決戦、山海関─昭顕世子の見た入関

 所定の目的は達成しましたが、折角なので続けて山海関の戦いのあたりを訳していきます。と言うわけで、山海関の戦いの当日です。

二十二日 己卯 晴風
 (中略)○平明、清兵進迫關門五里許、煙塵下、炮聲大發、俄而吳三桂、率諸將十數員・甲軍數百騎、出城迎降。九王受拜禮於陣中、進兵城下數里許、下馬而坐。漢人・清人、頻數往來、清兵左右陣、一時馳入關門、竪白旗於城上然後、九王繼之入關。

 四月二十二日、晴、風あり。明け方から清軍は軍を進め、山海関から五里に迫ったところで行軍を止めた。煙塵立ち籠め砲声鳴り響く中、にわかに呉三桂は将十数人、兵数百騎を率いて山海関の城塞から出て降伏のため清軍を出迎えた。九王ドルゴンは陣中で呉三桂の拝礼を受け、兵を城下数里の場所に移動させ、下馬してそこに座した。呉三桂側=漢人ドルゴン側=清人の間で頻りに使者が往来した後、清軍の先遣隊が山海関の中に入った。しばらくして、白旗山海関城門に立てられたのを見て、ドルゴンはようやくこれに続いて入関した。
 山海関に到着した後もドルゴン呉三桂の欺し討ちを用心していたって言うことでしょうか。先遣隊をやって山海関の城門を偵察の上、敵意がないことを確認して白旗を城門上に立てたと…この白旗って鑲白旗なり正白旗白旗ですかね…。

 ついでなので実録も確認して見ましょう。

(順治元年四月)己卯(二十二日)。師至山海關。吳三桂率衆出迎。王大喜。設儀仗。吹螺。同三桂向天行禮畢。三桂率所屬各官謁王。王謂三桂曰。爾回、可令爾兵各以白布系肩為號。不然、同係漢人、以何爲辨。恐致誤殺。語畢、令之先行。遂入關。i

 と言うわけで、こちらを確認すると、城下で呉三桂が降伏するに際してワザワザ儀仗を設けたり天に対して祭礼を受けた事になってますが、昭顕瀋陽日記では拝礼程度になっていますね。なので、いくらか略式だった事が予想出来ます。まぁ、そんな大がかりな儀礼をやってたら、いまにも攻め殺されちゃうよー!と何度も使者を送ってきた呉三桂にしては余裕あるな…って事になりますしね。個人的には、ドルゴン呉三桂に、殺されたくなかったら兵に目印のために白い布を肩に巻いておけ!と指示を出しているのも、ちょっとイラッとしたニュアンス感じます。実際、明軍の降兵同士が対戦する局面なので(実際、この一日前に清軍は李自成の勢力下にある明の降兵・唐通軍と交戦している)、同じ装備の漢人だと見分けが付かないので同士討ちになる可能性があるというのは確かにそうでしょう。とまぁ、山海関に到着した時点で行き交った使者がこういった条件を伝えたんですかねぇ…。で、呉三桂に先行することを命じてようやく入関するわけです。

蓋吳將、與流賊交兵而出城矣。兩陣酣戰于城內數里許廟堂前、飛丸亂射于城門。世子倚城底菜圃中牆壁而坐、九王所駐處、纔隔五六家矣。九王請世子。世子卽就入見、坐未定、九王便起上馬曰、世子亦當隨往戰所。

 呉三桂は流賊=李自成軍と交戦するため出陣した。両陣営は城内から数里離れた廟前で激しくぶつかり、流れ弾や砲弾が城門に当たった。世子は城内にある菜園?の牆壁で休んだが、九王ドルゴンがいる場所から五~六家ほど離れた場所だった。ドルゴン世子を呼んだので、世子はすぐ謁見に行ったものの座る暇もなく、ドルゴンは馬に乗ると世子に従軍して戦場に赴くよう指示を出した。
 …と言うことで、清軍が出陣する前に呉三桂が単独で李自成軍と合戦していたようですね。お廟の前で合戦に及んだ…というのは妙に具体的で説得力あります。恐らくこの後、呉三桂軍は一時退却して清軍と合流したのだと思われます。自分は最初、《清実録》読んだ時に昭顕世子の従軍すら疑ったんですが山海関に実際行っていたようです。失礼致しました。ともあれ、この辺は実録には全く記述のない部分ですから貴重な記録です。まぁ、降伏した軍はまずは矢面に立たされますから、そういう意味だとは思いますが、まだまだドルゴン呉三桂の事を信じ切れていなかったとも取れますかね…。

