順治元年入関前夜2─昭顕世子の見た入関

 前回と同じく、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでいてもう一つ引っかかった部分をネタにします。

 まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i

 ドルゴンが兵法三十六計以逸待労を以て李自成をいてこましたんやで!と言うことになってるけど、そうだっけ?と言うお話です。

 まずは、前回ようやっと4/9にムクデン盛京瀋陽を出発した入関作戦軍ですが、今回は呉三桂の使者と遭遇するまでの進路について確認して見ました。もうすでに以逸待労まで行かないこと確定です。悲しい…。
 で、まずは勢い込んで《大清世祖実録》を確認したんですが、あまり手がかりがありません。

(四月)庚午(十三日)。攝政和碩睿親王師次遼河地方。ii
(四月)壬申(十五日)。攝政和碩睿親王師次翁後。iii

 とりあえず、遼河地方を経由して翁後という場所に進軍したことは分かりますが、翁後という場所が分からない以上なんともなりません。

 仕方がないので、《清初内国史院满文档案譯编》を確認して見たのですが…。

 四月初九日。(中略)是日、帅次定丘。
 初十日、帅次六哈。
 十一日、帅次杨柽木。
 十二日、帅次张郭台口。
 十三日、帅次辽河地方。(中略)
 十四日、帅次卓所。
 十五日、帅次翁后。(中略)iv

 定丘六哈張郭臺口卓所については不明です。楊檉木については《皇朝文獻通考》、《廣寧縣志》でヒットはしたものの、牧場があると言うことが分かるだけで、具体的な場所については分かりませんでした。

 ここで暗礁に乗り上げかけたのですが、《昭顕世子瀋陽日記》を確認したところ、かなり具体的でその行程が記述されています。長いですが、ちょっと引用しましょう。

甲申 四月 初九日 丙寅 大風
 世子瀋陽離發西行。(中略)出西門外十里許射場前。祇送。○是日未時、至永安橋西邊止宿。去九王陣。纔數里許。蓋九王使之常近行陣中也。v

 と、こんな感じで毎日記述がある上にかなり具体的です。まず、昭顕世子一行は4/9はムクデン瀋陽西門から出発し、昼過ぎ(未時)には瀋陽西方にある永安橋に到達して、橋を渡りきって西側に来た段階で宿営しています。また、日記を読むと世子はこの日に限らず、ドルゴン九王の陣営のほど近くに居たようですから、この日記を追っていけば概ねドルゴンの進軍行程が分かりそうですね。

初十日 丁卯 大風
 (中略)○卯時、離發、在九王陣中、前進西出古長城。卽遼・蒙交界也。九王暫時駐兵、世子亦下馬少歇。申時、止宿于遼河東邊。去永安六十里也。vi

 次いで4/10には朝方(卯時)には出発し、長城を西に前進しています。この時代ほとんど用をなさなくなっていた古長城遼東鎮長城を越えて南モンゴル方面に進軍しているようですね。日記も遼・蒙の境界としています。昼過ぎ(申時)には遼河の東側に到着して宿営してます。この日の行軍は永安橋から60里程度の行程だったようです。この後も概ね一日60里のスピードを維持しているようです。

十一日 戊辰 晴
 (中略)○卯時、到遼河。水深盈丈、夫馬則卸鞍泅渉、輜重卜物、以船載之、而船隻鮮少、未易得濟。世子馬、久坐河邊、九王先渡、遣兩博氏、使之護涉、且送小船一隻、世子率陪從人員、安穩渡河、入見九王於陣中。因卽前進、去遼河二十里許、止宿。地名、則清人謂之狼胥山、而大野中了無山形、必是清人之訛傳也。vii

