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千年の都北京 樹と石と水の物語

 ボチボチと阿南・ヴァージニア・史代/小池晴子『千年の都・北京 樹と石と水の物語』ランダムハウス講談社 をツラツラ読んでます。この本は基本的に古地図古籍から、かつての寺院などの場所に当たりをつけて、現地でのフィールドワークによってその実在を確認していく様をブツ切りに紹介しています。写真満載の本なのですが、各所の紹介記事自体は短いモノのテーマをに括ってあるだけで、時代も場所もバラバラに出てくるのでちょっと読みにくさを感じます。でも、やっぱり書いてあることは他の本では見られない面白い記事が多いです。

千年の都・北京 樹と石と水の物語
中山公園にある東西に延びる二列に並んだ檜は、かつてこの地にあった契丹の護国寺の名残。

大覚寺の檜は金・章宗が契丹初期の寺院・清水院を離宮にした際に整備したモノ。清水院は契丹シャーマニズムに基づいて、全ての建物が日が昇る東向きに建っていた。

永楽年間に姚広孝との縁で北京郊外にある潭柘寺で住職に就任した日本人僧・無初徳始がおり、同寺内の仏塔に刻まれた銘文によって、その存在が知られるようになった。

明・英宗が土木の変に繋がるモンゴル遠征に出征する際に、北京郊外のとある尼寺の尼僧に、遠征しても敗北するばかりか虜囚となるだろうと預言された。尼僧はこのために厳しく罰せられたが、後に預言が的中すると、皇帝(景泰帝か英宗か?については言及無し)は彼女の勇気ある行動を讃えて、その尼寺に皇姑寺という名を下賜した。別の伝説によると、尼僧は獄中の英宗を尋ねて水と食料を差し入れたとも言う。更に別の伝承では、尼僧は最初に預言した際に英宗に殺されてしまい、後に彼女の名を記念して尼寺を建てたとも言う。

唐代から続いた寺院・崇效寺に植えられていた樹齢?二百年の牡丹は中山公園に移植された。現在、崇效寺は廃寺となっている。

気功師・万蘇建は医師と4~5人の助手にチームを組ませて各員それぞれにいずれかの流派の武術を学ばせて、武術によって養われた気を治療に役立てる、八卦気功を考案した。

かつて文天祥廟があった場所に植えられた棗の木は、文天祥手ずから植えたという伝説があり、枝が全て南宋のある方向…つまり南を向いている。

紀暁嵐の旧居は現在、晋陽飯荘の敷地内にある。中庭の海棠は少年時代の紀暁嵐が初恋の人を追憶して植えたモノだと言う。

溥傑邸の中庭には日露戦争終結時に旅順の日本海軍司令部に植えられていた棗の子孫。
愛新覚羅浩さんは愛猫家だったので、入院時に病院ではペットの持ち込みが禁止されていたので、溥傑が自宅の猫をこっそり隠して連れて行くと非常に喜んだ。

北海公園の団城内にある白袍将軍は樹齢八百年で、恐らく金代の離宮時代からの樹木。

西単交差点の民族大世界市場にある棗の木は、元々は呉三桂の息子で駙馬であった呉応熊の屋敷であった時代の名残。ちなみにこの場所は呉応熊の屋敷になる前の明代には常州会館、三藩の乱後には満州旗人師弟の学問所となり、民国に入るとモンゴル族とチベット族の学校になったという。

 とりあえず、のパートの気になった記事だけ抜き出ししました。殆ど根拠となる文献が指示されていないものの、面白い記事が多いデス。中山公園とか民族大世界とか晋陽飯荘に俄然行きたくなりますね。

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