 更に続けます。

世子不得己黽勉隨行、躬擐甲胄、立於矢石之所、禁軍披甲者、只四人、其餘陪從之人、皆戰服而已、炮聲如電、矢集如雨。清兵三吹角三吶喊、一時衝突賊陣、發矢數三巡、劍光閃爍。

 世子はすでに気力が尽きていて、自分一人で甲冑を纏って矢石の飛び交う場所に出陣出来そうになかったので、禁軍の甲冑を着ている者を四人だけを出陣させた。その他の従者は従軍しなかった。砲撃は雷のように響き、矢は雨のように降り注いだ。清兵は三度角笛を吹いて三度突撃し、一気に敵陣に突っ込んで矢を三度射かけ、剣光は爛々と閃いた。
 と、修辞はともかくとして、世子自身は精魂尽き果てて出陣は出来なかったようですが、禁軍四名を出陣させて李自成軍への攻撃に加わったようです。しかし、肝心の山海関の戦いの経過が、バーンと行ってドーンと当たったら敵がガーッと散った程度のことしか書いてませんね…。まぁ山海関の戦いに戦況についてはどの記録見ても大同小異なんですが、清軍が突入して短時間のうちに李自成の大軍を打ち破ったという点だけは一致しています。

 もっと続けましょう。

是時、風勢大作、一陣黃埃、自近而遠、始知賊兵之敗北也、一食之頃、戰場空虛、積屍相枕、彌滿大野、騎賊之奔北者、追逐二十里、至城東海口、盡爲斬殺、其投水溺死者、亦不知其幾矣。初更、九王還陣于關門五里許戰場近處、世子隋還、陣外止宿。我國砲手一百三十五名、自寧遠衛入來、而方戰之時、未及用焉。(後略)

 この時、強風が吹いて一陣の黄塵が自陣から敵陣に向けて吹き抜け、始めて敵軍が敗北したことを世子一行は知った。食事を取る頃には戦場は閑散として、見渡す限り屍が互いを枕にして積み重なっていた。騎行して20里ほど掃討戦を行ったものの、山海関の東側(実際には南側)は海となっていたため、追撃を避けて逃げ惑って溺死する李自成軍の兵士が数知れずいた。初更(夜19~20時頃)、ドルゴンは軍を引き返して山海関から5里離れた戦場近くに宿営し、世子ドルゴンに従って帰陣し、陣の外に宿営した。朝鮮国の砲手135名を寧遠衛から引き連れて来たが、山海関の戦いでは投入されなかった。
 と言うわけで、山海関の戦いの際に強風が吹いたことは《清實録》にも見えますが、《昭顕瀋陽日記》でも確認が取れるわけです。《清実録》を確認するに、李自成軍は数を頼りに横陣を敷いて呉三桂軍の殲滅を図ったようですが、強風が止んだ瞬間を捉えて清軍が突撃するや一気に陣が崩れ、高みの見物を決め込んでいた李自成は戦況を見て慌てて逃亡したようです。

 ともあれ、ドルゴン率いる清軍は途中恐らく脱落者を出しつつ昼夜休まず200里進軍した翌日、明け方から進軍して午前中に山海関に到着、さして休憩も取らずに昼過ぎには李自成軍と対陣して戦闘を行いこれを大破、追撃戦を展開して残党を散々追い回して夜になってようやく山海関外に宿営した…と言うコトになりますね。《昭顕瀋陽日記》を読む限りでは、「清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。」という主張は事実と認めるわけには行きません。まぁ、山海関に到着してから出陣するまで十分に休息して英気をやしなっとるがな!と言う方もおられるかもしれませんが…。

