順治元年入関前夜3─昭顕世子の見た入関

 前回と同じく、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでて引っかかった部分のネタです。

 まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i

 ドルゴンが以逸待労の計で李自成をコテンパンにしたことになってますが、本当にそうだっけ?と言うお話です。


 まずは、前回ようやっと呉三桂の使者とドルゴン率いる清軍が遭遇した所まででしたが、今回は山海関に到着するまでの経路について確認して見ました。
 で、今回もまずは《大清世祖実録》を確認したんですが、やっぱりあまり手がかりがありません。

(四月)癸酉(十六日)。攝政和碩睿親王師次西拉塔拉。ii
(四月)丁丑(二十日)。攝政和碩睿親王軍次連山。iii
(四月)戊寅(二十一日)。師距山海關十里外。iv
(四月)己卯(二十二日)。師至山海關。v

 翁後呉三桂の使者と遭遇した清軍はその虚実を疑いながらも、4/16には西拉塔拉(現在地未詳)、次いで4/20には連山驛(辽宁省葫芦岛市连山区)に到着。遼西走廊に突入していますね。そして4/21には山海関から10里あまり離れた地点、4/22には山海関に到着しています。4/22は李自成軍と合戦した日ですから、少なくとも清軍は合戦当日朝まで行軍しています。4/16に翁後を出発して4/22に山海関に到着するまで7日かかってます。
 また、呉三桂の使者と清軍が遭遇した翁後辽宁省阜新市に比定すると、山海関までの直線距離は約280kmですが、実際の進軍は遼西走廊沿いに進みますので、Google Earthのルート検索を使うと約300kmになります。日本史上で強行軍というと誰もが思い浮かべる羽柴秀吉の中国大返しは約10日間で約200kmの行軍と言われていますが、清軍は一週間で翁後から山海関まで約300kmの行軍しています。距離は1.5倍ですが単純計算すると、中国大返しが1日約20kmに対して入関作戦は1日約43Kmです。歩兵か騎兵かの違いがあるので当然単純比較は出来ませんし、行軍速度についての優劣をつけるのがこの項の目的ではありませんが、この時の清軍中国大返しの倍以上のスピードの行軍を強行しているわけで、これを指して「十分に休息し、英気を養った」というのは流石に事実誤認ではないでしょうか?むしろ、清軍は常軌を逸した行軍スピードでヘトヘトになってろくに休息も取らずに、北京を陥落させて士気も高まる李自成の精鋭含める大軍と対峙したと認識した方が良さそうです。むしろなんで勝てたのかさっぱり分かりません。何故、清軍では戦えば必ず勝つと誰もが信じているのかもよく分からないんですが…。

 と、ある程度結論は出てしまったのですが、もうちょっと細かく行軍経路を確認するため、《清初内国史院满文档案譯编》も確認して見ましょう。

 十六日。进发山海关、师次西拉塔拉。(中略)
 十七日。师次团山堡。
 十八日。师次基扎堡。
 十九日。师次鄂新河。
 二十日。立营于连山。(中略)
 二十一日。师距山海关十里外李霞山台驻跸。(中略)
 二十二日。师至山海关。vi

 實録では4/16からどこに向かうつもりだったのか今ひとつよく分からないのですが、こちらではちゃんと山海関に向けて出発して、西拉塔拉に到着した…と書かれてます。先にも書いたように西拉塔拉と言う地名をどこに比定するのかは分かりません。團山堡については《九邊圖說》の遼東鎮部分地図の廣寧府(辽宁省锦州市北镇市)の上に地名がありますが、翁後遼寧省阜新市に比定すると、その後の進軍経路から考えるに廣寧府付近を通過すると結構な遠回りになります。また、基扎堡鄂新河についても現在地を特定出来ません。連山驛は比定出来ますが、山海関から十里の李霞山台と言うのも現在地を比定出来ませんでした。

 と、ここで終わると結局どこ行軍したんだよ…と、モヤモヤするのですが、我らが昭顕世子一行が詳細な行軍経路を記録していますので、《昭顕瀋陽日記》を見てみましょう。

十六日 癸酉 晴
 (中略)○卯時、發行。世子往見九王於行陣、迤南而行五十里許、少歇于丘陵上、又行六十里許、止宿。南去古長城、十五里也。所經多沮洳之地。至一渠、蒲柳甚密、見之無異平陸、而泥土沒馬、清人先行者、多見陷溺、僅得拔馬而出、至如騾驢之屬、顛斃於泥中者、頗多。(後略)vii

