋世英雄。值此摧枯拉朽之會。誠難再得之時也。乞念亡國孤臣忠義之言。速選精兵、直入中協西協。三桂自率所部、合兵以抵都門。滅流寇於宮廷。示大義於中國。則我朝之報北朝者、豈惟財帛。將裂地以酧。不敢食言。本宜上疏於北朝皇帝。但未悉北朝之禮、不敢輕瀆聖聰。乞王轉奏。」王得書。即遣學士詹霸、來袞往錦州。諭漢軍齎紅衣礮向山海關進發。xvi

 さて、摂政和碩睿親王・ドルゴンの遠征軍が翁後?という場所に駐屯したところ、平西伯呉三桂副将楊珅遊撃郭雲龍山海関から派遣して書簡を届けに来た。「三桂は先帝の抜擢によって過分にも遼東総兵という重責を担うことになりました。平素よりの威望を深くお慕いしていたものの、国境を越えて誼を通じることができませんでした。今、我が国では寧遠は孤立しているために、三桂寧遠を棄てて山海関を防衛するように命じました。東方を堅守して北京の守りを強固とするためだったのでしょう。ところが流寇が不意に宮闕を犯してしまいました。あの狗偷烏合の衆が何をかなすことができるでしょう。しかし、北京に人々は動揺して、姦人が中から門を開けてしまい、先帝は不幸に見舞われ、九廟は灰燼に帰しました。今、賊の頭目は尊号を僭称し、婦女・財帛を略奪しており、罪悪はここに極まりました。赤眉緑林黄巣安禄山もかくやの有様に、天も人も憤って民心もすでに離れています。我が国は恩徳を積んで参りましたので、すでに各省では宗室晋・文公後漢・光武帝のような中興の祖が蜂起して、遠近から義勇兵が集っています。三桂は国から大恩を受けておりますし民衆の苦難にも同情しますが、辺境防備の任があります。しかし、罪を承知で救国の軍を起こし、人心を安堵させようとしましたが、このような辺境では兵が思うように集まりません。そこで、我が国と北朝の200余年の誼を頼って、折り入ってお願い申し上げます。今、我が国は理由もなく国難に遭っています。北朝とて乱臣賊子は許容できるモノではないでしょう。これを平定するのは大義です。また、賊は婦女・財帛を際限なく集めています。は蓋世の英雄ですからこの千載一遇の期の価値を知っているはずです。亡国孤臣として忠義を全うするため、三桂は部下の精兵を選び、お借りした兵と併せて北京を攻めて内応を誘い、逆賊を討滅して中国の大義を示します。我が朝が北朝に謝礼としてお渡しするのは金品だけではありません。領地の割譲もお約束いたします。北朝皇帝に上疏いたします。当方、北朝の義礼には疎いため、ご無礼の段はご容赦下さい。に転奏を乞います。」ドルゴンはこの書を得ると、学士・ジャンパ?(詹霸)、ライゴン?(來袞)を錦州に派遣し、漢軍(ウジェン・チョーハ?)に紅衣砲山海関に向けて運搬するように命じた。
 と言うことで、この辺は最初に出した岡本センセの解釈通りですが、呉三桂清朝に兵を借りて北京を救援するのを目的としていて、端から清朝に降伏を申し出ているわけではありません。まぁ、一方面軍の指揮官が援軍の報償として金品はともかく、領土の割譲を約束しているのはどうかと思いますが…。手紙の内容から、呉三桂ドルゴン清軍を率いて南下したことは情報をつかんでいたようにも読めますが、幼帝が即位して摂政王が補佐しているという情報だけで書いているようにも読み取れます。また、宗室諸王の元に義勇兵が雲霞の如く集まっていると言う割には、具体的な固有名称は出していない上、手持ちの兵が集まらないなど矛盾した内容が書かれています。更に、「婦女財帛」、「金帛子女」を繰り返すなど、後世の人間からすると「衝冠一怒為紅顏」というフレーズをつい思い浮かべてしまうような、余裕のなさも感じ取れてしまいます。でも、袁崇煥ヌルハチなりホンタイジと書簡を交わしていたので、ドルゴン呉三桂もそれなりに面識があったと勝手に解釈していたんですが、この時がファーストコンタクトなんですね…。
 それにしても、范文程洪承疇呉三桂漢人が口を揃えて、秋毫も犯さないことを成功の条件として上げているのは、よほどホンタイジ時期の華北侵攻が悪い意味で印象に残ってたんでしょうね…。ドルゴンもこの辺は心得て、実際に北京に侵攻するまでに略奪を我慢出来なかった将兵を罰しています。
 ともあれ、今回、何より注目したいのは、この書簡を受けてドルゴン紅衣砲…つまり攻城兵器を山海関に運搬するように指示しているところですね。洪承疇の献策にもあるとおり、呉三桂の書簡が来るまでは清軍山海関以外の場所から入関して、騎馬による強襲で北京を攻め取る作戦でした。しかし、呉三桂から書簡が来たことによって山海関から入関できる可能性が高くなったため、急遽予定を変更して後続の重火器部隊に進路変更の指示を出したってことです。つまり、呉三桂の降伏を受けてからドルゴンが進軍を開始したわけではなく、進軍をすでに始めていたドルゴン呉三桂の書簡を受けて進路を変えわけです。そもそも、ドルゴンは出発時点では山海関を通過することすら考えていなかったわけですから、この時点で紅衣砲の進路を変更しているのです。強調しておきますが、ドルゴンは最初から山海関を目指して進軍していたわけではありません。

