- 2008/02/23 土
- 中国史 > 書籍
と言うことで、小島毅『足利義満 消された日本国王』光文社新書 を読了。多分、主なテーマは三つくらい?
1:足利義満はその意があったと仮定するなら、朱子学を理解していたからこそ、《孟子》の易姓革命をたてに皇位の簒奪をしなかった。
2:足利義満が明の册封を受けて日本国王となったのは、明を崇拝していたという訳ではなく、遣唐使以来、日本が不参加であった国際秩序に参加することを目的とした。
3:皇国史観をとにかくおちょくりたい。
この本で面白かったのが、やっぱり義満と義持の関係ですかね…。四代将軍・足利義持の笙始(足利氏が重視した楽器)の時も、嫡子・義量(五代将軍)の出産の際にも義満は明使応対の為に立ち会っていないとか、義満が乾そうとしていた(と考えられる)北朝系の伏見宮家の創設を認めたり(この宮家が結局、現在の天皇家、直接のご先祖に当たられる)と、色々面白いコトが書かれてます。義満が一休宗純を出家させるなどして(義満に批判的な大徳寺がコレを受け入れ、京都五山からも外れたというのも面白い話でした)、北朝の後円融系の血統を断絶しようとしていたようです。主筋に当たるはずの北朝の血統に冷淡な一方、義満は南朝の後亀山院とは仲が良かったので、もしかしたら本当に南朝系の帝を後小松帝の後に即位させようとしていたのかも知れない…と言うのがこの本の主張ですね。
で、義満の死の数ヶ月前、四代将軍・足利義持の弟である足利義嗣を伴って源氏の氏神・石清水八幡宮へ参拝し、引き続いて天皇家縁の伊勢神宮へ参拝し、帰京後、禁裏で親王と同格の義嗣の元服を行いました。コレは内外に義満の後継者は将軍である義持ではなく、義嗣であるという印象を与えた模様。…しかし、その三日後に義満は発病しそのまま八日後には薨じました。確かに、何だか起きそうな事柄が続いた後に、急に発病とかちょっと不自然。
で、義満の四十九日法要の際に、件の南宋・高宗が、北宋・徽宗の法事に用いた賛を義満の肖像画の上に書いたワケです。息子が父を弔っているにもかかわらず、批判的な言辞である点が引用された要因なんでしょうけど、義満を国体を危うくした存在で、義持に権力を継がせなかったという意味に於いて義満を徽宗、義持を高宗になぞらえているのではないか?としてます。
うーん…まあ、法事で親の悪口言う使う文章なんてそうないでしょうから、タマタマ高宗の文章くらいしかなかったんでしょうね…。あんまり徽宗と義満には共通点はないと思いますし、義持が父親を積極的に徽宗と比較したとも思えないので、あんまり意味はないのかも知れませんねぇ…。残念…〈桃鳩図〉でも絡んでいるのかと思ったのに…。
で、皇位簒奪と日本国王の件ですね。そもそも、日本国王・源道義に日本の皇位に興味があったのか?国内に於いて位人臣を極め、出家して名を道義と改め(出家直後には道有と号するがすぐに改める)、官を辞して帝の臣下であることから自由になって、日本国王の称号を明から下賜され(宣和堂が思うに、コレは大明皇帝陛下から戴いたという意味よりも、国際社会から認められた…まあ、今日的な意味から言うと国家元首として国連からも承認を得たとか、その程度の意味かと…)、義満の出家の後を追うように武家、公家が大量に出家した人びととコレは帝の臣下という枠から抜け出した人たちによって新たな王権が登場したことを意味するのでは?そもそも、日本の帝は日本国王源道義にとって打倒すべき対象だったのか?ともあれ、結局は義満は急死したわけで、史料にはこのあたりのことは何も残されていないので、個人的には想像するしかないと思いますが…。まあ、明での靖難の変や高麗から朝鮮に代わった朝鮮半島の状況を見ると、東アジア世界には手本はゴロゴロ転がっていたというのは、もっともな指摘だと思います。
色々考えさせられて面白い本でした。ちょっと前に読んだ黒田日出男『増補 絵画資料で歴史を読む』ちくま学芸文庫 で、「吉備大臣入唐絵詞」の記事を読んだばかりだったので、野馬台詩が出てきて驚いたり、以前、ココの日記で記事にした足利義満600年御忌記念「京都五山 禅の文化」展が出てきたり、今読んでいる海音寺潮五郎『蒙古の襲来』河出文庫 でも細かく触れている京都五山についての記事があったりで、結構他と繋がる内容だったなぁ…と、個人的には親しみ持ちましてです。
それにしても、小島センセは飛ばしすぎですよね?