 四月十六日晴れ、朝方(卯時)出発。世子九王ドルゴンの陣に挨拶に行った。と言いますから、ドルゴン昭顕世子と同様に進軍していたと考えて良いでしょう。で、今まで西行していた進行方向を南に転じて50里行軍し、そこで休憩とってまた60里行軍して遼東鎮長城まで15里北の場所で宿営した。額面通りに受け取れば、この日の行程は110里で前々日の60里のほぼ倍ですから、前日通達された「自明日、當為倍程」という言葉も嘘ではないようですね。と、行軍中は晴れてようですが、途中菖蒲や柳が密集している水路があって、一見平地に見えるものの、落ちると馬が泥土に取られて溺れてしまったようです。ロバやラバぐらいの大きさの馬はなんとか引き出せたようですが、並以上の馬は水路から抜け出せずに死んでしまったようで、昭顕世子一行より先行していた清軍の中には結構な被害が出たと記録されています。初っぱなから落とし穴が待ってる行軍だった割にかなり進んでますね…。

十七日 庚戌 晴
 (中略)○卯時、發行、踰古長城、卽中原地界也。至臨寧城西、少歇。九王送一獐于世子前、卽受之叩謝。申時、至義州衛南二十里許、止宿。是日、行八十里。(後略)viii

 四月十七日晴れ。朝方(卯時)から出発し、遼東鎮長城を越えた。臨寧城の西に到着。…とありますが、臨寧城の現在の所在地は分かりませんでした。もしかして廣寧府城?とも思ったんですが、『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記』の方を確認しても、ちょっと筆運びがクチャクチャしている箇所で多分臨かなぁ?という感じで判別がつきません。それに、廣寧府の西となると自分が想定したルートからは外れてしまうので、やはり違うとは思うのですが、比定には到りませんでした。ただ、《清初内国史院满文档案譯编》の4/17の項では團山堡とあり、《九邊圖》では廣寧府の西北に團山堡とあるので、あるいは自分が想定している翁後の場所の比定自体が間違っているのかもしれませんが…。続けます。
 九王ドルゴン臨寧城の西で休憩を取り、世子に獐=ノロジカ一頭を下賜した。世子は叩頭して謝意を述べてノロジカを拝領した。夕方(申時)、義州衛(辽宁省锦州市义县义州镇)の南20里の場所に到着し、ここで宿営した。この日の行軍は80里。流石に倍速行軍は長続きしなかったようですが、翁後までの一日平均60里に比べると3割増しの行軍ですね。

十八日 乙亥 晴
 (中略)○卯時。發行。申時、到地名雙曷之、止宿。是日行八十里。(後略)。ix

 四月十八日晴れ。朝方(卯時)出発し、夕方(申時)に雙曷之という場所に到着して宿営。雙曷之の現在地は不明ですが、《清初内国史院满文档案譯编》では基扎堡ですね…。どちらにせよよく分かりません。この日の行軍も80里。

十九日 丙子 晴
 (中略)○卯時、發行。午時到錦州衛、大軍從北門入城中、軍馬紛沓、不成行伍矣。城內閭閻櫛比、而兵燹之後、居民鮮少。世子過祖大壽・祖大樂舊居、范文程亦偕往、周覽兩人家、其結構宏傑、甲於城中、重門複室、金碧炫耀、甃磚石砌、雕刻奇形、文垣粉牆、窮極華麗、而大壽之家、尤爲侈奢、或云、中原巨室之家、過於此者、多矣、而我國則雖至尊之居、不能如是。其華奢其黷貨取怨、以致覆敗之說、殆不虛矣。世子因過我國軍兵留屯之處、領兵將朴翰男、率軍兵五百五十四名、已往寧遠衛、只有五六名留在、死於染病者、二十餘名云矣。○未時、世子從西門出、行二十里許、止宿、出門之際、陪從相失、禁軍輩不得隨行、講院請罪、各決棍五度。(後略)x

