ホンタイジのモンゴルかぶれ

 図書館で見つけた、内藤虎次郎 等輯『満蒙叢書 第9巻 瀋陽日記』満蒙叢書刊行会 をペラペラ捲っていたところ

この日記の如きは實に其史料中最も正確に、且つ重要なるものにして、之によりて淸實錄の記事の正確なることを證するに足り、時としては其の失載せる事實を明にすべきものあり。試みにその一二の例を舉ぐれば、淸實錄順治元年四月朔日の條に、粛親王豪格の爵を削りしことを載せ、その由來をも詳かに記せるも、然もこの日記の前月二十九日及び四月四日の記事を見れば、この事の始末に於いて相發明するに足るものあり。殊に淸軍の李自成と山海關に於ける交戰の如きは、睿親王が行軍の途に於いて吳三桂の使に接せしことより山海關外に於ける戰狀に至るまで、淸實錄とこの日記とは其月日は符合し、其記事は相輔けて、當日の實情を明白ならしむるものあり、聖武記の記事が月日、事實に於いて並びに正確を缺くのに比にあらず。i

などと興味深い事が冒頭の「瀋陽日記 解題」に書いてあり、うっひょー!入関時期の同時代史料や!と、ワクワクしながらページを何度もめくったのですが、お目当ての順治元年の記事になかなかたどり着きませんでした。

 もう一度解題に戻って横のページをよく見ると…

第九巻書目 瀋陽日記 自丙子十二月至壬午十二月

とあります。何というか、内藤の方のコナン君に一杯食わされましたかね…。これ、崇徳元年12月から崇徳7年12月までしか記事がないってことです。探しても見つからないわけです。
 ともあれ、『瀋陽日記ii』は三田渡で城下の盟を交わして瀋陽に人質として滞在した昭顕世子の侍官の日記ですから、貴重な同時代史料には違いありません。

 気を取り直して、その他の記事をペラペラ捲ってみました。

(丁丑=崇徳二年七月)二十一日丁亥 晴。
世子留瀋陽舘所。虎皮者、音所二博士、以其皇帝之命、持蒙書二巻。而來請世子大君之學之。世子曰「皇帝欲教之意、誠爲感激。但語音不通。不可猝然學得。若先教年少從官。則余亦漸次暁解矣。」博士曰「俺等只承往教之命。宜令朴[竹/魯]將此意往通於禮部。」朴[竹/魯]往言之。禮部還持蒙書而去。

 丁丑年、つまり崇徳2(1637)年七月二十一日、瀋陽館に居た昭顕世子の所に、虎皮者、音所という二人のバクシ皇帝の命令として、モンゴル語の書物を2巻持ってきた。この辺、マンジュの人名は半島の記録は清朝謹製の書物とは同じ漢字は使わないので注意が必要ですが、ここで誰かに比定するのは控えておきます。皇帝世子大君(昭顕世子の弟の鳳林大君=後の孝宗も瀋陽に滞在していた)にこれを学ぶように要請した。どうやら、ホンタイジモンゴル文化を摂取しようと躍起だったのは、よく指摘されます。恐らく、マンジュより漢文化に馴染んでいた朝鮮王家に対するコンプレックス混じりに、これからはモンゴルだよ!モンゴルの本を読みなよ!と、お節介にも言ってきているわけです。マイブーム押しつけてくる上司みたいだと思えばわかりやすいですかね…。世子は「皇帝からのモンゴル語教授のご厚意、誠に痛み入ります。しかし、モンゴル語はどのように読めば良いのか分からず、にわかに学んだとて物にはならないでしょう。もし、先に年少の随官に先にお教えいただき、しかる後にその者に私が習えば、ようやく理解出来るのではないでしょうか。」ということで、語学学習使用って人に何の注釈もないテキスト投げつけるというのも至極不親切なんですが、ああ…ホンタイジならそういうとこあるかなぁ…という感じですね。基本的には田舎のブラック中小企業の社長みたいなメンタリティーの人なので…。昭顕世子も半年しか経っていない割には、身の処し方を十分理解しているように見えます。
 話を戻しましょう。こう聞いてバクシ達は「我々はただ、教えよという主命を受けてここに来たに過ぎない。朴[竹/魯](随員の一人)に命じてこの意を礼部に伝えなさい。」と言ったので、早速礼部にやってこの事を伝えたところ、礼部モンゴルの書物を持ち帰った。うーん…モンゴル語の本を投げつけて終わらせようとしたら、教えてくれとか言う話になってめんどくさくなったんですかね…。ともあれ、昭顕世子の方も手元にモンゴル語の本があったままでは、教えてやろうとわざわざ貸してやったのに、何故手もつけていないのだ!と、叱責を買うのは目に見えそうですしね…。巧い返しだと思います。
 ともあれ、ホンタイジモンゴルかぶれに関する記事があったんでメモでした。

  1. 『満蒙叢書 第9巻』瀋陽日記 解題P.3 [戻る]
  2. 同名の日記が何件かあるので、特に《昭顕世子瀋陽日記》と区別することもある…というか、検索する時はこちらの方がヒット率がいい。 [戻る]

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