 この辺、念のため《清実録》、《清史列傳》と《清史稿》の呉三桂伝の該当箇所を抜き出してみるとこんな感じです。

《清実録》⇒(順治元年四月)己卯(二十二日)。(中略)時賊首李自成、率馬步兵二十餘萬、自北山橫亘至海、列陣以待。是日、大風迅作。塵沙蔽天。咫尺莫辨。我軍對賊布陣、不能橫列及海。攝政和碩睿親王、集諸王・貝勒・貝子・公及諸大臣等、謂曰。爾等毋得越伍躁進。此兵不可輕擊。須各努力。破此則大業成矣。我兵可向海對賊陣尾。鱗次布列。吳三桂兵、分列右翼之末。號令畢。諸軍齊列。及進兵。令軍士呼噪者再。風遂止。各對陣奮擊。大敗賊衆。追殺至四十里。ii

《清史列伝》⇒明日(四月二十二日)、(中略)自成營北山、横亙至海。大兵對賊布陣、三桂居右翼末、悉出精鋭搏戰。時大風揚沙、戰良久、未決、大兵呼聲再振、風止、從三桂陣右衝賊中堅、騰躍合撃、大破賊、追奔四十里。iii

《清史稿》又明日(四月二十二日),(中略)自成 兵橫亙山海間,列陣以待。王令諸軍向自成兵而陣,三桂兵列右翼之末。陣定,三桂先與自成兵戰,力鬥數十合。及午,大風塵起,咫尺莫能辨,師噪風止。武英郡王阿濟格、豫郡王多鐸以二萬騎自三桂陣右突入,騰躍摧陷。自成方立馬高岡觀戰,詫曰:「此滿洲兵也!」策馬下岡走,自成兵奪氣,奔潰。逐北四十里,即日王承制進三桂爵平西王,分馬步兵各萬隸焉,令前驅逐自成。iv

 と言うわけで、軍事情報が一番詳しいのが《実録》ですね。簡潔なのが《清史列傳》で《清史稿》はちょっと眉唾な情報も入ってます。
 ここから分かることは①李自成山海関東側の北山に本陣を置いて横陣を敷いて山海関を包囲して陣は海にまで達していたこと、②呉三桂右翼の端に配置されたこと、③砂嵐が吹いたこと、④砂嵐が止んだ瞬間に清軍李自成軍に殺到して打ち破ったこと、⑤追撃戦を40里ほど行ったこと…あたりですかね。詳細についてはそれぞれ異同がありますが、大筋では矛盾はない感じだと思います。ただ、《実録》⇒《清史列傳》⇒《清史稿》の順に筆が細かくなり、《清史列傳》からは、右翼の端に配置された呉三桂軍がまず単独で李自成軍と戦い決着が付かなかったところ、砂嵐が吹いて止んだ後に更に右側から清軍が突撃して李自成軍の陣が崩れたことになって、《清史稿》ではその軍を率いたのがアジゲドドだったことになっています。この辺は眉唾ですね。
 《昭顕瀋陽日記》の記事を整理すると、入関後に清軍が休憩中、呉三桂軍が単独で李自成軍と戦闘、その後で清軍が出陣して砂嵐が止んだ後に勝負が付いたといった感じですもんね。あと、《昭顕瀋陽日記》では20里だった追撃戦が他の資料では軒並み40里になっているのはなんだか盛ってる感じしますかね。片道の距離と往復の距離の差ですかね…。

 続けます。

二十三日 庚辰 朝晴晩雨
(中略)○卯時、行軍十里許、止宿。○午後、風雨大作、一行皆露處沾濕、柴草俱乏、不得打火、人馬飢困、枵腹而待明。○清人擒斬中朝兵部尚書尚時弼于軍中。時弼在北京、爲賊內應、開門引入、與賊東來、賊敗之後、被擒斬之、群情快之。

 四月二十三日、晴のち雨。朝方(卯時)から10里行軍して宿営。午後、風雨が酷くなり一行はみな屋外で雨露を凌いだ。芝草が乏しく火を起こせず、人馬は空きっ腹を抱えて朝を待った。清人兵部尚書尚時弼を軍中で捉えたためこれを斬った。尚時弼北京在任時に李自成に内応して門を開けて軍を引き入れ、その後李自成の遠征に加わり敗戦後に捕まり斬られた。民衆はこれを快挙として喜んだ。
 ここで元・明朝兵部尚書として尚時弼と言う人物が出てきます。この人物、《朝鮮王朝実録》にも記述があります。

