順治元年、清朝北京に入る─昭顕世子の見た北京1

 時間が空きましたが、《昭顕瀋陽日記》の続きです。いよいよ清軍とともに北京に入城した朝鮮世子昭顕世子一行がどのような生活を送っていたのか見ていきましょう。

初三日 甲寅 晴
 世子留北京。○凡軍兵出入城門者、有九王標旗然後、方得出入、陪從甚爲孤單、而員役之在城外者、不得任意入城、蒭糧罄竭、而閭家出入之禁極嚴、故有些少餘資者。亦不得留換於民間。且城外遠近、野無青色、人馬飢乏之患、到此益加焉。朴宗寧、領工房器具入城、金城軍士王允化、染病身死。

 5月3日。世子北京に滞在。入出城する兵はみな九王(ドルゴン)の許可標旗を提示してようやっと許可された。このため、城外の朝鮮軍は任意に入城出来ないため、世子と随臣は孤立した。糧食や飲料が不足していたが、民家との接触は固く禁じられていたので、持ち合わせがある者でも購入することが出来なかった。なおかつ、城外では草木が枯れ果てていたので、人馬は飢えて病み衰える者が増加した。朴宗寧は工房の器具を携えて入城したが、全城軍士の王允化は病没した。
 と言うわけで、相変わらず検問が敷かれてます。マンジュ騎兵北京住民との余計な摩擦を避ける措置でしょうね。相変わらず食料が不足していることや、略奪はおろか購入さえも厳禁されていたことが強調されています。カタルシスもなんもあったもんじゃないですねぇ…。で、通行証がないと入出城が出来ないと書いたすぐ後ろで朝鮮軍入城の記事があると混乱しますね…。

初四日 辛卯 晴
 世子留北京。○毉官金德立、入城。

 5月4日。世子北京に滞在。医官金德立が入城した。
 ここで随員の医者が追いついたみたいですね。どうやって入城したんでしょうか…。ここでは記述がありませんが、世子瀋陽に帰る清人に託して朝鮮王仁祖状啓(報告書)を送ったようですから、城門なりで直接見かけたのかもしれませんね。状啓の内容については後で触れます。

初五日 壬辰 晴
 世子留北京。○以衙門分付、城外留在員役・軍兵等、移屯于東西門外九王陣近處。○宣傳官李尚敬、內官金希顏、司鑰孫善一、禁軍文大坤・金益堅・田士立・趙宣哲・李光宣、領率卜物、義州地落後追來。領兵將南斗爀入來。○軍兵之徒步蹣跚者、大半、行色甚苦、亦留屯於九王陣邊。監軍二人、衙譯金應立・朴乭屎・李士龍等、護行。

 5月5日、世子北京に滞在。城外に駐屯している兵員は東西の門外にあるドルゴンの陣の近所に移った。宣傳官李尚敬内官金希顏司鑰孫善一禁軍文大坤金益堅田士立趙宣哲李光宣ら行軍中にはぐれた随員や義州兵が追いついき、領兵將南斗爀が入城した。兵員の殆どはよろよろと歩いていて、疲れが色濃かった。また、追いついた兵員もドルゴンの陣近辺に駐屯した。監軍の二人を衙譯金應立朴乭屎李士龍らが護送した。
 と言うわけで、強行軍からはぐれた朝鮮軍が三々五々追いつき、相変わらずドルゴンの陣営にほど近い場所に配置されたようです。というか、ドルゴン軍の一翼を担ったという感じですかね。しかし、兵士の疲労が半端なかったようですね。ヘトヘトに疲弊していたようです。疲労と兵粮不足は朝鮮軍に限った話でもないでしょうから、こんな状態で北京に籠城した李自成軍と対戦していたらどうなった事でしょう。

