地上の天宮 北京故宮博物院展

 と言うワケで行ってから一月も経ってしまった上に、もう終わった展示の記事を今頃書いてみたりするのです。
 今回は4月の下旬に東京富士美術館で行われていた地上の天宮 北京故宮博物院展です。正直なところ、東博での特別展 北京故宮博物院200選記事1と比べるとどうしても見劣りするわけですが、まぁ、アレも政治的な何かでしょうから、こちらも思ったよりは面白い文物は来てたんですよ?と言うコトで、チョコチョコ見ていきましょう。
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金銭鼠尾

 Twitterで辮髪好きな方と絡むことも多くなったんですが、未知の大地に辮髪の花は開くモンなんですね。日本にもこんなに辮髪を愛する人たちがいるなんて胸が熱くなりすぎます。時代は変わったよ…ボクは一人じゃないんだ…と、独りごちるコトしばしです。
 で、その中で、ラーメンマン辮髪について話が出たりしたわけですが、自分もネットか何かでラーメンマン辮髪も史実として存在したという記事を見たことがあります。しかも、ラーメンマン辮髪自体は正当なマンジュ風俗で、映画等にでてる辮髪は清末の大衆的な髪型であって、どちらも正解という感じでした。そんなこんなで、ラーメンマン辮髪の正式な言い方の方はすっかり失念していたんですが、ご指摘いただいたとおり、金銭鼠尾という名称みたいですね。語源は、銅銭程度の髪を残して、の尻尾のように結んで垂らす…というところみたいです。
 ちなみに、清朝において薙髪令で定められたあの髪型のことを日本では古くから辮髪と呼んでいたわけですが、当地ではそんな呼び方をしてはいないみたいなんですよね…。ちなみに、辮髪という用例自体は検索すれば古文でいくらでも引っかかるので和製漢語というわけではないです。ただ、清朝で通行したあの髪型をそう称すことは日本だけみたいですが。ではなんと呼ぶかというと、大体は大辮子とか単に辮子と言う言い方するみたいなです。これはPigtailと同じく女の子のお下げ髪のことも指すわけで、検索するとお下げ髪の女子の方がヒットしてノイズありまくりでナカナカ思ったような結果が得られませんでした(何かエロい記事とかも多いので特に)。で、金銭鼠尾というキーワードを入れてみると、ザクザク辮髪記事辮髪画像が得られるわけです。やった~!

 で、検索結果出てきたのがこの文章です…→清代辫子的演变:从鼠尾、猪尾到牛尾

 どうも、この新聞記事?がそこら中にコピペされて検索に引っかかりまくってるようですね。iこの記事によると、清朝初期、入関した頃は金銭鼠尾といわれる、所謂ラーメンマン辮髪にしていたようですね。髯をどこまで伸ばして良いのか?といった規定まであったと、この記事では書いてますね。このあたりは自分も初耳です。
 と言うワケで以下は訳ではなく大意、意訳デス…念のため。

辮髪今昔

1-後金時期:ダイチン・グルンは降伏した漢族に帰順の意思表示としてその辮髪を強要した。結果的にダイチン・グルン領内の漢人男性の大部分は頭髪を剃り上げることになった。その際には頭のうしろの毛を小指ほど残して結んで垂らしていた。髯も上唇にはやすだけであった。これを金銭鼠尾式といった。ii

2-入関時期:明の旧領を接収したダイチン・グルンは領土内の全ての漢人に辮髪を強要する。辮髪を嫌って反乱を起こす漢人は多く犠牲となった。この時期から徐々に髪を残す部位は頭の後から頭頂に移動したが、これも金銭鼠尾式と称しても良いだろう。iii

3-清代中期:髪を生やす部位は変わらなかったが、髪を留めておく面積が増えてた。かつては金銭一枚分の面積だけだったのが、この頃には金銭四~五枚分=こぶし一個分の面積を残すようになっていた。髯は上唇だけでなく、あごまで伸ばしても良くなった。iv

4-清代後期:嘉慶以後、次第に頭頂を中心とした髪の周縁を部分を剃るだけになっており、髪は頭の後で三つ編みにして垂らしていた。この髪型は辮子とか、髪辮と呼ばれた。v

5-清代末期:清末から清の滅亡まで、開明的な知識人や学生は民主化や革命運動の中で、辮髪を切り落とすことを重要なコトだと捉えていた。清全土で身分の上下を問わず辮髪を切り落とす現象はどこでも見られた。