 で、翌4月16日ドルゴン呉三桂に即座に返事を送ります。

癸酉(十六日)。攝政和碩睿親王師次西拉塔拉。報吳三桂書曰。「向欲與明修好。屢行致書。明國君臣不計國家喪亂。軍民死亡。曾無一言相答。是以我國三次進兵攻略。蓋示意於明國官吏軍民。欲明國之君、熟籌而通好也。若今日則不復出此。惟有底定國家、與民休息而已。予聞流寇攻陷京師、明主慘亡。不勝髮指、用是率仁義之師。沉舟破釜。誓不返旌。期必滅賊、出民水火。及伯遣使致書、深為喜悅。遂統兵前進。夫伯思報主恩。與流賊不共戴天。誠忠臣之義也。伯雖向守遼東、與我為敵。今亦勿因前故、尚復懐疑。昔管仲射桓公中鉤。後桓公用為仲父、以成霸業。今伯若率衆來歸。必封以故土。晉為藩王。一則國仇得報。一則身家可保。世世子孫。長享富貴。如河山之永也。」xvii

 摂政和碩睿親王・ドルゴンの遠征軍がシラタラ?(西拉塔拉)に駐屯した。この時、呉三桂に書面をもってこう伝えた。「に対しては何度も書簡を送ったが、内乱状態のためかかつて一度も返答をもらったことがない。仕方なく我が国は三度遠征を行って、国の官吏軍民に我が国はと通好をしたい意を示したが、国家と民衆の安寧のために出兵は控えていた。しかし、予は流寇北京を陥落させ、主がむごたらしい最期を迎えたと聞いた。義憤を押さえることができず、我が国は仁義の軍を率いて、賊を滅亡させて民衆を救出するまで軍を返さぬと誓った。平西伯の使者が書簡を持ってきたことを大変喜ばしく思ったので、ついに軍を前進させた。平西伯の旧主への恩を思えば、流賊とともに天を戴くなどあり得ないこと言うのも分かる。まことに忠臣の鏡である。平西伯遼東防御のために我が国とは敵対関係にあったが、今後は前歴をもって疑うことはない。その昔、管仲斉・桓公に矢を射かけたが、後に桓公管仲を登用して覇業をなした。今、平西伯が部下を引き連れて投降するというのなら、必ずや旧領を安堵して藩王への昇格を約束しよう。一つは故国の仇敵を打つため、一つは家名と己の身の安全のため、子々孫々永きにわたる富貴を約束しよう。」
 と言うわけで、李自成崇禎帝をむごたらしく討ち滅ぼしたと聞いて、の仇討ちのために遠征を決意したのだ!と、すでにこの時からこのロジックで押し通してますね。この書簡を見ると、遠征自体は北京の陥落という情報を得てから企画されたようですね。
 で、呉三桂からは兵を貸してくれたら金品と領土を割譲しましょう!という申し出に対して、ドルゴンは投降するなら身の安全を保証して爵位も上げてやろう…と返答しているので、この辺は岡本センセの言うとおりですね。書面からも取り付く島もない様子が見て取れます。ちなみに、ドルゴンxviii呉三桂xix万暦39(1611)年生まれの同い年なんですが、何というか格が違うというか圧倒されてますね。
 あと、ドルゴンは敵国の将軍から機密性の高い書簡を得ながら、順治帝なりその代行者である孝荘文皇后や、同格の同僚であるジルガランにお伺いを立てたり、反応を待ったりせずに、ノータイムで結論を出して呉三桂に返信をキメてます。奉命大将軍の全権委任は伊達じゃないことが、任命から10日も経たないうちに証明されています。何周ループしたらこんなに鮮やかに決断できるんだ?ってくらい、的確な判断だと思います。
 話を戻しますが、援兵要請に対する齟齬には恐らく呉三桂はすぐに気がついたハズで、李自成につくと言う選択肢と両天秤にかけて悩んだハズです。
 で、その4日後の4月20日、ようやく呉三桂からの使者がドルゴンの元に来ます。