初六日 癸巳 晴
 世子留北京。○內官金希顏・宣傳官李尚敬・禁軍文大坤等、入城。○衙門送牛四頭于領兵將、使之犒饋軍兵。

 5月6日。世子北京に滞在。内官金希顏宣傳官李尚敬禁軍文大坤らが入城した。衙門から牛4頭が領兵將に送られたので、これを兵員に糧食として支給した。
 先日北京に到着した随員達が北京に入城したのは翌日だったみたいですね…。この辺、北京に到着した日と北京に入城した日にズレが出てくるんですね。と、散々飢えを強調してきましたが、ようやく牛が支給されたようですね。でも、兵員への支給として牛4頭ってどれだけ腹の足しになったんでしょうかねぇ…。

初七日 甲午 晴
 世子留北京。

 5月7日。世子北京に滞在。

初八日 乙未
 世子留在北京。文學李䅘來入城。○世子所館處。卽太子宮前星門外文淵閣東公廨也。太子宮・文淵閣、盡爲燒燬、唯有前星門存焉、卽皇極殿之東也。廊中有設浮圖處、護行清人、入接數日、從胡一人、夜半猝死、人甚怪之。世子逐日進候九王于武英殿。

 5月8日。世子北京に滞在。文学李䅘が入城した。世子の居館は太子宮前星門外で文淵閣の東にある官舎である。太子宮文淵閣も焼き尽くされていたので、ただ前星門があるだけだった。これは皇極殿(=太和殿)の東側である。(官舎にある?)回廊には浮図処(=仏教施設?祭壇?)が設けられていて、清人がこれを護衛していた。寄宿してから数日経ったところ、従者の外国人が一人、夜半に急死してしまい、人々は非常に怪しく思った。世子は日を追って武英殿九王ドルゴンに伺候した。
 と言うわけで、この頃の昭顕世子の居所が紹介されています。太子宮と聞くと、清朝やっていると咸安宮毓慶宮を思い出しますが、両方とも明代にはありません。現在の前星門毓慶宮の正門です。しかし、毓慶宮斎宮奉先殿の間にありますから、皇極殿太和殿の東というより東北って感じです。場所が合いませんね…。ムムムと思って検索したところ、北京故宮のページにヒットしました。このページによると、明代太子宮端本宮と言う場所にあったらしく、南三所のあたりのようです。

南三所位于外朝东路文华殿东北,为一组殿宇的总称。明朝这一带有端敬殿、端本宫,为东宫太子所居。i

 他の紫禁城関係の本を漁ってもこの情報が見当たらないのですが、どっかに何か書いてあるんでしょうね。

太子慈烺,莊烈帝第一子。(中略)(崇禎)十五年(中略)七月改慈慶宮為端本宮。慈慶,懿安皇后所居也。時太子年十四,議明歲選婚,故先為置宮,而移懿安后於仁壽殿。ii

 《明史》を検索すると確かに太子慈烺伝に、崇禎年間慈慶宮を改称して端本宮とするとあります。ただ、これだけじゃ場所が分からないんですけどね…。《明史》志第四十四 輿服四 宮室之制にも慈慶宮やその前身である清寧宮の記述はあるんですがiii場所自体紫禁城の中軸線より西にあったことになるのでつじつまが合いません。決め手には欠けますねぇ…。
 前星門については先のページでは記述はありませんが、《明代北京都城营建丛考》という本では前星橋というキャプションの付いた写真が三座門の写真の次に紹介されていますiv。キャプションだけで中の文章では何も触れてはいないのですが、考えるに、明代では三座門のことを前星門と称していた名残なのではないかと思われます。前星門の前に架かっている橋だから前星橋、と言うのだけが残ったのではないかと。
 念のため、《乾隆京城全図》を確認したところ、前?門という箇所があります。地名検索を使うと…あっさり前星門がヒットしましたが、困ったことに二カ所あります。№1996 前星門の場所を見ると、現在の三座門に相当する場所にあったようです。やっぱり前星門三座門で良さそうですね。ちなみに、もう一カ所の№1556 前星門毓慶宮前の門です。こっちはおなじみのヤツですね。こちらも地図だと判別しにくいです。検索すると、この地図には他にも№1923 三座門があるのですが、どうやら東華門東安門の間にももう一個三座門があったようです。あくまで乾隆年間の話ですが。宮中の宮殿名も調査すると面白いですね。

