決戦、山海関─《明季北略》吳三桂請兵始末より─

 と、ここで昭顕世子一行の山海関から北京までの行程を追う前にドルゴンが余裕綽々で李自成を迎え撃ったとする根拠となったと思われる記事をちょっと見てみましょう。

度々出している《明季北略》からです。

十七(日)甲戌,自成大隊至永平。三桂兵頗少,與自成對陣,日昃不遑暇食,遂結虛營于關外,使民詭爲軍士,多執旗鼓守之,私易士卒,入城飲食。頃之,自成薄外營,將營中老弱,盡行殺死,長驅城下,圍之數匝。又從門西一片石出口東,突外城,薄關內。三桂見自成勢大難與爭鋒,先已請兵滿洲。至是,趨之至。大清之九王,既攝政王也,已與英王、裕王,發兵十萬,將欲入塞。途遇三桂,使者疑之。與英、裕兩王計曰:「豈三桂知我南來,故設此誘耶?且吾嘗三圍彼,都不能遽克,自成一舉破之,其智勇必有大過人者。今統大衆親至,志不在小,得毋乘戰勝精甲,有窺遼之意乎?不如分兵固守,以覘動靜。」i

 順治元年3月17日、李自成永平府に到り、呉三桂李自成軍と対峙した。しかし、呉三桂軍は兵も少なければ糧食も足りなかった。
 そもそも、北京防備の任務に就くはずだった呉三桂の手元には兵は少なく備えもなかった上に、寧遠あたりから山海関までの遼西走廊に居た住民を引き連れていたのですから、糧食も足りなくなるでしょう。
 ついに呉三桂は偽装した陣営を山海関外に作り、住民を駆り出して兵に見せかけ、旗や太鼓を持たせて兵と交代させて、ようやく兵を山海関内に入れて食事を取らせた。
 現地では食料出せないけど、山海関内では出せるという状況がよく飲み込めないんですが、そういうこと書いてあります。
 そのうち、李自成は軍を進めて呉三桂軍の宿営が老人や弱者ばかりと知ると襲来してこれを殺し尽くし、長駆して山海関を何重にも包囲した。また、別働隊を山海関の西にある一片石(辽宁省葫芦岛市九门口)に送り、長城の外側から山海関に迫ろうとした。
 一片石山海関の北にある山海関のお隣の関門です。今は九門口の方が通りがいいようですね。続けます。
 呉三桂李自成軍の勢いを見て、まともにやり合っては勝つのは難しいと見て、まずは清朝に援軍を要請した。清朝九王ドルゴン摂政王に就任し、英王裕王(?)とともに兵十万を率いてまさに入関しようとしていた所だった。その進軍中に呉三桂の使者と遭遇したのでこれを疑った。英王裕王(?)は「どうして呉三桂は我らが南下してきたことを知っているのか。策略があってこのような誘いをかけてくるのではないか?かつて我らはヤツの軍を包囲したことがあるが勝つには到らなかった。ところが、李自成はヤツを一撃で破った。李自成は知勇にすぐれた人物なのだろう。今、大軍を率いて親征してきたとすれば、志が小さいはずはない。勝ちに乗じて精兵を率いて大清の隙をうかがう意図があるのではないか?兵を分けて守備に徹し、動静を伺うにべきだろう。」と、意見した。
 要するに呉三桂がすでに李自成に屈しており、援軍要請自体が李自成の策なのではないかと疑ったって事ですかね。突然、呉三桂からの都合のいい申し出に清朝側がその虚実を疑ったのかもしれませんが、この辺は昭顕世子一行が日記で記すように「而軍機甚密、末能詳知矣。」としておいた方が良さそうですね。流石にココまで来ると小説です。かつ、《明季北略》では清軍李自成を恐れたようなことが書いてありますが、彼らは李自成軍など一回合戦すれば撃破出来ると自信を持っており、この点は上下あげての共通認識だったように思います。范文程呉三桂はともかく、実際に清軍と対峙して敗北し、かつ李自成軍と追い詰めたことがある洪承疇李自成軍との戦い方は誰よりも詳しかったでしょうに、全く憂慮している様子もありません。むしろ、李自成軍は弱い相手にはめっぽう強いだけで清朝が当たれば一撃で潰滅出来ると断言しています。この辺の自信の根拠はなんなのか気になるところですが、とにかく清朝李自成軍など烏合の衆で、戦えば必ず勝てると信じています。この辺は《明季北略》が李自成軍の動向を記述の対象としているところから来る贔屓目なんでしょうかね…。

