Home > 中国史 > 故宮 > 普渡寺を地図上で探索

普渡寺を地図上で探索

 と言うコトで、阿南・ヴァージニア・史代/小池晴子『千年の都・北京 樹と石と水の物語』ランダムハウス講談社 で何よりも気になったのが、元の叡親王府普渡寺皇城内にあったみたいなんですが、何だか不安な記述があったり…。

 1939年の地図を頼りに、1985年に普渡寺を探したとき、その所在を尋ねると大抵の人はすぐにわかった。しかし、この一帯の胡同は格別わかりにくい迷路であった。やっとひとりの老人が高さ5メートぐらいの土手を指さしたが、びっしりと建て込んだ煉瓦小屋が境内の入り口をふさいでいた。ここは本来1457年建造の宮殿であり、かつ清の時代には順治帝の摂政であった満州のドルゴン太子の館でもあった。のちの1691年、康煕帝はこの建築群をラマ教寺院に改装し、有名な摩訶迦羅像がモンゴルから運ばれてここに祀られた。明らかに満州族は慎重にモンゴル族の象徴を満州族帝国内に加えたのであった。実際、寺院は皇城内に置かれた。(P.97)

 何だか見つかるのか不安にある記述ですねぇ…。こう言うときに役に立つ于敏中等編日下旧聞考》北京古籍出版社 を紐解いてみました。さてさて、どんな記事が出てきますかねぇ…。

普渡寺在裏新庫北。
〔臣等謹按〕普渡寺舊名瑪哈[口葛][口刺]廟、康煕三十三年建、乾隆四十年修、四十一年賜名曰普渡寺。大殿額曰慈濟殿、殿内額曰覺海慈航、皆皇上御書。寺内殿基高敞、去地丈餘。國初為叡親王府、相傳即南城舊宮、後改今寺。左為黒護法佛殿、内藏甲弓矢、皆叡親王舊物也。(P.634)

 うわ…短ぁ…。もっとこう…無いんですかねぇ…。ともあれ、康煕年間マハカラ廟摩訶迦羅廟、瑪哈[口葛][口刺]廟)と称されたこのラマ寺院は、乾隆年間の改修を経て普渡寺と名前を変えたようですね。とりあえず、気を取り直してと、『千年の都・北京 樹と石と水の物語』巻末の地図を見ると大雑把な位置は把握できます。とりあえず、ザッと検索してみましょう…。

古都北京デジタルマップ ディジタル・シルクロード

 それっぽい場所がここの地図ですね…。
乾隆京城全図 : vol.9

 ……何だかそれっぽい場所が破損して正確に判別できませんが、どうも、唖満達口嘎廟と書かれている箇所が普渡寺の模様…。この地図正確なのは有り難いんですが、やっぱり破損箇所が多いんですよねぇ…。とりあえず、手元にある民国十年北京の地図で大体の場所を比定…よし。気を取り直して、いつものGoogleマップで探してみました。


大きな地図で見る


 うーん…やっぱり場所自体は唖満達口嘎廟と同じ場所ですから、そう言う風にも呼ばれたんでしょうか…ここまで来ると自分の手には余りますが…。ともあれ、分かりやすい場所にはあるんですが、まわりが迷路の様というのは上から見ても何となく分かりますね…。近くには来ているけど辿り着けないという、十年前に白塔で味わった悪夢のような状況になりそうです。
 ネットで検索すると、現在は整備されて観光できるみたいですね。
普度寺 北京写真集

 ここで紹介されている伝説では、紫禁城普渡寺は地下通路で繋がっている…というコトのようですね。ドルゴン孝荘皇太后がこの地下道を使って逢瀬を重ねたと考えると…何だか行く気なくすんでやめときます。まあ、ホントに地下通路で繋がっているなら、皇城にほど近いこのお寺が荒廃するはずはないと思うんですが、脱出に使う事を考えて、敢えて荒廃させたとしたら凄いカムフラージュですね。
 ともあれ、今度行くときには絶対に訪れたい場所です。

ツッコミ:0

ツッコミなし

トラバ:0

この記事のトラバ
http://sengna.sakura.ne.jp/sb/sb.cgi/1334
普渡寺を地図上で探索 from 宣和堂遺事
トラバなし

Home > 中国史 > 故宮 > 普渡寺を地図上で探索

その他
  • RSS1.0
  • Atom0.3
  • SB2.19R

    管理室

    宣和堂遺事

    宣和堂電網頁

    フィードメーター - 宣和堂遺事

    track feed

    この日記のはてなブックマーク数

    Add to Google

    life_box

    回頭