 と言うわけで、以上の結果から前星門=現在の三座門太子宮端本宮=現在の南三所と比定します。となると、太子宮前星門外は三座門の南側を意味しますから、文淵閣にも隣接します。文淵閣の東にある官舎と言うことは、昭顕世子の居館は、恐らく清代には実録館が、民国に入ってからは清史館があったあたりだと推測されます。
 意外と明確に分かるモンですね。この時期ドルゴンが居館としていたと思われる武英殿とは太和門を挟んで東西に分かれていますが、場所としては徒歩で5~10分もかからない場所を昭顕世子はあてがわれていたようです。貴人が使用するには粗末な官舎のような気もしますが、焼け残った場所を考えれば案外優遇されているように自分は思いました。

初九日 丙申 晴
 世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、平安。○九王送貂裘・貂衾・錦褥各一襲于世子前。

 5月9日。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、問題ないとの仰せだった。九王ドルゴン貂皮の服(裘)、貂皮のかけ布団(衾)、錦の敷物(錦褥)各々一つづつを世子に送られた。
 長いこと中断していた講院薬房のご機嫌伺いが復活していますね。ようやく日常が帰ってきたって事でしょうか。で、北京入城から一週間して清軍もいくらか落ち着いたのか、報償を支給したみたいですね。旧暦五月ですから当然毛皮のコートや掛布団が必要な時期ではありませんから、北京の国庫を抑えて整理が出来たと言うことでしょうね。

初十日 丁酉 晴
 世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。

 5月10日。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。

十一日 戊戌 晴
 世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、平安。○清人移世子館所、廣仁街西路邊閭家、卽萬曆駙馬萬煒子家也。清人奉世子往見、員役皆陪行。其家舍結構宏麗、而庭除狹隘、我行人馬、決不得容接、故清人還報于九王、改定他家。萬駙馬父子、城陷之日、皆走死于城東云、而未知其真的也。○宣傳官尹廷俊、率城外留屯軍兵一百三十四名、入來。

 5月11日。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、快調だとの仰せだった。清人世子の居館を広仁街西路の入口にある萬暦年間駙馬萬煒の子の屋敷であった。清人が案内するというので世子は従者を伴って下見に向かわれた。その屋敷の建物は宏闊にして壮麗であったが、庭が狭いので人馬の出入りに不便だった。清人にその旨をドルゴンに報告してもらって、他の屋敷と替えて貰うことにした。萬駙馬親子は北京が落城した日に逃げ損ねて北京城の東で戦死したという噂だったが、本当のところは誰も知らない。宣傳官尹廷俊が城外の駐屯兵134名を率いて入城した。
 と言うことで、世子一行は紫禁城の仮住まいからようやくお屋敷を貰って引っ越しすることになったようです。万暦年間駙馬萬煒の息子の屋敷とのことですが、広仁街西路がよく分かりません…。なので、とりあえず萬煒について調べてみました。《神宗顯皇帝實錄》を検索してみると、萬煒万暦13(1585)年に万暦帝の五番目の妹である瑞安公主を娶って駙馬となっていますv。キッチリ出てくるモンですね…。で、《明史》の方で瑞安公主を確認すると、公主列伝穆宗六女の項に萬煒の経歴が載っていました。萬煒太傅宗人府を歴任したようで、《神宗顯皇帝實錄》を検索すると度々太廟北郊で儀式の代行を行っていたようです。平穏無事に過ごすしてきたわけですが、70を越えたところで李自成北京侵攻に遭遇して息子の萬長祚とともに李自成軍に殺されたとあります。長祚の妻である李氏は井戸に身を投げて死んだと言いますが、このお屋敷の井戸でしょうかねぇ…vi
 で、肝心の萬煒のお屋敷の方ですが、北京のガイドブックをいくらか眺めていたら存外有名なお屋敷だったみたいです。