丁丑(二十日)。攝政和碩睿親王軍次連山。吳三桂復遣郭雲龍、孫文煥來致書曰。「接王來書、知大軍已至寧遠。救民伐暴。扶弱除強。義聲震天地。其所以相助者、實爲我先帝。而三桂之感戴、猶其小也。三桂承王諭、即發精銳於山海以西要處、誘賊速來。今賊親率黨羽。蟻聚永平一帶。此乃自投陷阱。而天意從可知矣。今三桂已悉簡精銳、以圖相機剿滅。幸王速整虎旅、直入山海。首尾夾攻。逆賊可擒。京東西可傅檄而定也。又仁義之師、首重安民。所發檄文、最爲嚴切。更祈令大軍秋毫無犯。則民心服而財土亦得。何事不成哉。」王得書。即星夜進發。踰寧遠。次於沙河地方。xx

 摂政和碩睿親王・ドルゴンの遠征軍は連山に駐屯した。呉三桂はまた郭雲龍孫文煥を派遣して書簡を送ってきた。「の書簡で大軍がすでに寧遠に到達していたことを知りました。ご助力のほど、歓喜に耐えません。三桂の諭旨を承けて、すぐに山海関以西の要衝に精鋭を発して賊を誘い込んだので、賊は永平一帯に集結しています。これは自ら落とし穴に入ってきたようなモノです。今、三桂はすでに精兵を選抜し終え、機に乗じて賊を討滅する計画を練っています。は早急に精鋭を整備して、まっすぐに山海関にご入城下さい。賊を両面から挟み撃ちにすれば、生け捕りにもできましょう。北京近辺に檄を飛ばして、の軍が仁義の軍であることを知らしめれば、民衆は安堵しましょう。また、の大軍が秋毫も犯すことなければ、民衆は心服してその財貨と領土も得ることができましょう。」摂政王・ドルゴンは書簡を受け取ると、夜間にもかかわらず軍を出発させ、寧遠を通過して沙河地方に駐屯した。
 と言うわけで、呉三桂は降伏を受託したとは言明はしていないものの、清軍の先鋒になって李自成軍と当たることを既定事実としています。ここで、注目したいのは嘘か真か判別しがたいところですが、呉三桂ドルゴンが進軍していることも、寧遠近辺に駐屯していることも書簡が来るまで知らなかったと言うことです。知らないモノは圧迫を感じようもありませんから、李自成清朝の軍に挟まれた呉三桂が進退窮まって清朝に援助を要請した…というのもちょっと事実とは異なるのかもしれません。盛京にいるドルゴンに援助要請をするのと、遠征途中で大軍を率いて接近中のドルゴンに援助要請するのとでは逼迫感が違います。
 呉三桂の申告通りなら、呉三桂の使者が偶然遠征中のドルゴンと接触が取れたことで、李自成山海関に進軍するまでに援軍が間に合ったということになりますから、清朝の遠征のタイミングが遅くても早くても使者と遠征軍が行き違いになる可能性が増しますし、そもそも李自成軍が山海関に到着した後に清軍が到着しても時すでに遅しって所でしょうから、その後の歴史は我々が知っているモノと違うものになったのかもしれません。
 また、呉三桂は賊を誘い込んだ!と言っていますが、恐らく何らかの条件を提示して李自成軍を永平府に誘導したんでしょうから、李自成側にも援兵の要請や帰順を持ちかけていたのかもしれません。ドルゴンの書簡から得た情報を李自成側に流がして、清軍山海関に接近しているので援軍を要請する!とか、胡虜を山海関におびき出したので協力して討滅しよう!とかなんとか掛け合った可能性もありますよね。呉三桂にもそれくらいのしたたかさはあってもおかしくないと思います。想像するに、呉三桂はどちらの陣営に味方するか確固たる意思がないまま双方にいい顔をしてたところ、清軍の方がタッチの差で李自成軍より先に山海関に到着したので味方したとか、その程度だったんじゃないでしょうか。