上曰:“淸人擒兵部尙書云,何許人耶?”對曰:“擒兵部尙書尙時弼等十二人,駐軍半日,梟首軍前,此乃明朝之尙書,而爲流賊內應者也。v

 兵部尚書でありながら李自成に内応したとして、軍前にさらし首にしたようですね。ただ、この人物、清朝側の史料では出てこないんですよね…。ただ、同じ時期に斬首された李自成陣営の兵部尚書が居たようなんですが…。

(四月)庚辰(二十三日)。初賊首李自成、遣王則堯來招降吳三桂。三桂羈留之。至是送於王。王斬之。則堯、山西人。明密雲巡撫。降賊。賊授爲兵政府尚書。vi

 《清実録》によると、この日処刑されたのは李自成により呉三桂投降のための使節として派遣された王則堯のようです。この人物は明朝では密雲巡撫で、李自成政権で兵部尚書に抜擢されたようです。何か情報の混乱があって兵部尚書と間違えられたんですかね…。いずれにせよ尙時弼という人物は清朝側の史書では検索してもヒットしませんでした。

明日(四月十六日)(中略)自成聞三桂兵起,自將二十萬人以東,執襄置軍中;復遣所置兵政部尚書王則堯招三桂,三桂留不遣。(中略)
又明日(四月二十二日)(中略)三桂執則堯送王所,命斬之。vii

 まぁ、《清史稿》によると、王則堯は使者として呉三桂に派遣されてそのまま抑留されていたのを、山海関での戦勝後にドルゴンの前に引き出されて斬刑に処せられたと言うことなので、戦場で捕虜にされたらしい尙時弼とは履歴が若干異なります。もしかしたら王則堯尙時弼の二人が斬られたという可能性も無くはないんですけどね…。と言うわけで、《昭顕瀋陽日記》も絶対ではないのかもしれないという事例です。

 続けます。

○九王始稱攝政王、令諭關民、使軍兵毋得侵掠。吳將以下、盡為剃頭、吳將領率騎兵數萬、令清人一時西行。○是日、清人有出瀋者、一行形止、狀啟付送。

 九王ドルゴンは始めて摂政王と称して山海関の民衆に対して命令を下し、清軍に略奪を禁じた。呉三桂以下の将兵は皆頭を剃って辮髪にし、呉三桂率いる騎兵数万は入関作戦に加わることになった。この日、瀋陽に帰る清人が居たので報告書を預けた。
 と言うことで、興味深い事にこれまで九王で通していたドルゴン入関後に始めて摂政王を称したと書かれてますね。摂政王にはすでに崇徳8年段階で封じられていますが、この時期の公文書には奉命大将軍印(hese be aliha amba coohai ejen)を押してます。それまでは名誉職的な称号に過ぎず、自称もしてこなかった摂政王という称号を、入関後に意識的に使い始めた!って事でしょうかね…。入関翌日には摂政王として旨諭を発布していることを《昭顕瀋陽日記》は報告しています。よほど印象的だったのか、その文章を丸々転載しているので、引用しておきましょう。

攝政王令旨諭、官兵人等知道。曩者、三次往征明朝、俱俘掠而行。今者大舉、不似先番、蒙天眷佑、要當定國安民、以希大業、入邊之日、凡有歸順城池、不許殺害、除剃頭以外、秋毫毋犯、其鄉屯散居人民、亦不許妄加殺害、不許擅掠爲奴、不許跣剝衣服、不許折毀房舍、不許妄取民間器用。其攻取之城、法不可赦者、殺之、可以爲俘者、留養爲奴。其中一應財貨、摠收公用、其城屯不論攻取投順、房舍俱不許焚燒。犯此令者、殺以儆衆。其固山額眞・梅勒章京・纛章京・不申諭所屬者、罪及之。若固山額眞・梅勒章京・纛章京、已行申諭、而甲喇章京、怠惰不行申諭者、罪坐甲喇章京。若固山額眞・梅勒章京・纛章京・甲喇章京、俱已申諭、而軍人有犯者、本管牛彔章京及封得撥什庫・小撥什庫等、視所犯情、由之大小定罪。若係擺牙喇及擺牙喇之牽馬人役有犯者、罪坐本官。甲喇章京及壯達、若取粮草、須聽領去大人指揮後取。如有犯令、因便妄取民間一物者、其領去之大人及甲喇章京・牛彔章京・撥什庫等、一體問罪。若至帳房、不能發覺者、罪坐本官・牛彔章京及撥什庫等。若係擺牙喇、罪在本官・甲喇章京及壯達。凡我將祐於所屬官軍人等、當三令五申、務使通曉、特諭。

