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モンゴル帝国と長いその後

 昨日は幇会で深酒しました。今日は結局、入れていた予定をキャンセルして静岡に帰って寝込んでました…。いつもの如く、参加された方は無礼ご容赦。社会の窓注意。
 と言うワケで、杉山正明『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』講談社 読了しました。今回は敢えて大元ウルスのことは書かず、むしろ、ジョチウルスであるとか、フレグウルスのコトをメインに据えて、ルーシ諸国ティムール帝国ダイチングルンなどのモンゴル婿殿国家や、十字軍の頃のフランス王国との関係など、ナカナカ読み応えのある面白い本でした。章をまたがって話が飛ぶので、ジョチウルスフレグウルスの歴史はお世辞にも網羅的とは言い難いのですが、ナカナカまとまった文章を読んだことがないテーマだったので、コレも興味深く読みました。
 まあ、それにしても杉山先生は飛ばしすぎなので、人にはあんまり勧めない訳ですが、読んでて「そりゃ無いぜシニョール!」と思った箇所を抜粋…。
 真っ当な書評はむとうすブログさんの(書評)モンゴル帝国と長いその後とか、景教僧の旅行誌あたりを読んで下さいね。

ハーカマニッシュ帝国(普通ギリシア語にもとづきアカイメネス朝などと呼ばれるが、原語がきちんとわかっているのだから、西洋式の通称・俗称は変だろう)(P.46)
カラ・キタイ(これは誤称。カラ・キタイとは、もともとキタイそのものをさす。国家・政権としては、正確には第二次キタイ帝国というべき)(P.67)
第二次キタイ帝国(大金国によって北宋とともに滅ぼされた第一次キタイ帝国は、王室一族の耶律大石によって中央アジアの東西にわたるかたちで再建された。この国を、カラ・キタイないし中華式に西遼と呼ぶのは、いずれもふさわしくない。キタイ国家は、通算すると三〇〇年を越す存在であった。それは、ちょうど北宋と南宋という名の第一次・第二次の宋朝とはほぼおなじ長さであり、領域・重心を移して再生した点でも似かよっている。なお、キタイ国家と宋朝とを、こうした観点でとらえなおすと、一〇世紀から一三世紀のユーラシア東方の構図は、よりよく理解される)(P.121)
 杉山センセも他の本ではアケメネス朝ペルシアとか言ってるんですが…なんだか宗旨替えされたみたいですね…。スキタイじゃなくてスキュタイじゃなくて良いんですか?と問いかけたい所。あと、西遼に噛み付くのは分からないまでもないんですが、自分としては発音がハッキリしないのだから、契丹で良いと思うんですけどね…。匈奴鮮卑突厥と同じ扱いじゃダメなんですかねぇ…。あと、なんで大金国なんですかねぇ…。なら、宋朝ではなく大宋国にしなくてはいけないんじゃないかとおもったり…。この辺ちぐはぐな印象を受けるんですけど…。いつものことですが、杉山センセのこだわりは全然一貫していないので、丸ごと受け止めることは出来ません。

 そして、翌二月、厳冬のなかをすすんだモンゴル軍は、ルーシの首都たるウラジミールを眼前にした。率直にいって、ルーシ最大都市といっていいウラジミールの姿は、おそらくモンゴル軍の将兵達には拍子抜けするほど情けないものではなかったか。土塁に囲まれ、その上に粗末な木柵がつくられ、外周の堀は一応そこそこの幅と深さはもってはいた。だが、例えば大金国の首都たる中都や、まして末期に都とした開封は、はるかにこんなものではありえなった。ウラジミールは、周囲七キロメートルというから、これを華北の城郭都市とくらべると、せいぜいが州城程度の規模である。つまり、中華地域ではいくらでもこのくらいの都市はあった。まして、城壁は、普通は塼ないし煉瓦で表面をおおい、女墻や突き出しが施され、更に要所には高楼がたち、馬面(馬出し)をそなえた城門には、やはり高々とした楼閣が威圧するかのように聳え、城濠も壮大であった。防御力・堅牢さ・宏壮ぶり、いずれをとってもルーシとは比べものにならない。(P.159)
 珍しく杉山センセが中華を絶賛。夢でも見てるんでしょうか?
 バトゥルーシ遠征自体がキプチャク族の後背を突く意図以外に何の意図もなかった!と言うコトです。バトゥの遠征の目的はキプチャク高原だったというのは確かにそうでしょうね。

