孝荘文皇后と愉快な仲間達-モンゴル女性編

 と言うワケで、BSジャパンで始まった《山河戀·美人無淚(邦題:宮廷の泪 山河の恋)》をツラツラ見てます。このドラマ、清初皇后というか皇太后というか太皇太后として有名な孝荘文皇后の一代記ですね。孝荘文皇后モンゴルホルチン部ボルジギット氏出身なので、お粗末ですがモンゴルのシーンがあります。意外と新鮮ですね。こんなに頻繁に往来できるほど、盛京(ムクデン・ホトン)とホルチン部の放牧地が近いとは思えませんが、孝荘文皇后のドラマというとホンタイジに嫁いでからドルゴン初めとしたマンジュの人々と絡む印象があったんですが、確かに孝荘文皇后の叔母である孝端文皇后も姉である敏恵恭和元妃も当然モンゴルに居たときからの血縁ですからモンゴルから話を始めて因縁を描くのはありだなぁ…と感心した次第です。まぁ、そこは良いのですが、モンゴルの装束の考証は無茶苦茶ですし、折角八旗が出て来るのにホンタイジドルゴンも馬に乗らずに袁崇煥と対戦してるあたりは…そこまで予算無かったのかなぁと悲しくなりますが…。まぁ、ちゃんとドルゴン正白旗の鎧着てたりするので、その辺は大目に見ないとダメっすかねぇ…。
 と、ドラマ見てて気になったのでこのドラマに出て来る人達の記事をWikipediaとか百度の記事あたりを見ながらツラツラまとめてみようかと思います。
 尚、人名はカタカナ(マンジュ語ローマ字表記 漢語表記)という順番で表記していこうかと。

 

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歴代帝王廟

 と言うワケでどうも。長らく更新サボってました。何というコトは無く、ただTwitterで事足りてたので更新が滞っていただけなんですが…。
 ここのところ、ツラツラ『アジア遊学 契丹[遼]と10~12世紀の東部ユーラシア』勉誠社を読んでました。何せ島田正郎『契丹国―遊牧の民キタイの王朝』東方選書以来の纏まった一般流通する本なので。で、その中で「清人の見た契丹」と言う章で歴代帝王廟について触れているのに興味が引かれたので、今日はこのネタを書いてみようかと。気にはなってるモノの未だに行ったことが無い北京の観光スポットなんですよねぇ。

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マンジュ史書を整理してみた

 と言うワケで、こないだの記事で《満洲実録》を扱ってから悶々としていた宣和堂です。うーん。実はこの辺が良くわからんのですよね…。

《満洲実録》ヌルハチ首実検

 ご存じの通り、現在知られる満洲語の歴史書で一番有名なのは、内藤湖南日露戦争終結の頃に瀋陽故宮で発見した、通称《満文老檔》です。
 で、この際に見つかった他の書物が清朝歴代皇帝の実録である《清朝実録》 と、合戦絵図と言われる《満洲実録》です…。中身や成立過程については後回しにしましょう。
 あと同じく名前が挙がるのが《五体清文鑑》ですね。元々は満洲語の辞典で元々の題名も《Han i araha manju gisun i buleku bithe(漢語題名《清文鑑》)》。これが増補を繰り返し、漢語チベット語モンゴル語ウイグル語をも収録した拡張版が《五体清文鑑》と言うコトのようです。検索したらこれに関してはさっくり画像がありました→《五体清文鑑》早稲田スゲー!むしろ、《満洲実録》も置いてよ!とか思うモノの我慢。

 で、Twitterで満文老檔について発言した時に教えて頂いた本でサクサク検索したところ、疑問が氷解です。

満文老檔
 《満文老檔》と言う名称自体が、そもそも内藤湖南が名付けた便宜上の名前であって、表題は単に《Tongki fuka sindaha hergen i dangse(トンギ フカ シンダハ ヘルゲン イ ダンソ=有圏点檔案)》若しくは《Tongki fuka akū hergen i dangse(トンギ フカ アク ヘルゲン ダンソ=無圏点檔案)》。発見当初は表題だけ見ても何の書物かは分からなかったみたいですね。ただ、自分レベルではこの無圏点本有圏点本の違いはよく分かりません。調べて見ると、内容はともかく冊数と題材は同じようですね…。
 ものの本によると、ヌルハチホンタイジ時代の記録としてはもっとも詳細で重要な根本記事とされているようです。ただ、乾隆年間に編纂されたモノなので、清朝に都合の悪いことはさっくり削除されているわけです。漢化された皇帝という見方をされることの多い乾隆帝ですが、マンジュ視点に立った場合、民族主義を奨励した指導者と言う評価も出来るんですよね。