遂頓兵不進。駐營于歡喜嶺,高張旗幟,休息士卒,遣使往三桂營覘之。三桂復遣使往請,九王猶未信,請之者三,九王始信,而兵猶未既行。三桂遣使者相望于道,凡往返八次,而全軍始至。共十四萬騎。三桂知大清兵已在關外,遂突圍出外城,馳入大清壁中,見九王,稱臣,遂髠其首。以白馬祭天,鳥牛祭地揰血斬圧折箭爲誓,三桂爲前鋒,九王總重兵居後隊,英王張左翼,統二萬騎從西水關入,裕王張右翼,亦統二萬騎從東水關入。於是,三桂復入關,盡髠其民,開關延敵。然迫于戰期,兵尚未盡薙髮,恐無以辨。ii

 呉三桂からの援軍要請を受けて清軍は虚実を確かめるために行軍をやめて歡喜嶺?に宿営した。旗を大いに掲げて士卒に休息を与え、使者を派遣して呉三桂の兵営の様子を探らせた。
 まぁ、昭顕世子一行が残した記録を見ると、そんな局面は一切なかったようですけどね。そもそも歡喜嶺ってどこよって話なんですけどね…(検索ではそれらしい場所は発見出来ませんでした。ご存じの方、ご教授求むです。)。清朝入関に関してこの地名が出てくる本は、清朝朝鮮側の記録にはなく《明季北略》ベースの記述だと思って間違いなさそうです。続けます。
 呉三桂は再度使者を派遣して援軍を要請したが、ドルゴンはなおもこれを疑い、使者が三回来てようやく信じたものの、進軍しようとはしなかった。呉三桂は使者が道ですれ違うほど何度も送り、およそ八回往復したところでようやく全十四万騎の軍が進発を始めた。
 って、三顧の礼なんですかね…。《清実録》を見るに、呉三桂の使者が清軍を訪れたのは4/15翁後、4/20連山、4/21山海関から10里の地点の三度のみですから8回も往復するほど時間的余裕はなかったように思います。あと、清軍十四万騎というのはどこから沸いてきた数字なのやら…。
 呉三桂清軍が関外に到着したのを知ると、山海関の包囲網を破って清軍に馳せ参じ、九王と謁見して臣と称して頭を剃って辮髪にした。
 ……再三言っていますが、呉三桂辮髪にしたのは山海関での戦勝後ですから、このあたりも《明季北略》発の誤解ですね…。かつ、山海関の東側に包囲網が出来てたかどうかは他の史料では確認出来ません。清軍山海関に入城する前に、呉三桂は将兵を引き連れてドルゴンを出迎えたことは他の史料でも確認出来ますが、わざわざ包囲網を破って遠方まで出迎えたという話ではありません。これも脚色ですね…。
 呉三桂は臣下の誓いを立てると、呉三桂が先行し、ドルゴンは重兵を統率して後詰めに、英王は左翼二万騎を率いて西水関?より入関し、裕王(?)は右翼二万騎を率いて東水関?より入関した。
 このあたりは《清実録》にも似たような記述ありますね…。

次日、我大軍直薄山海關三桂開門迎降。我軍遂從南水門北水門關中門入。iii

 4/22に清軍山海関に迫ると呉三桂は門を開いて帰順し、清軍はついに南水門北水門関中門から中に入った。
 …と言うわけで《清実録》では南水門北水門から入ったとあります。《九邊圖》では山海關の南北に南水關北水關が描かれています。この辺似たようで少し違うあたりが《明季北略》ですね…。

 呉三桂山海関に再び入城すると、住民をことごとく辮髪にさせて、山海関を開けてかつての敵を引き入れた。合戦が差し迫ったこの時期においても、兵の中には敗戦を恐れてまだ髪を剃らない者もいた。
 もう、このあたり一々突っ込むのもアレなので先に進みます。

