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千年の都北京 樹と石と水の物語#2

 と言うワケで、またもツラツラと阿南・ヴァージニア・史代/小池晴子『千年の都・北京 樹と石と水の物語』ランダムハウス講談社 を読み続けています。確かな知識に裏付けされたフィールドワークって面白そう。いつか北京で暮らしながら、こんな風に現地の人とふれあいながら忘れ去られた古蹟を探索できたらいいなぁ…とちょっと思いました。まあ、不快なことの方が多そうだとしても魅力的だなぁ…。

千年の都・北京 樹と石と水の物語
頤和園への道沿い、北京西方にある正福寺とその周囲の田畑は1732年にイエズス会が買い取り別荘と埋葬地を作っていたが、1900年の義和団の乱で破壊されたが、1920年頃までは少なくとも60基あまりの宣教師や中国人改宗者のための彫刻墓石が残っていた。その後、内戦や文革の時代にも村のカソリック信者に墓石は守られたが、ある日突然やって来たトラックによって墓石は持ち去られてしまった。村人は墓石の行方を知らなかったようだが、現在、墓石は北京石刻博物館=五塔寺に保管されている。

永定河西の常楽寺は明代の創建とされ、かつては引退した宦官たちが出家して僧侶となって共同生活をしていた。

北京中心部の鐘楼の真西・小黒虎胡同に金炉聖母鋳鐘娘廟がある。明・永楽年間、永楽帝の命により青銅製の大鐘を鋳造するものの、失敗が続いた職人がいた。当時は職人が失敗すると厳罰に処せられたため、職人の娘は大鐘鋳造の成功を祈って煮えたぎる青銅の中に飛び込んだ。娘が溶けた青銅で作った大鐘は完璧な出来映えだった。金炉聖母鋳鐘娘廟はこの娘を祀った廟である。後に乾隆帝はこの寓話に感銘を受け、廟に娘を讃える自作の銘文を刻ませた。

北京西部の十字寺跡からは契丹時代の〈勅賜十字寺碑辞〉が発見され、この場が本来仏教寺院であった場所を利用して、ネストリウス派キリスト教=景教の教会があったことを証明してる。元代にはクビライ・カーンの母親が景教の信者であった関係からも、北京中に景教が布教された。この教会は、ラバン・サウマが修行した教会でもある。

紫禁城東にある摩訶迦羅廟=普渡寺跡は元々は、景泰年間建造の宮殿、後に豫親王府=摂政王・ドルゴンの旧居。その後、康煕帝がモンゴルから摩訶迦羅像を将来し、ココに祀って摩訶迦羅廟=普渡寺とした。一時は雍和宮に次ぐ北京第二のチベット寺院であった。現在は小学校となっている。

鐘楼にほど近い場所にあるラマ教寺院・西黄寺は公式には一般拝観は禁止。寺院はダライ・ラマ五世を首都に迎えるために建てられた。なお、この寺院の仏塔には、乾隆帝の誕生日を祝して北京を訪問中に天然痘に羅病して客死したパンチェン・ラマ六世の法衣が収められている。

薬王廟は唐代の医師・孫思邈を祀った廟。中国全土に薬王廟は存在するが、北京南西部にもかつては薬王廟があり、孫思邈の誕生日である旧暦3月28日に薬王廟会という祭りを催した。最近荒れた社殿を修復したことから五十年ぶりに薬王廟会が復活した。祭りには色々な出し物が並ぶが、薬王の事蹟の語り物も多い。薬王が薬草を探して山中をさまよっていると、かれのロバが道にはぐれて虎に食べられてしまった。薬王はかんかんに怒り、近隣の虎を招集してついに下手人を発見すると、以後、この虎はロバの代わりに薬王の荷物を運ぶハメになった。こう言ったわけで薬王廟には必ず虎の像が有るという。

ある高級ホテルの近くには、かつて北京唯一の犬廟があった。本来は二郎神廟だったのだが、ココの二郎神廟だけは哮天犬にペットの健康を祈願することが出来た。その昔は木や石膏で作られた小さな犬の形代を持参して祭壇に供えたらしい。現在は首が無くなった哮天犬の石像だけがこの廟を偲ぶ遺物となっている。

北海公園にある元代の鉄影壁は元は徳勝門東南にある鉄影壁胡同にあった。元々は元・大都の城門内にあった竜王廟の影壁だったらしい。伝承によると、この鉄影壁は北から吹き込む風と砂から都を守る魔除けとみなされていたらしい。明代になって首都城壁の北面の内側に当たるこの場所に移されて、砂嵐から首都を守り続けた。