 四月十九日晴れ。この日も朝方(卯時)から出発、夕方(午時)には錦州衛(辽宁省锦州市)に到着。清軍は北門から入場したが、軍馬が殺到して隊列を成さなかった。城内の建物が櫛の歯のように歯抜けになっていて、兵が(建物を壊して作った薪を)燃やした後は、住民が明らかに少なくなっていた。と、ここで世子はブラブラと祖大寿一族の旧家を見学したようですが、范文程も一緒に行ったようですね。本筋とは関係ないので訳出しませんが、面白いので原文は削らずにおいておきます。
 で、昼過ぎ(未時)には世子錦州衛の西門から出発して20里行軍して宿営。ここでまた進軍方向が南から西へ変わってますす。門から出発する際には世子は従者とはぐれ、禁軍は随行することが出来なかったた。と、かなり混乱していたようですね。混乱のためか、この日は延べ行軍距離が書かれていません。

二十日 丁丑 晴
 (中略)○卯時、發行、行三十里許、九王設幕下坐、請世子言曰、俺當少歇而行、世子先往止宿處、世子先行、至連山驛、城東清兵先陣、已圍布帳矣。九王追到、世子往見、俄而吳三桂、又遣將官于九王曰、賊兵已迫、朝夕且急、願如約促兵以救、九王卽發馳行、促令世子只率輕騎、上下顛倒、單騎趕行、卜駄則使司禦朴宗寧、領率追來、一行皆未及打火矣。達夜疾馳、人馬飢渴、黃埃漲天、夜色如漆、人莫開眼、咫尺不辨。至寧遠城下、夜已三更矣。不分城堞之遠近、而只見城中火暈、始知城下過去矣。過城底坑塹、出沒上下、如發山入井、魚貫跋涉、僅免顛沛、曉頭、至沙河所城外、九王駐兵小歇、世子露坐田疇間、陪從之人、各持纏牽、困頓相枕、露氣沾濕、塵沙蒙冪、顏面衣冠、變如他人。xi

 四月二十日晴れ。朝方(卯時)から出発、30里行軍したところで九王ドルゴンは陣営を張って座し、世子に先行して宿営地を設置するように命令した。世子は命令通り先行して連山驛(辽宁省葫芦岛市连山区)に到着したが、城東ではすでに先行した清兵が陣を設営しており、まさに陣幕を張っているところだった。当初、ドルゴンはこの日は連山驛で宿営するつもりだったようですが、呉三桂の使者が到着してから予定が変わります。
 ドルゴンが追いつくと世子は謁見に行った。すると、呉三桂の派遣した将官がまたやってきて、ドルゴンに「賊兵はすでに我が陣に肉薄しています。とにかく急いでください。約束通り救援が来ることを願います」と伝えました。前回の紹介部分ではドルゴンの義弟・拜然が同行していたハズですが、今回訳出した部分では特に記述はありません。また、《清史呉三桂伝を見ると、

越四日(四月二十日),王進次連山,三桂又遣雲龍齎書趣進兵。師夜發,踰寧遠,次沙河。xii

とあるので、4/15段階で使者として派遣された、副将・楊珅、遊撃・郭雲龍のうち楊珅が人質として清軍に留まったであろう事が推測出来ます。郭雲龍も超特急で往復してますね。訳に戻ります。
 ドルゴンは使者の報告を聞くや行軍を急ぎ、世子にも軽騎のみを引き連れて来るように指示した。しかし、装備のある従者が揃わなかったので、世子は単騎で先行して従者は後から追うことになった。一行は皆この日はまだ(炊事をするための)火をおこしてす暇すらなかった。…と言うことで、かなりドタバタした様子がうかがえます。
 夜になっても騎行したため、人馬ともに飢えて渇き、土煙は舞い、月や星は出ていなかったようで夜空は漆のように暗く、目を開けて行軍している人間などいない様な有様だった。寧遠城(辽宁省葫芦岛市兴城市)下についたのは、すでに夜中(三更)となっていた。城壁の遠近の判別が出来なかったので、ただ城中のかがり火を見て始めて城下を通り過ぎていると知った。とあります。で、寧遠でも足を止めることなく更に進軍します。
 沙河城(辽宁省葫芦岛市绥中县沙河镇)外に到着すると、ドルゴンは行軍を止めて休憩したので、世子は従者とともに道端のあぜ道にそのまま座った。露とほこりにまみれながら雑魚寝したので、世子も皆と同じように泥だらけになった。世子も人質とは言え旗王に次ぐ地位を認められていますから、ドルゴンを始め、従軍した旗王も似たり寄ったりの状況だったと思われます。
 連山驛で宿泊するつもりが寧遠衛を通過して沙河驛に来てようやく休憩して一眠りと言った状況ですかね…。錦州衛から沙河驛までザッと80kmですから尋常じゃない距離を一日で行軍しています。当然てんやわんやでこの日の行軍距離も記載されていません。

