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饒舌な男色家

 ツラツラ読んでいる 本郷恵子『日本の歴史 六 京・鎌倉 二つの王権』小学館 のメモ。

藤原頼長×源義賢
「今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも景味あり。」(『台記』
藤原頼長×藤原家成
藤原頼長×秦兼任
後白河院×近衛基通
「秘事たるといえども、奇異の珍事、子孫に知らしめんがため」
「君臣合体の儀、これをもって至極となすべきか」(『玉葉』
後白河院×藤原成親
後白河院×藤原信頼

 …ナルホド、平安時代がBLの舞台になる理由が分かるような気がしてきました…。この本によると、宮廷内の交際や派閥に、もれなく男色関係がついてくるものだったようにみえる…とあります。実際には女性の側もかなり奔放だったらしく、相関図は相当複雑な様相を呈したようですね。出世のために手段を選ばない昼メロ的な世界が後白河期院政…という刷り込みされてしまったんですが、これで間違い無いのか心配になります。

藤原頼長
 摂政・藤原忠通の二十離れた弟。学問に優れ、素晴らしい才能の持ち主だが、物事に寛容でなく、万事に極端な対応をしがちな性格だった。兄・忠通は長年後継者に恵まれなかったため、弟・頼長を養子として破格の昇進を遂げさせていたが、四十七にして男子が産まれたために関係が微妙になり、院の後宮で対抗関係が生まれると各々敵対する勢力に属した。父・忠実は忠通に頼長への摂関委譲を再三に渡り促したが、忠通が拒否したため、忠実は忠通を義絶し、氏長者の地位や家産を強引に取り上げて頼長に与えた。鳥羽院も頼長を支持して忠通を批判した。しかし、近衛天皇が崩御して後白河天皇が即位すると頼長に官職の宣旨は下されず、政界からの排除は決定的となった。頼長の妥協を許さない処断は、院近臣や寺社との軋轢を招いていたためと言う。結局、追い詰められた頼長は鳥羽院の崩御を期に崇徳院とともに兵を集めて保元の乱が勃発したが、国政上の命令系統に沿って兵力を動員した後白河天皇側に敗北した。彼の日記『台記』は社会的な規範に捕らわれぬ、些か露悪趣味的な性格のために、奔放な男性関係も記録している。

藤原信西
 後白河天皇の信任を得て、優れた学才に加えて合理的な実務能力と傑出した構想力に恵まれ、保元の乱後に記録所(荘園の整理及び訴訟の整理をする機関)の興隆、大内裏造営、公事の再興、京中の警備を政策として打ち出し、効率的に政策を実現していった。後白河院と男色関係にあった藤原信頼と対立し、藤原信頼が源義朝と組んでクーデター(平治の乱)を起こすと、信西は斬首されてしまう。

 今ひとつボンヤリしてつかみ所の無かった、保元平治の乱も、了見の狭い秀才ホモとその兄の抗争とか、実務派成り上がりと、古参ホモとの抗争と言う風にみると…呆れてモノが言えませんね…。

 このエントリーのタイトルは、この本のコラムから取ったんですが、まあ、凄いですよね。この本ゆっくり読んでますが、結構面白いです。いや、こういうコトばっかり書いてるワケじゃないですよ。源平合戦の下りでも、軍事史はさらりと流して政治史に紙数を取っているイメージがありますが、自分はこのスタンスが好きなんで、このまま得宗専制のあたりまで行くと、どうなるかしらと?とドキドキしてます。

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