 つまり、まとめると…
①:滅亡、呉三桂北京を陥落させた李自成と、北方から押し寄せる清朝に挟まれる⇒状況としては間違っていないが、呉三桂清軍の進軍を知らなかった。
②:清朝ドルゴンの滅亡を知らずに山海関まで進軍⇒ドルゴンの滅亡を知って遠征軍を編成し、山海関を無視して入関して直接北京を攻撃しようとしていた。
③:進退窮まった呉三桂清朝に援軍の要請のため密使を送る⇒清軍李自成軍の双方に使者を出した可能性が濃厚。
④:の滅亡を初めて知ったドルゴンは驚くが、呉三桂に降伏・帰順を強要⇒ドルゴンはすでにの滅亡を知っていたが、無視するつもりだった山海関から入関出来る可能性が高まったので、即日計画を変更。
 と言うことで、この辺は實録を確認したところ、事実誤認なんではないかという結論を得ました。調べてみると面白いですね…。この辺は本当は満文檔案なり漢文書簡を調べた方が面白いんでしょうけどねぇ…。
 もう一つあるんですが、それは項を改めます。

◇参考文献◇
岡本隆司『叢書「東アジアの近現代史」 第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ 朝鮮出兵から日露戦争へ』講談社
世界歴史大系 中国史4 明~清』山川出版社
谷井陽子『八旗制度の研究』京都大学学術出版

  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.43~45 [戻る]
  2. 『中国史4』年表P.70 [戻る]
  3. 《明史》巻24 本紀第24 莊烈帝 朱由檢 二 [戻る]
  4. 《明史》巻309 列傳第197 流賊 李自成 [戻る]
  5. =廣寧門。北京外城西側の城門。後に道光帝の本名・晏寧の偏諱を受けて廣安門に改称。 [戻る]
  6. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  7. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  8. 《清史稿》巻232 列傳19 范文程 [戻る]
  9. 現在の遼寧省営口市蓋州市。 [戻る]
  10. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  11. 当時人質として盛京に滞在していた昭顕世子・李(湍-而+王) [戻る]
  12. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  13. 《清初内国史院满文档案譯编》P.1 [戻る]
  14. ①「中核となるべき満洲・蒙古旗の兵は、天聰三~四年の動員数に従えば1万以下、成人男子全体の3分の1を動員したとして約2万、仮に2分の1まで動員率を引き上げたとしても約3万である。」⇒『八旗制度の研究』P.234~235 ②「しかし、明への攻勢が進むにつれて大規模な戦いを余儀なくされるのに対し、元々決して多くなかった八旗の兵力はむしろ消耗していた。そのため、新附の満洲・モンゴル人で八旗の兵を補い、外藩モンゴルから招集した兵を直接指揮下に入れるなど、強引に兵力を増して対明侵攻を進めていった。」⇒『八旗制度の研究』P.238 とあるのを併せて考えると、天聰年間から八旗の総動員兵数はあまり変わらず、崇徳年間は自転車操業的に戦争で生じた不足分を新附の軍勢を当てたと宣和堂は考える。 [戻る]
  15. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  16. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  17. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  18. (順治七年)十二月薨於喀喇河屯年三十有九⇒《欽定宗室王公功績表傳》巻4 傳2 親王 和碩睿親王多爾衮傳 [戻る]
  19. (康熙十七年)是歲、三桂年六十有七⇒《清史列傳》巻80 逆臣傳 吴三桂 [戻る]
  20. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]

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