 翌4/11、この日も朝方(卯時)には出発して遼河に到達しますが、水深が深かったために行軍が難渋したようです。船を使って渡河したようですが、準備不足でそもそも船が明らかに足りていなかったようです。世子の馬は川辺に座ってしまい動かなかったので、ドルゴンが先に渡河してしまい、後になってドルゴンバクシ二名を派遣して船を用立てて世子一行が問題なく渡河出来るように手配しています。至れり尽くせりですね。渡りきったところで世子ドルゴンに挨拶に行ってます。そのまま20里ほど進軍して狼胥山と言うところで宿営したようです。これがどこなのかは不明ですが、この日記の記録者も山なんてどこにもないから清人の訛伝ではないかとしています。《清初内国史院满文档案譯编》では4/11には楊檉木に宿営したことになっていますから、あるいは楊檉木の事なのかもしれませんが、なんとも言えませんね。

十二日 已巳 朝乍雨晝晴夜雨
 (中略)○當午、九王駐兵、世子亦少歇于陣中。陪從人員、分賜羊肉・蜜果。世子往見九王於陣中、只率譯官徐尚賢輩數人而已、餘不得從焉。○申時、到豆乙非、止宿、去狼胥山、四十里許矣。○九王送二雉於世子前。viii

 4/12は朝から雨で行軍に難渋したようですが、昼頃には雨もやんだようで、お昼(當午)には兵を休めて、世子一行にはドルゴンから羊肉や蜜果が配られます。世子は通訳のみを連れてドルゴンの陣を訪れています。他の随員が同行出来なかったと言うことは密談でもしたんでしょうか?ともあれ、昼過ぎ(申時)には豆乙非という場所に着き、宿営したようです。この地名も場所が不明です。《清初内国史院满文档案譯编》では4/12には張郭臺口と言う場所に宿営したとありますが、これもなんだか違いそうですね…。この日は雨のため進軍が遅れて狼胥山からは40里しか進軍出来なかったようです。この日、ドルゴンは雉を二羽、世子に届けたようですね。結構面倒見がいいように感じます。

十三日 庚午 晴
 (中略)○卯時、發行(中略)。九王駐兵、坐於丘陵上、世子亦少歇于陣外。陪從人員、分賜羊肉・蜜果。○申時、行到地名愁乙古。(中略)則錦州衛所管屯所、而南去錦州三日程云矣。(中略)去豆乙非六十里許矣。ix

 4/13はまた朝方(卯時)には出発して、途中ドルゴンが丘の上で休憩して、また世子一行に羊肉と蜜果が配られます。この頃はわりに折に触れて羊肉と蜜果が配られてますね。昼過ぎ(申時)には愁乙古に到着して宿営したようです。この地名も場所が比定出来ないんですが、《大清世祖實録》及び《清初内国史院满文档案譯编》では4/13には遼河地方に到達したことになっています。ご覧のように《昭顕世子瀋陽日記》の記述とは日程が2日ほどズレていますが、この辺のズレはどう考えるかですね。ともあれ、愁乙古錦州衛管轄の屯所があり、錦州からは3日の旅程だそうです。1日60里計算だと180里でしょうか。この日は豆乙非から60里進軍したようです。

十四日 辛未 風
 (中略)○卯時、發行、前進出柵門外、始見蒙人之居。或氈車、或蘆幕、五六成屯、處處居焉。葛林博氏於中路、以九王之言來傳於世子前曰、明日欲為行獵、世子亦抄率善騎射者從焉。世子曰、山乎、野乎。博氏曰、明日所經、一面有山、而所稱多獸、故王欲與世子行獵耳。世子曰、敢不惟命。葛林卽還本陣。○是日、行六十里、許蒙古村止宿陣。x

 4/14もまた朝方(卯時)には出発し、柵門?を出たとあります。ここで世子一行は始めてモンゴル人の居住する場所を見たと記しています。長城を越えても柵門?を越えるまでは漢人の居住地だったみたいですね。途中、ガリン・バクシ=葛林博氏が世子ドルゴンからの伝言を伝えに来ます。曰く、明日猟を行いたいので、世子は騎射が巧みな者を選んで随行させるように、と。世子が山に行くのか野で行うのかガリンに問うと、明日行く場所は山があって野生の獣が多いという話なので、ドルゴン世子と猟をしたいとのことだ…と言うので山に行って猟に行く予定だったようです。従軍中にしては暢気な気もしますが、巻き狩りが軍事演習の意味を持つといいますし、士気を上げる意味もあったのでしょう。世子が必ずや命に従いますと返答するとガリンは本陣に帰っていったようです。この日も60里の行軍を行ったものの、モンゴルの村落と言うだけで地名を記していません。《清初内国史院满文档案譯编》では4/14は卓所と言う場所に宿営したとあります。