曲水園
 駙馬萬公曲水家園,新寧遠伯之故園也。燕不饒水與竹,而園饒之。水以汲灌,善渟焉,澄且鮮。府第東入,石牆一遭,徑迢迢皆竹。竹盡而西,迢迢皆水。曲廊與水而曲,東則亭,西則臺,水其中央。濱水又廊,廊一再曲,臨水又臺,臺與室間,松化石攸在也。木而化歟?聞松柏槐柳榆楓焉,聞化矣,木尚半焉,化石,非其化也,木歸土而結石也。松千歲爲茯苓,茯苓,土之屬也;又千歲爲琥珀,又千歲爲瑿,琥珀與瑿,石之屬也。夫石亦有形似,不可以化言之,洞壑中,有禽若、獸若者矣,可謂之物化乎?古丈夫仙佛若者矣,人天化乎?樓若、城若、塔若者矣,人所構造以化乎?然石形也松,曰松化石,形性乃見,膚而鱗,質而幹,根拳曲而株婆娑,匪松實化之,不至此。vii

 萬煒のお屋敷は曲水園と称されていて、崇禎年間北京ガイドブックである《帝都景物畧》に紹介されています。元は新寧遠伯の園林だったとあります。明代寧遠伯は二家あって、古い方は正統年間初封の任禮寧遠伯家で二代で断絶してます。問題は新しい方の寧遠伯家ですが、万暦年間初封の李成梁寧遠伯家です。なので、この曲水園李成梁の旧宅だったと紹介されてると考えられます。李成梁万暦10年に下賜された邸宅viii万暦19(1591)年に失脚した時に公收されて、その後萬煒が引っ越してきたんでしょうかね…。
 と、煽っておいて何ですが、色々調べた結果、曲水園李成梁の邸宅ではないようです。と言うのも、どうやら李成梁は罷免されてから病没するまで北京に蟄居してたみたいなんで、お屋敷は公收されていないみたいですix李成梁邸宅の場所は石大人胡同xで、曲水園のあった大興県治所xiとはかなり離れてますから、《帝都景物畧》の記事は何か混同したんでしょうね。ここは新寧伯とするところを間違って新寧遠伯としたんじゃないかとxii新寧伯永楽年間初封の譚忠の家ですが、残念ながら邸宅がどこにあったのかは調べが付きませんでした。
 ともあれ、曲水園は川が園内を巡っていて竹林や松化石を配置して曲廊や東屋も建てられていたようです。ガイドブックにも載るくらい有名なお屋敷だったようですけど、住むには難のある作りだったと言うことでしょうか…。テーマパークとしては良くても住むには不便と言うことはあったのかもしれません。
 ただ、その後、雍正年間にはいくらか遺構は残っていたみたいですがxiii、《乾隆京城全図》の大興県の官舎の東を確認してもそれらしい屋敷は見られません。更に降って、光緒年間の北京のガイドブックである《京師坊巷志稿》によると、曲水園は跡形も残っていなかったみたいですxiv

 ちょっと脱線して長くなったので、今回はここまで。次回に続きます。

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
李燮平《明代北京都城营建丛考》紫禁城出版社
劉侗・于奕正《帝都景物畧》北京古籍出版社
于敏中《日下舊聞考》北京古籍出版社
京師五城坊巷衚衕集・京師坊巷志稿》北京古籍出版社
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行