で、義満の死の数ヶ月前、四代将軍・足利義持の弟である足利義嗣を伴って源氏の氏神・石清水八幡宮へ参拝し、引き続いて天皇家縁の伊勢神宮へ参拝し、帰京後、禁裏で親王と同格の義嗣の元服を行いました。コレは内外に義満の後継者は将軍である義持ではなく、義嗣であるという印象を与えた模様。…しかし、その三日後に義満は発病しそのまま八日後には薨じました。確かに、何だか起きそうな事柄が続いた後に、急に発病とかちょっと不自然。
で、義満の四十九日法要の際に、件の南宋・高宗が、北宋・徽宗の法事に用いた賛を義満の肖像画の上に書いたワケです。息子が父を弔っているにもかかわらず、批判的な言辞である点が引用された要因なんでしょうけど、義満を国体を危うくした存在で、義持に権力を継がせなかったという意味に於いて義満を徽宗、義持を高宗になぞらえているのではないか?としてます。
うーん…まあ、法事で親の悪口言う使う文章なんてそうないでしょうから、タマタマ高宗の文章くらいしかなかったんでしょうね…。あんまり徽宗と義満には共通点はないと思いますし、義持が父親を積極的に徽宗と比較したとも思えないので、あんまり意味はないのかも知れませんねぇ…。残念…〈桃鳩図〉でも絡んでいるのかと思ったのに…。
で、皇位簒奪と日本国王の件ですね。そもそも、日本国王・源道義に日本の皇位に興味があったのか?国内に於いて位人臣を極め、出家して名を道義と改め(出家直後には道有と号するがすぐに改める)、官を辞して帝の臣下であることから自由になって、日本国王の称号を明から下賜され(宣和堂が思うに、コレは大明皇帝陛下から戴いたという意味よりも、国際社会から認められた…まあ、今日的な意味から言うと国家元首として国連からも承認を得たとか、その程度の意味かと…)、義満の出家の後を追うように武家、公家が大量に出家した人びととコレは帝の臣下という枠から抜け出した人たちによって新たな王権が登場したことを意味するのでは?そもそも、日本の帝は日本国王源道義にとって打倒すべき対象だったのか?ともあれ、結局は義満は急死したわけで、史料にはこのあたりのことは何も残されていないので、個人的には想像するしかないと思いますが…。まあ、明での靖難の変や高麗から朝鮮に代わった朝鮮半島の状況を見ると、東アジア世界には手本はゴロゴロ転がっていたというのは、もっともな指摘だと思います。
色々考えさせられて面白い本でした。ちょっと前に読んだ黒田日出男『増補 絵画資料で歴史を読む』ちくま学芸文庫 で、「吉備大臣入唐絵詞」の記事を読んだばかりだったので、野馬台詩が出てきて驚いたり、以前、ココの日記で記事にした足利義満600年御忌記念「京都五山 禅の文化」展が出てきたり、今読んでいる海音寺潮五郎『蒙古の襲来』河出文庫 でも細かく触れている京都五山についての記事があったりで、結構他と繋がる内容だったなぁ…と、個人的には親しみ持ちましてです。
それにしても、小島センセは飛ばしすぎですよね?
ツッコミ:2
- 師走 2008/02/23 20:44
- 確かに、小島センセは一昨年くらいに義経について新書をだしてから、日本史関係では飛ばしまくりです。
- 宣和堂 2008/02/24 14:44
- しかし、キミも小島センセフリークだな。