十五日 壬申 風
 (中略)○卯時、行軍五里之許、九王駐兵不進、未知其由。俄聞有俘獲漢人之說。世子使譯官徐尚賢、微探于陣中。則范文程密言曰、山海總兵吳三桂、遣副總一人・游擊一人來言、西流賊春初、犯圍皇城。三月、皇城見陷、皇帝兵逼自縊、后妃亦皆自焚、國事至此、已無可爲。賊鋒東指、列郡瓦解、唯有山海關獨存、而力弱兵單、勢難抵當。今聞大王業已出兵、若及此時、促兵來救、則當開山海關門、以迎大王。大王一入關門、則北京指日可定、願速進兵。九王欲探其言之虛實、見其妻弟拜然、與漢將一人、偕往山海關、漢將一人、則方留在軍中云云、而軍機甚密、末能詳知矣。○夕時、衙譯李李芿叱石、以九王分付、來言曰、自明日、當為倍程(中略)xi

 4/15も朝方(卯時)には出発しますが、前日約束した猟を行ったわけでもなく、出発して5里のところでドルゴンは進軍を止めてしまいます。世子一行も理由が分からず混乱したようですが、その内、漢人を捕らえたという噂話を耳にしたようです。世子が通訳に命じてドルゴンの陣中に探りを入れさせたところ、范文程からこっそり教えて貰ったところ、山海関総兵(実際には山海関を実効支配しているに過ぎないのだけど)呉三桂から副総1名と遊撃1名が派遣されてきたようだと。その二人が言うには、李自成軍が春先に皇城北京を包囲し、3月には陥落してしまった。皇帝陛下は李自成軍が迫ってきたので自縊し、后妃はみな自ら火を放ってしまった。明朝もことここに至ってはなすすべもなかった。李自成軍が東に進むと、各地の軍は瓦解してしまって山海関を残すのみとなってしまった。しかし、山海関の兵は弱い上に少なく、単独では李自成に対抗出来ない。そこで、今、大王=ドルゴンが大業を興すために兵を挙げ他と聞いた。もしこの好機に援軍を出していただけるのであれば、山海関の門を開いて大王をお迎えしましょう。大王が一度山海関の門を潜れば、北京は程なく制圧出来ましょう。願わくは疾く兵を進めて下さい…とのことであった。呉三桂が3月終わりに派遣した副将楊珅、遊撃郭雲龍ドルゴンの本陣に到着したと言うことでしょうね。范文程は軍機をこんなにペラペラ話していいのか心配になりますが、お陰でドルゴンにとっては北京の陥落との滅亡は全くの寝耳の水であったことと、呉三桂の使者が想定しないタイミングでやってきたことが分かります。ともあれ、まずは話を続けます。
 ドルゴンは使者のもたらした情報の虚実を知るため、義弟(妻の弟?)拜然?と漢人将軍一人を山海関に遣って、(拜然はすぐに引き返させて?)漢人将軍はそのまま山海関に留めようとしたとかなんとか使者のうち一人を同行させて山海関に派遣して(虚実を確認させ)、一人を陣中に留めておくとかなんとかxii、軍機なので秘匿性が高くこれ以上の詳細は分からなかった…と書かれてますが、十分なんじゃないかとw夕方(夕時)、通訳からドルゴンの命令として、明日からは倍の行程を進軍を行う旨伝達された。
 と言うわけで、《昭顕世子瀋陽日記》には呉三桂の使者と遭遇した場所の地名は記録していませんが、《大清世祖實録》及び《清初内国史院满文档案譯编》では、翁後と言う場所であったと記されています。宮寶利《順治事典》遠流出版公司 では翁後遼寧阜新xiiiとしています。おそらくは翁後遼寧省阜新市に比定しているんでしょうけど、根拠が書かれていません。しかし、元々ドルゴン遼東鎮長城を越えて後の承徳あたりを経由、喜峯口あたりから薊鎮長城を越えて薊州経由で、若しくは古北口あたりから薊鎮長城を越えて密雲県を経由して北京を攻撃するつもりだったようです。当然、ドルゴン瀋陽から西行して医巫閭山の北を進軍し、その後の進軍から考えるとおそらくは遼寧省阜新市近辺を行軍していた時に呉三桂の使者と遭遇したと考えるのは妥当です。もう一つ根拠が欲しいところですが、自分も基本的には翁後阜新市近辺と言う説には同意します。
 しかし、呉三桂山海関から使者を派遣した3月後半は、まだドルゴンは入関作戦の軍を出発してすらいない時期ですから、当然、使者はムクデン瀋陽に向けて出発したはずです。通常、山海関から瀋陽に向かおうとすれば遼西走廊を素直に東行して医巫閭山の南を通るはずです。となるならば、彼ら自身が「今聞大王業已出兵」と言うように、道中ドルゴンが進軍していることを人から聞いたと言うことになります。では誰が使者にドルゴンの進軍ルートを教えたのかというと、史書にはどこにも書かれていませんが、遼西走廊の要衝・錦州衛を鎮守していたアイドゥリが関係していたと思われます。4/13の愁乙古での記述にあるとおり、この時点ではドルゴン錦州衛の管轄区間を進軍していたわけです。使者は錦州アイドゥリからドルゴンの遠征を知らされて、東行して直接瀋陽に行くのをやめて、錦州から北行して義州を経由して翁後に至ったのだと考えなければ、使者が都合良く遠回りしてドルゴンに遭遇したなんて幸運が発生した理屈がつきません。《大清世祖実録》をサラッと見るとこの頃の錦州防衛は各旗のグサ・エジェンが二ヶ月ごとに交代しているようなので、2月後半に赴任したアイドゥリは少なくとも4月後半までは錦州には居たはずです。この使者が4/15段階でドルゴンに遭遇しなければ、その日はドルゴン世子らと楽しく巻き狩りしてそのまま承徳方面に西行していたはずで、そうこうしているうちに呉三桂李自成に制圧され、清軍長城を越えて北京をついたとしても持久戦に持ち込まれて、負けないまでも撤退に追い込まれた可能性もあります(そもそも南モンゴル経由だと兵站線が細すぎて補給が維持出来ないので、最終的には略奪に走るしかなくなるのはホンタイジ時代の華北侵入の顛末を見ると明らか)。アイドゥリの功績は下手をすると、鑲藍旗旗王であるジルガランを凌駕する可能性もありますから、6月にジルガランの独断で刑死したのはいさかタイミングが良すぎる気もするんですよね(個人の感想です)…。