夜半,密令軍士以白布裂爲三幅,闊如三指,纏之于身,以爲暗記,然布不能猝辨,既以褁足布裂用之。約大清兵見三指布者,既勿殺。蓋三數與白色者,取三桂及長白兵縞素之意也。然九王多謀,不肯先與自成輕戰。
十九日丙子,使三桂爲前鋒,與自成大戰于關內一片石,一以觀三桂之誠偽,一以覘自成之強弱,欲坐收漁人之利。日暮戰罷,九王始信。
二十日丁丑,三桂、自成兩軍復合戰,戰方酣,九王使鐵騎數萬,以白標爲號,繞出吳兵之右,銳不可當。自成隨數十騎,挾太子登廟岡觀戰。有僧進曰:「此非吳兵,必東兵也。宜急避之。」已而見白標軍,如風發潮湧,所到之處,無不披靡。闖兵大敗。自成狼狽遁,雖劉宗敏勇冠三軍,亦中流矢,負重傷而回。時闖兵入都,恣意淫掠,身各懷重貲,無有闘志,故爾大敗。屍橫八十餘里,馬無置足處,所棄輜重,不可勝計。然吳兵檢賊屍内,有數十金,猶可私取,若百金以外,則不敢匿,必獻之于師。恐懷金既多,則不肯力戰,而思逃也。iv

 夜半、密かに兵に白い布を裂いて三本にして、三本指のようにして身体に巻き付けさせた。これを目印にして清軍にはこの三本線を巻いた者は殺さないように命令を下した。三本線と白は呉三桂長白軍?にとっては喪服の意味もあった。ドルゴン李自成と軽々しく戦闘する事を許さなかった。
 確かにドルゴン呉三桂軍に白い布を肩に巻かせたたようですが、甲冑を着けた状態で敵味方の識別を付けるためなので、三本に裂いたとか白は喪服の意味があったとかはおそらく後付けです。ただ、細かいディティールはさておき、呉三桂軍が識別のために白い布を巻き付けたのは《清實録》でも確認出来るので、このあたりが《明季北略》の侮れないポイントではあります。続けます。
 十九日丙子、呉三桂を先鋒として、李自成一片石で大いに戦った。一つには呉三桂の降伏の真偽を確かめるため、一つには李自成軍の強弱を伺うため、座して漁夫の利を得るため(ドルゴンはあえて動かなかった)。日が暮れて戦闘が終わると、ドルゴンは始めて呉三桂の降伏を信じた。
 と言うことで、日付からしてあり得ませんね。昭顕世子一行はこの日、まだ錦州衛にいて祖大寿の旧居を范文程と見学してます。一片石の戦いが呉三桂降伏の試金石だったと言うことにしてますが…。多分、呉三桂軍は兵力にそんな余裕なかったんじゃないかなぁ…。
 二十日丁丑、呉三桂李自成の両軍はまた合戦した。戦況が佳境に入った時、ドルゴンは鉄騎数万に白色を目印とさせて呉三桂の軍の右から突入させた。李自成軍は鋭鋒を避けることが出来なかった。李自成は数十騎を従えて、(崇禎帝の?)皇太子を抱えて廟のある丘に登って観戦していた。ある僧が「これは呉三桂の軍ではありません。必ずや東兵(清軍)でしょう。早くお逃げ下さい。」と進言したが、すでに白色を目印にした軍が視界に入り、縦横無尽に戦場を駆け巡って闖軍李自成軍を打ち負かしていた。李自成は狼狽して逃走した。劉宗敏は三軍一の勇者であったが、流れ矢に当たって重傷を負った。
 と、呉三桂李自成の軍と合戦している時に横合いから清軍が突入してきて、勝敗が決まった…という話はよく聞きますが、元ネタは《明季北略》なんですねぇ…。実際には日にちも含めて全然あてにならないんですね…。

