順治元年4月、ドルゴンの入関遠征の経緯

 岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 は読んでいて刺激が多く、特に外交面で興味深い本だったのですが、読んでいて一カ所引っかかる部分があったので、今回調べてみました。具体的には下に引用した文章です。

明朝政府は李自成の軍が北京に迫るとの報を受けると、呉三桂を北京に戻して首都の防衛に当たらせる。しかし間に合わなかった。(中略)長城東端の要衝、山海関にはドルゴン率いる清軍が迫っていた。呉三桂は前方に李自成、後方に清朝と挟まれる形になって、窮地に立たされる。(中略)そこで呉三桂は、敵対する清軍に密使を送って、援軍を要請する。(中略)ドルゴンは思いがけず、敵軍の前線の司令官から密使が来たばかりか、その君主の最期まで告げられて、さぞかし驚いたに違いない。(中略)『東華録』という清朝の年代記にみえるこのやりとりは、互いの立場と知略をよくあらわしている。呉三桂はあくまでも前線を守る明朝の将軍として、対峙する敵国の清朝に援助を求めたにすぎない。(中略)ドルゴンは高圧的な態度に出て、あくまで呉三桂の降伏・帰順を強いた。i

 この文章を見るに、
①:滅亡、呉三桂北京を陥落させた李自成と、北方から押し寄せる清朝に挟まれる
②:清朝ドルゴンの滅亡を知らずに山海関まで進軍
③:進退窮まった呉三桂清朝に援軍の要請のため密使を送る
④:の滅亡を初めて知ったドルゴンは驚くが、呉三桂に降伏・帰順を強要
…と言う時系列で岡本センセは理解しているようです。自分の記憶とかなり時系列が違うので驚きました。まぁ、岡本センセも清末の外交関係がご専門だからか、参考にした《東華録》にそんなことでも書いてあったのかしら…と思いながらなんか引っかかっていたんですが、昨日、別の調べ物をしていたところ、似たような文章に出くわしました。

1644 順治元年(崇禎17年) 4 ドルゴン、呉三桂の投降を受け出征し、山海関で李自成を撃破。ii

 山川出版の『世界歴史大系 中国史4』の年表にもこう書かれると、自分の記憶が不安になってきましたので、今回、《明史》と《大清世祖章皇帝實録》で確認して見ました。

 

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  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.43~45 [戻る]
  2. 『中国史4』年表P.70 [戻る]

ドルゴンの対モンゴル政策 その1 テンギス事件の巻(2017/02/18訂正)

 たびたび、ドルゴンの対モンゴル外交については比重の大きさは感じていたものの今ひとつ流れを捉え切れていなかったのでメモ。
 まず、ドルゴンモンゴル外交の経緯を追っていくと…

①:順治3年5月⇒”騰機思”の離反
②:同年7月⇒ドドによる”騰機思”遠征
③:~順治4年5月迄⇒”二楚虎爾”の清朝との敵対
④:~順治5年8月迄⇒”騰機思”の投降
⑤:順治5年12月⇒大同総兵姜瓖の叛乱⇒ドルゴン2度(順治6年2月と7月)遠征
⑥:順治6年10月⇒大同総兵姜瓖の叛乱平定
⑦:順治6年10月⇒ドルゴンの”二楚虎爾”遠征
⑧:順治7年7月⇒ハラ・ホトン離宮建造の奏上
⑨:順治7年12月⇒ドルゴンハラ・ホトンで狩猟中に薨去

 と言うことになります。順治3年からこっち、順治7年に死没するまで、ドルゴンは毎年モンゴル関係で忙殺されていた事になるかと思います。特に姜瓖二楚虎爾については、ドルゴン本人が軍を率いて遠征してます。ドドホーゲが他界し、アジゲが信用ならない状況下では他に選択肢はなかったんでしょうけど、少なくとも漢土南明以上にモンゴル情勢は重視していたと考えられます。
 なんですが、そもそも、騰機思とか二楚虎爾って何やねんって所からですよね…。
 書いてたら長くなったので、今回はまず、①と②、④のテンギス(Tengis 騰機思)について見ていきましょう。まずは《欽定外藩蒙古回部王公表傳》の蘇尼特部總傳から。
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