  1. 故宫博物院【南三所】 [戻る]
  2. 《明史》卷一百二十 列傳第八 諸王五 莊烈帝諸子 太子慈烺 [戻る]
  3. 《明史》卷六十八 志第四十四 輿服四 宮室之制⇒正北曰乾清門,內為乾清宮,是曰正寢。後曰交泰殿。又後曰坤寧宮,為中宮所居。東曰仁壽宮,西曰清寧宮,以奉太后。 (中略)嘉靖中,於清寧宮後地建慈慶宮,於仁壽宮故基建慈寧宮。 [戻る]
  4. 李燮平《明代北京都城营建丛考》紫禁城出版社 P.385 图一三九 前星桥主桥望柱上部 [戻る]
  5. (萬暦13年12月)乙酉(19日)、冊封瑞安公主。上第五妹也。拜萬煒為駙馬都尉尚主。明年春二月出降、勑禮部采舊儀行。⇒《神宗顯皇帝實錄》卷一百六十九 [戻る]
  6. 瑞安公主,神宗同母妹。萬曆十三年下嫁萬煒。崇禎時,主累加大長公主。所產子及庶子長祚、弘祚皆官都督。煒官至太傅,管宗人府印。嘗以親臣侍經筵,每文華進講,佩刀入直。李建泰西征,命煒以太牢告廟,年七十餘矣。國變,同子長祚死於賊。弘祚投水死,長祚妻李氏亦赴井死。⇒《明史》卷一百二十一 列傳第九 公主 穆宗六女 [戻る]
  7. 《帝都景物畧》巻2 城東内外 [戻る]
  8. (萬暦)十年三月,速把亥率弟炒花、子卜言兔入犯義州。成梁禦之鎮夷堡,設伏待之。速把亥入,參將李平胡射中其脅,墜馬,蒼頭李有名前斬之。寇大奔,追馘百餘級。炒花等慟哭去。速把亥為遼左患二十年,至是死。帝大喜,詔賜甲第京師,世廕錦衣指揮使。《明史》 卷二百三十八 列傳第一百二十六 李成梁 [戻る]
  9. 石大人胡同 今爲寧遠伯李成梁賜第。成梁罷鎮還京居之,父子六人俱為大帥,貴震天下。成梁老病死牖下。長子如松戰沒,胄子名世忠襲爵,而頑嚚無賴,資產蕩盡,遂無人肯保任之。今惟正寢亭乃祖靈柩,十年不葬,他屋悉質於人,屠沽囂雜,過者嘆息。《京師坊巷志稿》巻上 石大人胡同 [戻る]
  10. 石大人胡同 今爲寧遠伯李成梁賜第。⇒《京師坊巷志稿》巻上 石大人胡同 [戻る]
  11. 曲水園在大興縣東、明駙馬萬煒建園。石牆一徑、皆竹。竹盡而西、迢迢皆水。曲廊亭台、皆東西濱水。其中有松化石、其半尚存本質。⇒《雍正畿輔通志》巻53 [戻る]
  12. 大興縣署胡同 井一。有坊曰大興縣,詳治所。北小胡同曰臊達子胡同。明曹學佺名勝志:大興縣治在北城教忠坊。帝京景物略:駙馬萬公曲水家園新寧伯之故園也。燕不饒水與竹,而園饒之。畿輔唐志;曲水園在大興縣東,明駙馬萬煒建園,中有松化石。案:園今無考。 ⇒《京師坊巷志稿》巻上 大興縣署胡同 [戻る]
  13. 曲水園在大興縣東、明駙馬萬煒建園。石牆一徑、皆竹。竹盡而西、迢迢皆水。曲廊亭台、皆東西濱水。其中有松化石、其半尚存本質。⇒《雍正畿輔通志》巻53 [戻る]
  14. 燕都游覽志:園亭之在東城者,曰梁氏園、曰楊舍人泌園、曰張氏陛舟園、曰恭順矦吳國華園、曰英國公張園、曰成國公適景園、後歸武清侯李、曰萬駙馬曲水園、冉駙馬宜園。案:泌園見泡子河,適景園見後,餘皆無考。⇒《京師坊巷志稿》巻上 石大人胡同 [戻る]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です