日付干支明季北略(本文)明季北略( 吳 三桂請兵始末)
3月06日甲午始棄寧遠
3月16日甲辰賊圍京入關
3月17日乙巳申刻:外城陷
3月18日丙午帝崩煤山
3月19日丁未
3月20日戊申抵豐潤
3月21日己酉
3月22日庚戌
3月23日辛亥
3月24日壬子
3月25日癸丑
3月26日甲寅
3月27日乙卯吳 三桂挾大清騎叩山海關三桂遂據山海關
3月28日丙辰
3月29日丁巳自成使唐通 三桂遂往乞師
4月01日戊午
4月02日己未
4月03日庚申
4月04日辛酉三桂破山海關、唐通迎降
4月05日壬戌
4月06日癸亥
4月07日甲子
4月08日乙丑
4月09日丙寅自成(中略)下令親征
4月10日丁卯
4月11日戊辰
4月12日己巳自成東行
4月13日庚午(李自成)出京往戰
4月14日辛未
4月15日壬申李自成至密雲自成至密雲
4月16日癸酉
4月17日甲戌李自成至永平自成大隊至永平
九王(中略)駐營于歡喜嶺
4月18日乙亥
4月19日丙子使三桂爲前鋒、與自成大戰于關 內 一片石
4月20日丁丑三桂・自成兩軍復合戰
4月21日戊寅自成駐兵永平
4月22日己卯
4月23日庚辰
4月24日辛巳
4月25日壬午
4月26日癸未自成回京
4月27日甲申三桂傳帖至京
4月28日乙酉
4月29日丙戌
4月30日丁亥自成西奔
5月01日戊子
5月02日己丑三桂兵追至定州、清水河下岸

 ただ、崇禎帝皇太子が拘束されていて、戦場を李自成と観戦したという情報がこの下りには記録されていますが…。またまたそんなことあるわけナイでしょ…と高をくくっていたら、その話の元ネタっぽい話が《清実録》にもありまして…。

(四月)辛巳(二十四日)。師次新河驛。攝政和碩睿親王多爾袞、以進山海關敗賊兵捷音奏聞。(中略)臣即星夜前往、於四月二十一日、抵山海關。值賊首李自成、親率馬步兵二十餘萬、挾崇禎帝太子、第三子定王、第四子、及宗室晉王、秦王、漢王、郡王等、并三桂父襄、與俱來。復遣人招三桂降。三桂不從。(中略)陣獲晉王朱審煊(後略)。v

 4/24段階でドルゴンムクデン盛京山海関の戦勝報告の文章が掲載されてます。ちょっと時系列が混乱していたのでこの記事自分読んでませんでしたわ…先に挙げた一片石に関する記述もあるので、訂正しときましたわ…。
 ドルゴンが星の明かりを頼りに夜間行軍している頃、4/21に李自成は自ら兵馬20万余りを率いて、崇禎帝皇太子、第三子・定王、第四子、及び宗室の晋王秦王漢王や郡王ら、呉三桂の父・呉襄を人質に呉三桂に降伏を迫ったが、呉三桂は従わなかった。(山海関の戦いの後)晋王朱審煊を捕虜にした。

 同様の記事が《朝鮮王朝実録》にもあります。恐らく上の報告が瀋陽経由で朝鮮王朝にもたらされたのでしょう。

(仁祖二十二年五月)甲午(7日)。鳳林大君還自瀋陽。(中略)文學李䅘馳啓曰: “(中略)二十一日至山海,賊酋李志誠,領馬、步兵二十餘萬,執崇禎太子朱慈照、竝其第二、第四子及太原府晋王、潞安府瀋王,西安府秦王、平凉府韓王,又有西德王、襄陵王、山陰王及吳三桂之父吳襄於陣前,欲降三桂。(中略)晋王被我所獲。(後略)”vi

 5月7日、瀋陽から帰還した鳳林大君一行が持ち帰った昭顕世子からの状啓の内容を仁祖に披露する段で、「21日に賊酋・李自成が兵馬20万余りを引き連れて山海関に到り、崇禎帝皇太子朱慈照、並びに第二皇子、第四皇子、他にも太原府晋王潞安府瀋王西安府秦王平凉府韓王、それに西德王襄陵王山陰王呉三桂の父・呉襄を軍前に並ばせて呉三桂に降伏を迫った。(中略)晋王清軍が保護した。」
 ほぼ内容に変わりはありませんが、何故か《朝鮮王朝実録》の方が人名等が詳しかったりします。《明史》卷102 表第3 諸王世表3によると西德襄陵韓王家の分家で、《明史》卷101 表第2 諸王世表2によると山陰代王家の分家のようです。まぁ、《明史諸王世表晋王家には朱審煊の名前はないので、これはこれでなかなか謎なんですが…。