 と、《大清世祖実録》、《清初内国史院满文档案譯编》、《昭顕世子瀋陽日記》はともに呉三桂の使者とドルゴンが遭遇したのは4/15であったとするのですが、これとまた違う主張をする史料があるので一応紹介しておきます。

(仁祖二十二年五月七日)淸國付勑書于譯官之出來者, 有曰:
四月十三日, 有明總兵官吳三桂, 差副將楊新、遊擊柯遇隆, 至軍請降言: “流賊已尅北京, 崇禎皇帝及后俱自縊。 賊酋(李志誠)〔李自成〕 , 三月二十三日卽位稱帝, 國號大順, 建元永昌。 屢差人招吳揔兵, 吳揔兵不從, 率家屬及寧遠兵民, 堅守山海關, 欲附淸國, 以報故主之仇。” 云。 九王答書付來官, 許以裂土封王, 遂兼程前進。xiv

 このように、呉三桂に関する記述が若干漂白されている気がしますが、清朝から朝鮮王朝への国書には呉三桂からの使者である副將楊新(楊珅)と遊擊柯遇隆(郭雲龍)がドルゴンと遭遇したのは4/13である!と、書かれていたとあります。固有名詞が結構いい加減なのは、李自成すらそうなので気にしないことにするとしても、やはり2日ズレています。これだけならマンジュ朝鮮への翻訳時の書き間違いかな?と思うのですが、もう一つありまして…。