 で、あと辮髪変遷の傾向として上げられているのが以下の三点です。

1-頭髪を残す範囲が段々大きくなる傾向がある。初期の金銭鼠尾式から中期の髪をこぶし大残すモノでは面積が大きくなっているし、後期は殆どの髪を残すまでになっている。このことを比喩的に表現すると、はじめは鼠の尻尾で、次第に豚の尻尾になり、最後には牛の尻尾になったと言える。また、頭髪は時代を経ると面積本数ともに増える傾向にあり、辮髪は編み目が大きく荒くなる傾向がある。

2-清代通しての辮髪の変遷を整理すると、為政者の意志を反映したモノではなく、また、リーダーシップを取った者も不在で、ごく自然発生した変遷であったこと。漢満の別もなく、軍民の別もなく、官吏・商人・農民・市民・皇帝の別もなく、皆一様に変化している。

3-辮髪の変化の速度は一様ではないこと。順治元(1644)年の清の入関から、嘉慶4(1799)年までの間は155年あり、清朝267年の歴史の大半を占める。髪を留めておく面積は増加の傾向にあるものの、その速度は実にゆっくりとしたものであった。嘉慶年間に入っても、最も多い人間でも髪は全体の三分の一程度であった。しかし、嘉慶以後髪を留めておく速度は加速し、百年もしないうちに頭髪の大部分を残し、全体の三分の二まで残すようにまでなった。髪型の変遷のスピードは清朝の統治能力の強弱と丁度反比例しており、統治能力が高い時は変遷は緩やかだが、統治能力が落ちると変遷は加速している。

 最終的にこの文章では、テレビドラマの辮髪は皆、清代後期辮髪を参考にしていて、考証的には間違っていると指摘してますね。ドルゴンなら後頭部型の金銭鼠尾式のハズですし、乾隆帝なら中期のこぶし大辮髪のハズですからねぇ。
 とはいえ、ちょっと図版等を見るとこの記事鵜呑みには出来ないなぁ…とも思うわけで…その辺はまた機会があれば。

  1. 百度の金銭鼠尾の項はこれを思いっきりコピペしてたからか?現在閲覧出来なかったり…Googleのキャッシュにはあったので内容は確認済み。 [戻る]
  2. 図で言うところの前期の絵の後頭部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  3. 図で言うところの前期の絵の頭頂部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  4. 図で言うところの中期の絵? [戻る]
  5. 図で言うところの後期の絵? [戻る]

NHKドラマ 蒼穹の昴 第八回 龍玉の歌

 最初に…いや、皆さん分かっておいでだと思いますが、龍玉なんて本当はありません。あんなマジックアイテムというか天命の具現化したダイアモンド。《三國演義》に出てくる伝国の玉爾みたいなアイテムですね。
 で、肝腎の龍玉の歌ですが、原作とかなり違ってますね。ドラマ版はこんな感じでした。

春去春来
雲聚雲散
龍隠龍飛
玉兮百兮莫能測
得兮失兮莫奈何

邦訳
春が来ては 去り
雲が集まり 散りゆく
龍が来て また龍が去る
玉か石かは定かならず
得たか失ったかも分からず

 縦読みすると、春雲龍玉得となって実に中国的な予言詩っぽくなりますね。
 ちなみに原作の歌はこんな感じ。

万歳爺 万歳爺
哀れな奴才を お許し下さい
広大無辺のみめぐみは
天に轟き 地にあまねき(『蒼穹の昴 2』講談社文庫 P.280)

万歳爺 万歳爺
奴才は 口がさけても申しませぬ
乾隆様のお匿しになった
あの龍玉のありかなど(『蒼穹の昴 2』講談社文庫 P.280~281)

 流石にこの辺はドラマ版の方がそれっぽいですね。

 あと、ドラマでは安徳海の死に際して春児宝貝を上げちゃうわけですが、原作では陳九老爺こと陳蓮元に上げちゃってますね。この辺、慈嬉太后の寵愛を一身に受けた安徳海なら、たんまりお金を持ってるので宝貝も買い戻してるハズですから、このあたり、うだつの上がらないぐうたら師匠・陳九老爺春児が惜しげもなく自分の宝貝を与えて後宮太監の人気を一気に得る!と言う場面には繋がらないですねぇ…。さして親しかったとも言えない人にダーンと上げちゃうあたりが春児なんですけどねぇ…。
 さらに、刀子匠が字幕では畢五になってましたけど、セリフでは小刀劉って言ってますね…。どちらも原作に出てきますけど、畢五も原作ほど出て来ないし…蘭琴も怪しいほどにきれいじゃないし、春児の義兄弟でもないですし…。ここは小刀劉でも良かったかもですね。原作だとあんな恰幅良くなかったですし、良い暮らしもしてなかったですし…。