 で、状況はかなり異なりますが、《明季北略》にも李自成明皇族を引き連れて山海関にやってきたという記述はあります。

二十九日,(中略)賊計以定王往,即日遣賊將挈定王赴唐通營。(中略)
四月初四辛酉,三桂破山海關,唐通迎降。定王已至三桂軍,三桂檄自成云,必得太子而後止兵。(中略)
二十丁丑,三桂、自成兩軍復合戰,戰方酣,九王使鐵騎數萬,以白標為號,繞出吳兵之右,銳不可當。自成隨數十騎,挾太子登廟岡觀戰(中略)
二十一戊寅,自成駐兵永平,三桂使人議和,並請太子。自成命張若麒奉太子赴三桂軍中,請各止戰。三桂允之,約自成回軍,速離京城,吾將奉太子即位。(中略)
二十六日癸未,自成回京,三桂棄定王於永平,專擁太子(中略)
五月戊子朔,(中略)三桂請護太子入都,帥不許,三桂夜送太子於高起潛所,或云潛逸於民間,陰道之入皇姑寺,西江米巷諸商,合貲為三桂家發喪,每棺衣衾各費百兩。(中略)vii

 なんだか、《明季北略》の呉三桂明皇族の保護に拘り、李自成に降伏条件として崇禎帝皇太子の身柄を要求し、李自成は代わりに皇三子・定王呉三桂に送り込みます。山海関の戦いの後、永平府李自成呉三桂に使者を送り、皇太子の身柄の引き渡しを条件に講和を求め、呉三桂李自成北京離脱を認め、皇太子を即位を約束したそうです。で、皇太子を得た呉三桂永平府定王を置き去りにして北京に向かいますが、清朝皇太子北京入城を断られると、特に抵抗もせずに皇太子を逃がします。色々フォローしてますが、都合が悪くなったので定王と同じく捨て去ったわけですよね…。《明季北略》の呉三桂もかなり酷い人物として描かれてますねw
 《清実録》を検索すると、晋王朱審煊順治元年9月段階までは記事がありますので、どうやら晋王の捕獲は確実だと考えて良いようです。しかし、皇太子皇三子定王皇四子については山海関に連れてこられたという情報が当時からあったようですが、その後の行方は分からない…というのが史料的には正確だと思います。まぁ、こういう話があるので、その後何度か現れる崇禎帝皇太子朱三太子の話は、それなりに信憑性がある話だと受け止められたでしょうねぇ…。

 という感じで、どうやら事実と思われる記述もそこそこあるものの、大筋ではあんまり信用出来ない《明季北略》ですが、割と概説書でも清朝入関あたりの状況をこの本ベースで平気で書てたりするんですよね。

このときドルゴンはすでに山海関近くの歓喜嶺に到着していた。(中略)ドルゴンは戦局を静観した。農民軍の実力を知らされていた彼は、戦いを急いで思わぬ痛手を被ることを恐れた。このたびは出動可能な国内の兵力をすべて率いてきた。ここで負けては李自成に主導権を奪われることは必至である。ドルゴンが慎重になるのも当然であった。
 (中略)二十二日の夜明け前から呉三桂は数百騎に親衛隊を連れて歓喜嶺に向かった。ドルゴンと会見し、連合の盟約を交わすためである。恭順の意を示すため、呉三桂の頭髪はすでに剃り落とされていた。viii

 《明季北略》でおなじみの歓喜嶺が出てくる時点で嗚呼…ってなります。って、この本2003年初版ですね…。
 思いのほか長くなりましたね…。次回は《昭顕瀋陽日記》に戻ります。

参考文献
計六奇《明季北略》下 中華書局
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』講談社現代新書
岡本隆司『「東アジアの近現代史」第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ 朝鮮出兵から日露戦争へ』講談社

  1. 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末 [戻る]
  2. 《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末 [戻る]
  3. 《世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  4. 《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末 [戻る]
  5. 《大清世祖章皇帝實録》巻4 [戻る]
  6. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 仁祖22年5月7日条 [戻る]
  7. 《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末 [戻る]
  8. 『万里の長城 攻防三千年史』P.247~248 [戻る]

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