ようするに、レグニーツァの戦いなるものは、霧の彼方にあるといっていい。問題は、後世にこそある。(P.169)
 一刀両断…。

 事実としてのアレクサンドル・ネフスキーは、いつの時代・地域にもよくいる野心家であり、現実対応型の、その意味では柔軟な政治家であった。(P.173)
 ロシア…というかルーシの英雄=アレクサンドル・ネフスキーも一刀両断。

 一二四一年に第二代のオゴデイが他界した後、モンゴルの帝位はなんとグユクがひきついだ。キプチャク草原でバトゥと不和となり、モンゴル本土に召還されたことが幸運となった。そもそも、オゴデイの突然の他界、そしてほとんど同時のチャガタイの死、いずれも大いなる可能性としてともどもに毒殺の匂いが濃密に漂う。それも、オゴデイの近くにいながら、不遇感をつのらせていた耶律楚材が一服もったか。ただし、そそのかしたのは、帝国東方の実力者オッチギンとも、あるいはグユクの母后ドレゲネであったとも、いずれもありえる。(P.178)
 ちなみに耶律楚材が出てくるのはこの箇所だけ。そんなに耶律楚材が嫌いか!!

 多分は、まちがいなくモンケは中東以西を考えていた。つまり、フレグ征西軍の最終目的は現実に攻撃したエジプト以西にあったのではないか。つまり、ヨーロッパ遠征である。モンケの構想では、東のクビライ、西のフレグによって、文字どおり世界制覇をねらったのであった。そのさい、バトゥのジョチ・ウルス軍は状況次第ではフレグ軍に呼応して西進する手はずではなかったか。(P.180~181)
 耶律楚材グユクに対しては冷たい杉山センセは、基本的に完全無欠の大カァンモンケのことは手放しで評価する訳ですが、実は断言してるワリにこの下りは状況証拠からの想像…若しくは妄想でしかないワケなんですけどね…。それにしても、そんなにモンケが好きか!!

 イスマイール教団作戦・バグダード包囲作戦をふたつの焦点とするフレグの西征において、モンゴル軍は自損はもとより、イラン・イラク地域における流血もきわめて少なかった。ようするに、モンゴルは実はそれほど強くもなく、自分たちでもそのことをよく知っていた。かたや、アメリカは、人類史上で突出した軍事力をもち、それに自信をもっているのだろう。戦うアメリカ、戦わないモンゴルと言ってしまえば、それまでなのだが。(P.188~189)
 以前、『遊牧民から見た世界史 民族も国境も越えて』日本経済新聞社 で、かする程度に比較してましたが、もっとヒートアップしてますね。

 マムルーク戦士の多くは、キプチャク草原とその周辺から売られてきた人びとであった。生得の遊牧武人であり、マムルーク軍団とモンゴル軍は、実は似たものどうしなのであった。(P.198)
 なんだか、モンゴルを倒せるのはモンゴルだけみたいな状況に…。他の箇所で…
一二四一年四月十一日、当時のヨーロッパで屈指の強国とうたわれたベーラ四世ひきいるハンガリー軍をシャヨー河畔で撃破した。(P.166)
ベーラは、バトゥの撤退後、モンゴルにならい国家体制を強固なものにつくりかえてゆく。ただし、彼が引き込んだキプチャク遊牧民は、流亡集団と化して各地を荒らし回り、負の遺産となった。(P.170)
 となっているので、モンゴルマムルーク朝ハンガリーも似たもの同士という結論になりそう…。それにしても、この本の中ではキプチャクが東奔西走して大活躍。

