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鎌倉の終焉

 何年か前から蒙古襲来を調べていて、勢いに乗って何冊か鎌倉時代の本を読んだのが切っ掛けで、北条得宗家に俄然興味が沸いた訳ですが、なんだか知れば知る程奇妙ですね…。まあ、執権北条氏というのはよく知られていますし、北条政子が源頼朝に嫁いだお陰で鎌倉幕府の中枢をしめることができたとはよく言う訳ですが…。
1:そもそも、何で源氏の将軍が三代で滅びたのに鎌倉幕府が存続できたのか?
2:元々、頼朝存命中は本妻:北条政子の実家と言うだけの地位しかなかった北条家が権力を拡大できたのか?
3:朝廷勢力を圧倒し、有力御家人を粉砕し、モンゴルの来襲をはね除けたのになんだか常に不安定だったのは何で?

 などなど、疑問が多い仕組みの上に立ってます。

 天皇より征夷大将軍の職を受けた源氏の開いた幕府で、幕府内の行政を執行する権利を持つ家宰ぐらいの地位でしかないはずの執権が、少なくとも東日本の行政の中心にいた訳ですから、如何にも日本的とはいえ奇妙な話です。
 で、五代執権・北条時頼以降、執権職の権威自体が低下したにも係わらず、得宗家=北条宗家が絶対的権力を持つ様になります。得宗家の直轄地を拡大していった結果、得宗家の権威が増していったという説明がされて、教科書でも日本のホボ全土が北条家の領土となっている日本地図なんかが載っていたのを覚えている方も多いと思います。
 更にその後は得宗家の権力も得宗家の御内人でしかなかった内管領・長崎家に凌駕されるようになる訳ですから、鎌倉末期は何重権力なんだか分からない状況になるワケです。
 もっとも、どれだけ権勢を誇っても伊豆在官という低い家格の平氏北条家が将軍に取って代われるワケもなく、まして天皇に取って代わることなど考えもおよばないというのが北条家の限界なワケですけど…。

 で、権威を欲しいままにした北条家も、九州探題で菊池合戦と呼ばれる騒乱が起き、後醍醐天皇が院宣下して楠木正成を鎮圧に来た足利尊氏を寝返らせて京都の六波羅探題を陥落させ、間もなく新田義貞が鎌倉を落として得宗・北条高時や執権・北条守時が死ぬと、鎌倉幕府は崩壊してしまう訳です。この間二ヶ月。その後に北条高時の次男である北条時行が中先代の乱を信州諏訪氏(武田信玄に滅ぼされた諏訪氏は元々北条家の被官)の援助で起こすモノのすぐに鎮圧…。栄華を誇った北条氏もココで殆ど歴史の表舞台から姿を消します。
 室町幕府が崩壊した後も、足利将軍家の縁者が何らかの形でその後も権威を有したのに(例えば関東管領上杉家は足利一門)、北条家一門で明治の華族になった家というのも聞きません。
 なんだか奇妙な出世の仕方して、いびつな権力基盤の上に立ち、さっさと消えてしまった北条得宗家って言うのは面白いなぁ…と思う訳ですよ。

ツッコミ:2

師走 2007/08/26 00:25
1:そもそも、何で源氏の将軍が三代で滅びたのに鎌倉幕府が存続できたのか?
 このへんは血縁関係さえクリアーできたら問題なかったんじゃないですかね。

2:元々、頼朝存命中は本妻:北条政子の実家と言うだけの地位しかなかった北条家が権力を拡大できたのか?
 確かに最初は本妻の実家程度にすぎないのですが、義経失脚を切欠に表舞台に立てるようになりました。成立当初の鎌倉幕府の重鎮はやっぱり源義経で、No.2にのし上がろうと思ったら義経を蹴落とさないと駄目なんですよね。で、義経が幕府に反旗を翻すと、失脚した彼にかわって真っ先に京都に入って人心の掌握に務めた御家人が北条時政という。多分、何か影で義経失脚のために忙しく動いていたんじゃないですか。

3:朝廷勢力を圧倒し、有力御家人を粉砕し、モンゴルの来襲をはね除けたのになんだか常に不安定だったのは何で?
 鎌倉幕府って中国の唐朝みたいにいつもぐだぐだだったしなぁ。二代目、三代目と矢継ぎ早にトップを失ったツケかなぁ。
宣和堂 2007/09/02 21:21
この辺かなり難しいんですよねぇ…。まあ、ワケ分からないから面白いのがこの時代なんですけど。でも、北条家が躍進したのはむしろ時政よりも義時のお陰のような気がするんですけど…。時政調子乗ってクーデター失敗してるし。

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