満洲実録
 《満洲実録》の売りは絵が載ってるコトなので比較的図版が引用されていますね。
 内容については、順治年間に作成された《清太祖武皇帝実録》とほぼ同じ…ここで注意したいのが、現行本の《太祖実録》が乾隆年間の重修本である点ですね。後の時代には忌避しているコトでも採録しているようです。でも、満洲音の漢字表記は乾隆年間の方式に改められているようです。また、絵画については《太祖実録戦図(《清太祖実録戦跡図》?)》の引き写しみたいですね。乾隆年間にいいとこ取りして編纂されたモノの様です。やはり絵画については元絵の《太祖実録戦図》を引いた方が良いみたいですね…。まあ、見当たらないのですが…。どうやら、盛京崇謨閣にはマンジュ文本漢文本との二組が収蔵されてたみたいです。…と、参考図書には書いてますが、書影を見るに戦図に関しては満漢合壁の模様ですね。

清朝実録
 現在中華書局から出版されている《清実録》は巻頭に《満洲実録》を置き、以後《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》、《徳宗実録》、《宣統政紀》が収録されているようです。これは全て漢文の模様。
 この内、盛京・崇謨閣にあったのは、マンジュ文漢文の《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》の模様…です。で、内藤湖南盛京を調査して《満文老檔》を発見したのは、明治38(光緒31、1905)年ですから、光緒5(1879)年成立の《穆宗実録》までを発見したと考えて良いようですね。《徳宗実録》は中華民国10(1921)年成立ですし、《宣統政紀》に至っては成立年代も良くわからんみたいなので、発見されるわけがないわけです。一応、満洲国務院が《大清歴朝実録》として、これらの《実録》を1937年に刊行した際には、《徳宗実録》と併せて《宣統政紀》が収録されているので、その頃には成立はしていたと考えて良いんでしょうけど…。
 北京皇城内皇史宬にはマンジュ文モンゴル文漢文実録が保管されていたようですが、やはりそれも《穆宗実録》まで。《徳宗実録》は漢文のみ現存しているようですが、マンジュ文はなかったのかも知れませんね…。自分が漠然と、マンジュ・グルンと言うか、清朝がまるきり漢化されたのは光緒年間じゃないかと思うのは、こういう所なんですが、まあ、今回は関係ないので触れません。

旧満州檔》《満文原檔
 で、乾隆年間に編纂された《満文老檔》の元になった檔案が、1931年に北京内閣大庫から《満文老檔》と一緒に発見されたようです。この檔案のことを、日本では《旧満州檔》と称していたわけです。で、あまり研究がなされないうちに、盧溝橋事件が勃発して日本軍の侵攻が始まり、かの有名な文物南遷の際に、この檔案も北京から逃避行に出たわけですね。最終的に台北故宮博物院に収蔵され、《満文原档》という題名で影印出版されたみたいです。この際に《満文老檔》には含まれていない、天聰9年部分の檔案、所謂《天聰九年檔》も収録されたようです。

 とまあ、自分が疑問だった史書類はこれであらかた疑問は氷解という感じデス。この辺の資料はwikiや百度でも記事が足りないので、大変スッキリしました。ちなみに参考資料は以下の通り。

神田信夫・山根幸夫 編『中国史籍解題辞典』燎原書店
神田信夫『満学五十年』刀水書房
清朝とは何か』藤原書店

 

※ご指摘によりマンジュ文献のローマ字変更しました(6/26)

国際交流特別展「北宋汝窯青磁 – 考古発掘成果展」

 と言うワケで、帰省ついでに大阪市立東洋陶磁美術館で行われている国際交流特別展「北宋汝窯青磁 – 考古発掘成果展」を見に行ってきました。他にも色々展示会があったのに、このチョイスというのもまた…。

 そもそも、大阪市立東洋陶磁美術館には水仙盆と称される青磁楕円盆が収蔵されているわけですから、こういう展示なら確実に出てるだろうから…と足を運んだわけですが、これが大当たりでした。汝窯の印象がかなり変わりました。
 最近は汝官窯とは言わずに、汝窯って言うんですね。官用品も献上していたけど、民間にも供出していたよ?と言う程度の意味合いだと思います。
 長年汝窯はその窯址が不明とされて、その完成度の高い製法とともに謎の多い磁器とされてきたわけですが、2000年の発掘で出土した天青釉の陶片が伝世品の汝窯磁器と基本的に同じ成分と確認され、河南省宝豊県清涼寺窯址がまさしく汝窯そのものだと断定されたみたいです。この辺知らなかっただけでも自分かなりへっぽこですねぇ…。
 更に、近隣の張公巷窯跡でも青磁陶片が出土していて、こちらはいくらか時代が下って金代元代と見られているようですが、いずれにしても天青釉を使っていたみたいですね。今回の展示は清涼寺窯址張公巷窯址から出土した天青釉青磁を中心とした発掘品がメインです。
 
 №01:匣鉢、№02:支焼器座、№03:墊圏、№04:墊餅、№16:色味片、№18:内模、№20:外模などは流石は発掘物というか、焼成過程で使われる器具ですね。発掘品ならではですからワクワクします。特に色味片汝窯独自の器具らしく、温度によって釉薬の色合いが異なるために、色見本を置いて焼き具合を確認したようです。なるほど。