 ちなみに春児の棒叩きの原因になったのが、慈嬉太后の料理。原作でも春児の料理の師匠・周麻子造蘇肉李蓮英に羽虫入れられたために、足を折られて後宮追い出されたりしたわけですが、ホントにこんな事あったのかなぁ…と思っていたらこんな記事も…。

 西太后専用の西膳房の責任者は、謝太監が取り仕切る。房には太監の弟、謝二をはじめ今では倣膳飯荘に残る「四大抓(北京編一四三頁参照)」料理を作ったとして知られる有名な厨師が揃っていた。なかでも謝二は西太后の大好物の、焼麦を作るのが得意で、皮は紙のごとく薄く餡もとても旨く作るので大のお気に入りとなっていた。
 ある日、西太后が東陵に出かけたときのこと。この時西膳房から房師が随行したのだが、謝二は所用を理由に随行しなかった。西太后はいつものように焼麦を所望した。一口食べるといつもの味と香りとは違うことに気がついた。そのことを問いただすと、謝二ではなく劉大という者が作ったと分かった。それを聞いた西太后は怒るまいことか。責任は劉大ではなく謝二にありと、至急に謝二を呼び出し、大板による四十たたきの刑に処したのである。大板で十もたたかれると背の皮が剥けた、といわれるか謝二は焼麦一つで死ぬ目にあわされたのだ。[1 横田文代良『中国の食文化研究〈天津編〉』辻学園調理・製菓専門学校 P.116]

 慈嬉太后食通だという伝説とともに、料理の失敗で処刑された!という伝説は割と多いですね。ドラマとかだと割とメジャーなネタかと。あと、原作に出てきた菜包は多分、愛新覚羅浩さんの『食在宮廷』の記事からだとおもわれ…。ただ、菜包の故事の主人公がドルゴンだったりホンタイジだったりしてあやふやな話だったと思いますが…。あんまり慈嬉太后菜包を繋げる記事は見たことないですね。

NHKドラマ 蒼穹の昴 第六回 皇帝のお気に入り

 と言うコトで、今回は梁文秀活躍の回ですね。彼が慈嬉太后に《治平宝鑑》を講釈するのが見所ですね。話に出て来る孝荘太后太宗ホンタイジ皇后にして順治帝母后で同時に康煕帝祖母に当たる人ですね。…まあ、同時にドルゴンと恋仲にあったとか言われる人でもあるわけですが…。聡明だったとか、美人であったとか言われる人なんですが…。

《清史図典1》P.194

《清史図典1》P.194

 画像を見ると…なんだか、微妙…。頭は良いんでしょうけどね。

《清史図典2》P.175

《清史図典2》P.175

 一応、まだまとも?だと思われる画像をチョイス。晩年はガキ使いのおばちゃん浅見千代子)似の老女になっていくわけです…。あわわ…。
 で、原作に出てきたのかよく憶えてませんが、《治平宝鑑》と言う書物、どうやらいい加減にチョイスしたわけではなく、本当にある書物みたいですね。

  • 呉樵子 註訳 《治平宝鑑
  •  《治平宝鑑》は慈嬉太后勅撰の書物みたいですね。漢代から明代までの政治に参与した女性に関する歴史書…だったみたいですね。と言うワケで、慈嬉太后に《治平宝鑑》の講釈するというのも…なんだか釈迦に説法という感じもしますね。おまけに明末で記述が終わっているようなので、この本に孝荘皇后が出てくるかはちょっと微妙ですし…。

     ちなみに字幕では文皇后となっていましたが、《清史稿》などでは文皇后ですね。簡体字変換するときに間違えたんでしょうが、国営放送がカッコワルイ。

    普渡寺=睿親王府

     と言うワケで、2008年11月に北京に行った際に観光した場所の第二段。このときの旅のテーマである普度寺睿親王府です。

    結構見かけない様式の建築

    結構見かけない様式の建築


     で、この普度寺、元々明代には皇城東苑とか小南城とか言われておりました。皇太子が居住する重華宮という宮殿だったようですね。有名なところでは土木の変後、北京に送還された正統帝がこの宮苑の敷地内にあった崇質宮景泰帝に幽閉されたとか言われてます。まあ、天順帝になってまた皇城に戻るわけですけど。