 清軍内に配られた旨諭のようですね。官・兵は皆知るべきである。過去三度明朝遠征を行いいずれも捕虜の略奪を行ったが、今回は今までと違い大義を奉じた軍である。入関した日から帰順した都市では降伏して辮髪にした者を殺害することは許されない。いかなる住民からも略奪してはいけない。妄りに殺害すること、妄りに人狩りを行うこと、妄りに衣服を剥ぎ取ること、妄りに住居を壊すこと、妄りに住民の財産を奪うことは許さない。もし清朝に反抗して攻め落とした城の住民で赦免されていない者は、殺しても捕虜にしても奴隷にしても構わないが、彼らの財貨は総て公收する。しかし、もし清朝に降伏して帰順した都市に対しては、官庁を焼き討ちにしてはいけない。もしこの禁令を犯す者があれば連帯責任とする。その後、連帯責任に関する記述が続くので訳は省きます。
 錦州で薪にされた住居について思い出せば、これまでこの法令は存在しなかったんでしょうね。李自成に打ち勝ったことで、急に義軍として振る舞うことになったみたいです。失敗したらその辺略奪して帰るつもりだったんじゃないかと思うんですが…。
 ともあれ、北京を奪取するまでは清軍の行軍は続きます。と言うわけで続きは次回以降になります。

日付干支世祖實録内国史院檔昭顕世子瀋陽日記瀋陽日記備考
04/09丙寅未時:永安橋西大風
04/10丁卯六哈卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊大風、永安六十里
04/11戊辰杨柽木卯時:遼河、宿:狼胥山晴、遼河二十里
04/12己巳张郭台口申時:豆乙非朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里
04/13庚午遼河地方辽河地方卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程)晴、豆乙非六十里
04/14辛未卓所卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村風、行六十里
04/15壬申翁後翁后卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進風、明日當為倍程
04/16癸酉西拉塔拉西拉塔拉卯時:出発、宿:古長城南十五里晴、迤南行五十里、又行六十里
04/17甲戌团山堡卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里晴、行八十里
04/18乙亥基扎堡卯時:出発、申時:雙曷之晴、行八十里
04/19丙子鄂新河卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里
04/20丁丑連山连山卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城
04/21戊寅山海關十里外山海关十里外李霞山台黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所晴風
04/22己卯山海關山海关平明:出発、入關門、初更:關門五里晴風
04/23庚辰北山山麓卯時:出発朝晴晩雨、行十里
04/24辛巳新河驛新河驿卯時:出発、宿:深河驛晴風、行四十里
04/25壬午撫寧縣抚宁县卯時:出発、宿:撫寧縣城北晴風、行六十里
04/26癸未昌黎縣昌黎县卯時:出発、宿:昌黎城南晴、迤南行七十里
04/27甲申灤州滦州河卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里)晴、西行八十里
04/28乙酉開平衛开平卫卯時:出発、宿:開平城西十里晴、行百十里
04/29丙戌玉田縣玉田县卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居晴風、行軍百餘里
04/30丁亥公羅店公罗店卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里)晴、行軍七十里
05/01戊子通州卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江晴夜陰、行六十餘里
05/02己丑燕京待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社

  1. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  2. 《大清世祖章皇帝實錄》卷4 [戻る]
  3. 《清史列傳》巻80 逆臣傳 吴三桂 [戻る]
  4. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂 [戻る]
  5. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 巻45 22年 8月23日条 [戻る]
  6. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  7. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂 [戻る]

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