 伝世品の汝窯青磁は基本的に器の形は単純で、刻花磁器に彫刻を施してから釉薬を塗って焼き上げる製法)や印花磁器にスタンプのような型を押して模様をつけて釉薬を塗って焼き上げる製法)はないので、のっぺりした形が汝窯のスタンダードとされていたわけですが、出土品はこれまでの汝窯像を大きく覆すモノでした。
 №32:青磁印花花蓮弁文碗や№51:青磁印花花蓮弁文器蓋には大きく二重の蓮文を描かれ、№46:青磁刻花龍文瓶や№:63:青磁刻花龍文盆片、№73:青磁印花龍波濤文鉢、№87:青磁印花龍文盒では龍を、№75:青磁印花龍蓮弁文鉢片ではその両方が描かれています。これだけでも今までの汝窯青磁の印象と大きく異なります。
 更に№57:青磁透彫香炉、№58:青磁鴛鴦形香炉蓋や№59:青磁龍刑香炉蓋片、№60:青磁獅子形香炉蓋片等に至っては立体物で、多くのモチーフは動物です。これも今までの汝窯青磁にはないイメージです。
 それにしても、これだけ天青釉青磁を見ても、どれ一つ同じ色合いの青がないんですよね…。黄色っぽいモノから緑色っぽいモノ。乳白色で貫入が見られないモノから、ガラスのような質感で貫入が見事なモノ、鱗のような貫入が入ったモノなど様々です。
 今まで、台北北京で見た伝世品の汝窯青磁がそれぞれ一つ一つ印象が違いすぎるのが、自分の中で疑問でした。一体天青釉というのはどの色合いが正解なのか?もしくはこれだけ釉色が違うのならフェイクが混ざっているのだろうか?何度見ても唸るばっかりで分からなかったわけですが、今回の展示で疑問も氷解しました。天青釉は本当に偶然の産物なので、色合いが異なるのは当然なんですね。本当に一つとして同じ色合いの器がありませんでした。同じ場所からの出土品ですからこれくらいハッキリした証明はありません。
 ただ、天青釉の色合いの正解は分かりません。どのような色合いが高い評価を得たんでしょうか…。ただ、自分はこの展示の中では№39:青磁洗が一番好きな青でした。貫入もきれいに入っていますし、見事なスカイブルーです。残念ながら土がくっついているために失敗作とされたようですが、おかげで発掘されたのだと思うと、実に眼福です。あと、№47:青磁瓶の胴体部分も見事な青でした。肩のあたりがエメラルドグリーンになっているのは好みによるんでしょうけど、自分は好きです。日本では砧形瓶と呼ばれる形の瓶ですが、この形自体は西アジアガラス瓶にルーツがあるようです。特にこの瓶の釉薬はガラスっぽいんですが、それも西アジアガラス瓶と関係があるようです。

 で、いよいよ最後には特別出品:青磁楕円盆です。所謂水仙盆ですね。なんでも清代では”猫食盆猫のえさ入れ)”とか”猧食盆子犬のえさ入れ)”と呼ばれたようですから、そういう用途で使われたようです。北宋当時の使用用途は不明ですが、漆器を模したものでおそらくは宮廷什器として使用されたと言うコトです。花を活ける盆ではなかったようですね。

 更に、参考として大阪市立東洋陶磁美術館収蔵の高麗青磁も展示されていました。今回の発掘品から高麗青磁は普段考えられていたよりも、より汝窯の影響を受けていたと言うコトが分かりますね。発掘品の本来の形を想像する上でこれほど有益な比較もないですね。不勉強で高麗青磁は象嵌ものという印象が強かったんですけど、そればっかじゃないんですね…。勉強になりました。

 今回の展示はとにかくキャプションが丁寧で、感心し通しでした。石膏を使って復元している磁器もあるのですが、中には青磁に色を似せた形で復元した磁器もあったのですが、キャプションで一々その旨断っていたのも好感が持てます。特に№46:青磁刻花龍文瓶などは本来の釉色を見極めづらく、唸っていたらキャプションに説明があって納得しました。このキャプションが入った上に、展示している図版や表などを効果的に取り込んだ図録は、多分、今まで見た展示の図録の中でも頭抜けて良い出来だと思います。ほんと、物販コーナーでもっとプッシュして売るべきです。この展示を見て感銘を受けた人なら買って損はありません。デザインも良いですし、内容も充実、図版もきれいで文句がつけられません!特に歴代の史書から汝窯青磁についての記述を抜き出した汝窯関連主要歴史史料は圧巻です。ほんの一部だけ展示されてましたが、これだけ揃えられると圧巻です。乾隆帝の見識が評価されていたのが意外でしたが…。
 この図版はもっと目立つところに置いて欲しかったです。チケット売り場に目立たないように置いてましたよ…。

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