    あんまりかっこよくないドルゴン像

    あんまりかっこよくないドルゴン像

     で、清初には睿親王ドルゴン重華宮を府邸を定めました。大体、世襲鉄帽子王家でも北京内城府邸を置くことはあっても、ドルゴンのように皇城内に府邸を置くことはその後もありませんでした。北京に入場した際に一時的に武英殿で玉座についたというのも肯けますね。ドルゴンが執政した当時は夜になっても車馬が絶えることが無かったと言います。

    民家一つ分高い基壇の上に建ってます

    民家一つ分高い基壇の上に建ってます

     で、どの文献を見ても「睿親王府は土台が高く、宮城が見渡せた」という類のことが書いてあるんですが、今ひとつピンと来なかった訳です。ちなみに、この高台皇城と秘密の通路でつながっている…という類の伝説もあるみたいですね。その通路を通ってドルゴン紫禁城睿親王府を行き来したとか言うコトになってるみたいです。

    車と比較すると基壇が相当高い

    車と比較すると基壇が相当高い

     ご存じの通り、ドルゴンは齢三十九という若さで狩猟中に死去した後、順治帝により大逆の罪に問われて睿親王家王位は剥奪されて、皇籍からも抹消されました。

    山門の中が睿親王府と普度寺関連の展示室です

    山門の中が睿親王府と普度寺関連の展示室です

     この時、府第も没収されたのですが、一時は皇帝と同様に義宗という廟号までドルゴンは追号されていますから、その後王府は再利用されることは無く、次第に荒れてゆきました。
     で、順治帝の短い治世が過ぎて康煕帝の御代になると、元々冤罪であったドルゴンの名誉回復が行われ、次いで睿親王府跡もモンゴルから招来したマカカラ仏大黒天を祀る嗎噶喇廟に改装されました。

    マカカラ仏の残骸らしきモノの展示

    マカカラ仏の残骸らしきモノの展示

     更に乾隆年間に修築されて嗎噶喇廟普渡寺もしくは普度寺と改称されます。ちなみに《乾隆京城全図1では啞滿逹■嘎廟2となっています。

    使い勝手良すぎ今の学生恵まれすぎ

    使い勝手良すぎ今の学生恵まれすぎ

     おそらく、普度寺に改称される前の地図なんでしょうけど、嗎噶喇廟と音通…と言いたいけど言えないような字面ですね…。それにしても、ディジタル・シルクロードが公開している《乾隆京城全図》のGoogle Earth版古都北京デジタルマップの使いやすさは異常です。

    ちなみにドルゴンは鑲白旗の旗王です

    ちなみにドルゴンは鑲白旗の旗王です

     《日下旧聞考3によると、乾隆年間普度寺にはマカカラ像とともにドルゴンの遺品(武具など)が安置されていたようです。その後、国家の庇護の元、清末まで普度寺は広大な境内を所有しつつ、《天咫遇聞4によると、マカカラ像らしき仏像とドルゴンの遺品とともにかれの護衛兵というかバートルの像も残っていたという記述があります。

    おされシティー

    おされシティー

     しかし、さしもの普度寺辛亥革命後は廃れていきます。中共成立後にはついに南池子小学校の校舎として使用されたようです。文革の被害とも無縁ではなかったはずです。少なくとも1980年代には辿り着くのも難しい様なごちゃごちゃとした胡同の中にあったようで、中の建築はお世辞にも良い保存状態ではなかったようです5

    北京税務博物館(月曜休館)

    北京税務博物館(月曜休館)

     その後、1990年代の改革開放とともに徐々に整備され、2007年05月16日に北京税務博物館として一般公開されるに至ったわけです6。自分が行った時には周りも景観区としてかなり整備されいて、迷うかと思ってビクビクしながら探したら意外にも一発で発見できました。…もっとも、定休日で北京税務博物館として解放されている本殿には入れませんでしたが…。

    看板ドーン!

    看板ドーン!

     正直、叡親王ドルゴンに思い入れが無い人にお勧めできるほどすばらしい観光地ではないのですが、ドルゴンと聞いてピンとくる方は是非訪問してはいかがでしょうか?タダですし…。

    本殿の基壇自体も高い

    本殿の基壇自体も高い

    1. ディジタル・シルクロード – 文化遺産のデジタルアーカイブ
    2. ディジタル・シルクロード > 古都北京デジタルマップ > 地名検索
    3. 于敏中等編日下旧聞考》北京古籍出版 巻四十 皇城
    4. 震鈞《天咫遇聞》北京古籍出版 巻一 皇城
    5. 阿南・ヴァージニア・史代/小池晴子『千年の都北京 樹と石と水の物語』ランダムハウス講談社 P.97 「〈大黒〉を祀る石の基壇」
    6. 北京税务博物馆向社会免费开放
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