二十一日 戊寅 晴風
 (中略)○黎明、行軍、至四十里許、少駐卽即發。我行員役、或食或飢、過中後所・前屯衛・中前所、至關外十五里許。日已昏黑、屯兵不進、一晝夜之間、行二百里矣。供帳卜物、唯數駄隨行、而是夕、則亦不能得達、世子露坐路邊、陪從之人、借得清人軍幕、鋪排糖竹、世子入歇。經夜夕供、終不得進、一行之飢餒困頓、可知矣。○清兵披甲戒嚴、夜半移陣、駢闃之聲、四面沓至、關上砲聲、夜深不止。(後略)xiii

 四月二十一日晴れ、風あり。黎明から出発して40里行軍し、少し休憩してすぐにまた出発。世子一行は飢えを感じたら食べつつ行軍した。中後所前屯衛中前所を通過し、山海関から十五里の所に到着した。日はすでに暮れ、兵は一歩も歩けず進軍できなかった。一昼夜の間に200里行軍した。
 と言うことで、中後所前屯衛中前所は現在の辽宁省葫芦岛市绥中县にあったようです。いずれも明軍遼東に於ける軍駐屯地ですが、ここでは寧遠から山海関の間にある拠点という理解でいいかと思います。
 従者も物資もほぼ置き去りにして進軍していたので、この日の晩は世子は道端の地べたに直接座った。従者は清人から軍幕を借りて糖竹?を並べて寝床を作り、世子はそこで休んだ。夜通し歩きつめたためついに進めなくなって、一行は腹は減り喉は渇き疲れ果ててしまった。しかし、清兵は鎧を着けたまま厳戒態勢のまま、夜半には声を殺して陣形を崩さずに軍を移動させた。四方から靴音が響き、関上から砲声が鳴り響いたが、夜が更けても止まなかった。

 誰とどこで戦ってたんや!って話ですが、世子一行はこれを記していません。しかし、《清史稿呉三桂伝を見ると、詳しいことが書いてあったりします。

明日(四月二十一日),距山海關十里。三桂遣邏卒報自成將唐通出邊立營,王遣兵攻之,戰於一片石,通敗走。xiv

 山海関から15里だったのが10里になってる気がしますが、ともかくこの日、世子一行は気が付かなかった様ですが、また呉三桂から使者が来たようですね。李自成に降った定西伯唐通長城線を越えて宿営している旨報告があった。ドルゴンは報告を聞いて唐通を攻め、山海関の隣の関門・一片石(辽宁省葫芦岛市九门口)で合戦に及び、唐通は敗走した。
 よくまぁ、明け方から行軍続けて食うや食わずで、昭顕世子一行はもう一歩も前に進めない!と言う状態にあったのに、清軍よりは地理にも明るかったはずの唐通軍を鎧袖一触で敗走させています。清軍のタフさ加減に驚きますね。というか、これなんで当然のように勝ってるんですかねぇ…。相手と比較するまでもなくヘロヘロに疲れてる軍なんですが…。

 同時代資料で一片石という地名が確認出来ず、《清史稿》だけではいささか不安なのでもう一種上げておきます。

二十一日至山海,賊酋李志誠,領馬、步兵二十餘萬(中略)欲降三桂。三桂不,賊恐奔投我國,差僞摠兵官唐通 ,率兵數百,從一片石出,要截其路。是晩遇我前鋒,殺死百餘, 唐通夜遁入關。xv