 ひるがえって、マルコ・ポーロなる名高い人の話が、実はたしかなある個人としての行跡を語るのではなく、複数の異邦人たちの体験・見聞をよせあつめたものであったとおもわれること、同じくアフロ・ユーラシアを旅したとされるイブン・バットゥータの旅行記なるものも、多分に合成物であったと考えられること──、著名きわまりないこの二人の記述には、その実、どこか「うろん」な影がつきまとうのにくらべ、ラッバン・サウマーはまぎれもない一個の人間の実寸でとらえられる。(P.241)
 マルコ・ポーロだけでなく、イブン・バットゥータまでも一刀両断…。マルコ・ポーロの実在を疑問視する説自体は杉山センセお得意ですし、Frances Wood/粟野真紀子『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』草思社 では、マルコ・ポーロは本当は中国には行ってないかも?説が詳しく述べられているので、別に否定はしないんですが、イブン・バットゥータまで否定されていようとは…。どの辺が根拠なんですか!巻末の補説だけじゃ物足りないッス!
 でも、サウマーマルクという二人のオングト族ネストリウス派キリスト教徒が、聖地巡礼の為にフレグ・ウルスを通過する際にバグダードネストリウス法主になったり、その使節としてイタリアフランスに赴いたりする『ヤバラーハー三世伝』は非常に興味深い内容でした。

なお、神聖ローマ帝国とモンゴルとは、バトゥの西征のおりにヨーロッパを代表して対処を迫られたフリードリヒ二世をはじめ、その後の大空位時代に終止符を打ったこのルドルフ一世など、直接・間接のかかわりがある。(P.263)
 序章でもハプスブルク家ホーエンツォレルン家について触れているモノの、モンゴルとの関係性は正直特筆する程強くないと思うんですが…。それこそ、フランス聖王・ルイの方がよっぽど紙数割いている訳ですから、むしろフランスモンゴルの関係についてはあんまり強調しないのはどうなんでしょうね…。あと、ハンガリーモンゴルについてはどうなんでしょうか…。

たとえば、ともすれば地中海域は十一世紀以降、いわゆる十字軍の連続的な中東襲来によって交通・交流が活発となってきたかのようにいわれてきたが、それはほとんど純粋無垢な精神からの誤解・思い込みである。事実は地中海は十三世紀においてもなお、閉ざされた海に近く、組織的な航海は難しかった。(P.101~102)
そして、一三〇四年のモンゴル帝国の東西和合と、その後の人・モノ・情報の東西大交流によるアフロ・ユーラシアの一体化は、イタリアを中心とするヨーロッパにいちじるしい経済・文化の繁栄と自由な精神をもたらし、「ルネサンス」なるものを醸成する。(P.268)
 モンゴルルネサンスを生んだという主張。十字軍遠征には負の遺産しかないというコトかな…。

 なお、永楽帝・朱棣のときの鄭和の航海を誇大視する意見があるが、モンゴル時代以来のインド洋上ルートによる往来を踏襲したものであり、むしろこれを最後の花道とするかのように、アジアによる海への展開が失われてゆくことの意味こそが重大である。ちなみに、鄭和の宝船を八〇〇〇トン以上などという虚像がまことしやかに語られるが、それほどの木像帆船は、そもそも動かないし、インド洋の荒波で木っ端みじんになってしまう。(P.304)
 イイゾーもっと言え~!自分も鄭和の航海自体はそんなに評価しないので(鄭和の航海によってもたらされた何か?と言うのがあまりに少なすぎる気がするので、そもそもあの航海自体が必要あったんかい?というのは長年の疑問なので…)、これには諸手を挙げて賛成します。イイゾー!

 あと、いきなり始まるアフガニスタンアメリカについてのポエムとか、巻末のどこから突っ込んで良いのかもはや分からない年表とか、杉山分が凝縮された「重要項目解説─東西をこえた旅人と遠征」など、尾っぽまで杉山節が全開。人に勧めて良いモノかと思うモノの、杉山先生好きには普通にオススメします。…もっとも、全部鵜呑みにしないでね?とは言いますけど。

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