九龍山にはかつて金朝九代の皇帝の陵墓があったが、明の皇帝が勃興する満洲族への祖先を冒涜する為に破壊した。後に清の皇帝は金の皇帝陵のウチ二つの修復を命じた。

契丹時代に創建された天寧寺の明初の住持は姚広孝(この場合は道衍で良いのでは…)。現在は高速道路のインターチェンジのループに敷地の一部を囲まれている。

明・英宗に仕えた太監・王振の菩提寺にして、王振の法号を寺の名前とした智化寺は、古楽で名を成している。王振がこの寺の僧侶に演奏させるために集めさせた古楽楽譜が多く収蔵され、宮廷音楽、仏教音楽、民俗音楽を融合させて京音楽として昇華させていった。この音楽は秘伝とされたため、各僧侶は自分の楽器のパートだけ学び、自分の弟子に伝えていったが、文革でその伝統は失われた。現在、智化寺は元の姿に服して新しい僧侶を受け入れ、古楽の伝統を後世に伝えようとしている。

北海公園の倣膳飯荘の裏の斜面に積まれている太湖石は、北宋滅亡時に金によって略奪されたモノとされ、かつては瓊華島の離宮・大寧宮の庭園の一部だったらしい。

 と言うワケで今回はパートのメモ。天寧寺には益々行きたくなり、普渡寺を探したくなり、興味なかった智化寺犬廟にも興味が出てきて困っちゃいましたぞ?それにしても、孫思邈は名前くらいは聞いたことあったのですが、かれが薬王として信仰を集めていたとは知りませんでした。

ツッコミ:4

飯香幻 2008/08/28 00:34
いいねいいねー。寺に廟。
でも、哮天犬の字がまちがってるよ(泣)。原文ママ?
宣和堂 2008/08/28 07:27
■飯香幻様
>哮天犬
 失礼致しました。パッと漢字出てこなかったのです。ご指摘感謝~。
 原文は二郎神の愛犬=神犬となってますデスだ。
ざお 2008/08/30 00:17
はじめまして、この本買おうかどうか迷っていたのですがこちらを読んで買うことに決めました。
北京や関する本を始めた本の紹介も参考にさせていただいてます。
余計なこととも思いましたがちょっと思い出したこと書いて行きます。
「金炉聖母鋳鐘娘廟」
鐘楼にこのエピソードが紹介されたボードがあったと記憶しています。
「智化寺」
2008年版の博物館通票には古楽の演奏実演は9時、10時、11時、午後3時と有ります。3年前に行った時にはあまり上手でないもったりとした演奏が20分ほどありました。
「文天祥廟」
現在ちんまりとした文天祥廟、庭の樹の枝振りまで気を付けていませんでした。それより近所に何故か占いや八卦を教えるという看板が多いのが目に付きました。
「晋陽飯荘」
改装前の四合院作りの時の方が雰囲気がありました。ビルになったら紀暁嵐の旧居として一部四合院作りを残しほんのちょっぴりの資料と銅像などを置いてます。でも今も昔も変わらずここの料理は美味しい!
宣和堂 2008/08/30 22:57
■ざお様
 初めまして!自分の記事が他の人の参考になるとは思ってもみなかったので、ちょっとドキドキです。
 この本の作者さんの記事はネット上にすでに公開しているモノも多いのですが、本だと記事で取り上げた場所は巻末の地図で全部何処にあるのか?が取り上げられていているので、自分は断然この本お薦めします。
 あと、北京の記事参考になります!有り難うございました!

>金炉聖母鋳鐘娘廟
 干将、莫耶の話みたいだなぁ…と思ったり。製鉄の話でこういう説話が多いんですね。

>智化寺
 志はともかく、観光スポットとしての復興だろうナァ…とは思っていたので、さもありなんですね。自分としてはあの王振の家廟が残っているという点に感心を覚えたんで演奏が下手でもへこたれない自信はあるんですが…やっぱり気の毒になりますね。

>文天祥廟
 多分、劉伯温かなんかとイメージが混同してるんでしょうね…。自分はこの場所行ったか行かないか…結構微妙です。行った記憶もあるんですがどうもはっきりしないんですよねぇ…。

>晋陽飯荘
 今度の旅行でここで食事したいんですが、やっぱり予約必要なんですかねぇ…。

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