 《朝鮮王朝實録》の仁祖22年5月7日の条に、瀋陽から帰国した鳳林大君一行が携えた昭顕世子からの報告を伝える…という体でこの記事があります。李自成李志誠になってますが、まぁ、朝鮮側の李自成の認識はこんなもんなんです。
 李自成は歩馬二十万を引き連れて山海関に4/21に到着し、呉三桂に投降を呼びかけた。しかし、呉三桂はこれに従わなかったため、李自成呉三桂清朝に投降することを恐れて総兵官唐通に兵数百を付けて一片石から長城を越えさせ、進路を防ごうとした。その晩に清朝の先鋒と遭遇戦になり、唐通は百余の損害を出したので、夜長城を越えて逃げた。
 内容的には《清史稿》とは矛盾しません。とはいえ、一片石山海関は関門としては隣で距離も15km程度とそう離れていないものの、遼西回廊から山海関へ行軍するには遠回りになります。一刻も早く山海関に行きたいのであれば矛盾するように思いますが、ここでは呉三桂の要請を受けてドルゴンはやや遠回りをして山海関に向かったと解釈しておきます。しかし、割とドルゴンも律儀に呉三桂の要請を聞き入れてますよね。
 で、ようやく翌日四月二十二日には一行は山海関にたどり着きます。
⇒2017/12/26追記
 と、よくよく《清実録》を読み返してみると、このあたりのことも書いてますね。

(四月)辛巳(二十四日)。(中略)攝政和碩睿親王多爾袞、以進山海關敗賊兵捷音奏聞。(中略)是晚、即敗賊總兵唐通馬步兵數百人於一片石。斬百餘人。賊兵遂遁。xvi

 山海関の戦いを4/21に終え、4/24に戦勝報告を瀋陽に対して送ったと言うのですが、その報告の中に、4/20の晩に李自成の総兵・唐通の歩馬数百人を一片石で破り百余人を斬り、敗残兵は逃げ去った…とあります。
 前後関係を考えると、《朝鮮王朝実録》にあるように一片石から侵入した唐通が、遼西回廊側から山海関を包囲しようとしたところを、山海関に向かう清軍に補足されて撃退された…という流れが状況から考えて納得しやすいのかなぁ…と、思います。たかだか10Kmそこそことはいえ、寄り道するような余裕はなさそうですしねぇ…。

 と言うわけで長くなるので次回に続くのです。 

日付干支世祖實録内国史院檔昭顕世子瀋陽日記瀋陽日記備考
04/09丙寅未時:永安橋西大風
04/10丁卯六哈卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊大風、永安六十里
04/11戊辰杨柽木卯時:遼河、宿:狼胥山晴、遼河二十里
04/12己巳张郭台口申時:豆乙非朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里
04/13庚午遼河地方辽河地方卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程)晴、豆乙非六十里
04/14辛未卓所卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村風、行六十里
04/15壬申翁後翁后卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進風、明日當為倍程
04/16癸酉西拉塔拉西拉塔拉卯時:出発、宿:古長城南十五里晴、迤南行五十里、又行六十里
04/17甲戌团山堡卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里晴、行八十里
04/18乙亥基扎堡卯時:出発、申時:雙曷之晴、行八十里
04/19丙子鄂新河卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里
04/20丁丑連山连山卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城
04/21戊寅山海關十里外山海关十里外李霞山台黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所晴風
04/22己卯山海關山海关平明:出発、入關門、初更:關門五里晴風
04/23庚辰北山山麓卯時:出発朝晴晩雨、行十里
04/24辛巳新河驛新河驿卯時:出発、宿:深河驛晴風、行四十里
04/25壬午撫寧縣抚宁县卯時:出発、宿:撫寧縣城北晴風、行六十里
04/26癸未昌黎縣昌黎县卯時:出発、宿:昌黎城南晴、迤南行七十里
04/27甲申灤州滦州河卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里)晴、西行八十里
04/28乙酉開平衛开平卫卯時:出発、宿:開平城西十里晴、行百十里
04/29丙戌玉田縣玉田县卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居晴風、行軍百餘里
04/30丁亥公羅店公罗店卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里)晴、行軍七十里
05/01戊子通州卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江晴夜陰、行六十餘里
05/02己丑燕京待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿

参考文献:

岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社

  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.46 [戻る]
  2. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  3. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  4. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  5. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  6. 《清初内国史院满文档案譯编》P.4~5 [戻る]
  7. 《昭顕瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  8. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  9. 《昭顕瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  10. 《昭顕瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  11. 《昭顕瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  12. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂 [戻る]
  13. 《昭顕瀋陽日記》西行日記 [戻る]
  14. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂 [戻る]
  15. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 22年5月7日条 [戻る]
  16. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]

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