(順治元年)五月初一日。皇帝勅谕朝鲜国王李倧曰。朕命摄政和硕睿亲王持奉命大将军之印、率大军西征明国。摄政和硕睿亲王于四月二十八日奏曰、四月十三日、明总兵吴三桂遣副将杨珅、游击郭云龙来禀、流贼已陥燕京、崇祯帝后自缢。贼主李自成于三月二十二日僭称帝、国号大顺、改元永昌、又遣人招降吴三桂。三桂不从、遂自宁远取其家口、率军民自永平府返据山海关、欲来投、为崇祯帝报仇。遂谕其使曰。若来降、即裂地封王。谕毕、令赉书而去。xv

 ほぼ同じ内容ですね…。《清初内国史院满文档案譯编》が満文漢訳する時に《朝鮮實録》に引きずられた可能性はあるんですが、遼河到着あたりで《大清世祖實録》、《清初内国史院满文档案譯编》と《昭顕世子瀋陽日記》にも2日のズレはあったので元になった史料にそうあるのかは謎なんですが、とりあえず日付に信憑性のある日記の方を信じて呉三桂の使者とドルゴンの遭遇は4/15としておきます。
 それはそれとして、《大清世祖實録》にある4/13の洪承疇の献策は謎と言うことになりますね…。遼河地方での献策と言うし本当に謎です。

日付干支世祖實録内国史院檔昭顕世子瀋陽日記瀋陽日記備考
04/09丙寅未時:永安橋西大風
04/10丁卯六哈卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊大風、永安六十里
04/11戊辰杨柽木卯時:遼河、宿:狼胥山晴、遼河二十里
04/12己巳张郭台口申時:豆乙非朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里
04/13庚午遼河地方辽河地方卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程)晴、豆乙非六十里
04/14辛未卓所卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村風、行六十里
04/15壬申翁後翁后卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進風、明日當為倍程
04/16癸酉西拉塔拉西拉塔拉卯時:出発、宿:古長城南十五里晴、迤南行五十里、又行六十里
04/17甲戌团山堡卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里晴、行八十里
04/18乙亥基扎堡卯時:出発、申時:雙曷之晴、行八十里
04/19丙子鄂新河卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里
04/20丁丑連山连山卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城
04/21戊寅山海關十里外山海关十里外李霞山台黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所晴風
04/22己卯山海關山海关平明:出発、入關門、初更:關門五里晴風
04/23庚辰北山山麓卯時:出発朝晴晩雨、行十里
04/24辛巳新河驛新河驿卯時:出発、宿:深河驛晴風、行四十里
04/25壬午撫寧縣抚宁县卯時:出発、宿:撫寧縣城北晴風、行六十里
04/26癸未昌黎縣昌黎县卯時:出発、宿:昌黎城南晴、迤南行七十里
04/27甲申灤州滦州河卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里)晴、西行八十里
04/28乙酉開平衛开平卫卯時:出発、宿:開平城西十里晴、行百十里
04/29丙戌玉田縣玉田县卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居晴風、行軍百餘里
04/30丁亥公羅店公罗店卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里)晴、行軍七十里
05/01戊子通州卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江晴夜陰、行六十餘里
05/02己丑燕京待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿

参考文献:

岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社

  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.46 [戻る]
  2. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  3. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  4. 《清初内国史院满文档案譯编》P.1~3 [戻る]
  5. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記(訳註 昭顯瀋陽日記4』では北行日記としているが、『影印 昭顯瀋陽日記』を確認したところ、元々この従軍記にはタイトルがない。《瀋陽日記》本文では西行日記としていることからこれに従った。) [戻る]
  6. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  7. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  8. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  9. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  10. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  11. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  12. 2017/10/11 遊牧民先生の指摘を受けて語訳を修正 [戻る]
  13. 《順治事典》P.72 [戻る]
  14. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 巻45 [戻る]
  15. 《清初内国史院满文档案譯编》P.12 [戻る]

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