孝荘文皇后と愉快な仲間達-ダイチン諸帝編

 と言うワケで引き続きBSジャパンで放送中の《山河戀·美人無淚(邦題:宮廷の泪 山河の恋)に出て来る人物についてツラツラ書いてきます。今回はアマガ・アイシン・グルン(後金国)からダイチン・グルン(大清国)の帝王で孝荘文皇后と関わりのある人をズラッと並べようかと…。

 

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孝荘文皇后と愉快な仲間達-モンゴル女性編

 と言うワケで、BSジャパンで始まった《山河戀·美人無淚(邦題:宮廷の泪 山河の恋)》をツラツラ見てます。このドラマ、清初皇后というか皇太后というか太皇太后として有名な孝荘文皇后の一代記ですね。孝荘文皇后モンゴルホルチン部ボルジギット氏出身なので、お粗末ですがモンゴルのシーンがあります。意外と新鮮ですね。こんなに頻繁に往来できるほど、盛京(ムクデン・ホトン)とホルチン部の放牧地が近いとは思えませんが、孝荘文皇后のドラマというとホンタイジに嫁いでからドルゴン初めとしたマンジュの人々と絡む印象があったんですが、確かに孝荘文皇后の叔母である孝端文皇后も姉である敏恵恭和元妃も当然モンゴルに居たときからの血縁ですからモンゴルから話を始めて因縁を描くのはありだなぁ…と感心した次第です。まぁ、そこは良いのですが、モンゴルの装束の考証は無茶苦茶ですし、折角八旗が出て来るのにホンタイジドルゴンも馬に乗らずに袁崇煥と対戦してるあたりは…そこまで予算無かったのかなぁと悲しくなりますが…。まぁ、ちゃんとドルゴン正白旗の鎧着てたりするので、その辺は大目に見ないとダメっすかねぇ…。
 と、ドラマ見てて気になったのでこのドラマに出て来る人達の記事をWikipediaとか百度の記事あたりを見ながらツラツラまとめてみようかと思います。
 尚、人名はカタカナ(マンジュ語ローマ字表記 漢語表記)という順番で表記していこうかと。

 

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地上の天宮 北京故宮博物院展

 と言うワケで行ってから一月も経ってしまった上に、もう終わった展示の記事を今頃書いてみたりするのです。
 今回は4月の下旬に東京富士美術館で行われていた地上の天宮 北京故宮博物院展です。正直なところ、東博での特別展 北京故宮博物院200選記事1と比べるとどうしても見劣りするわけですが、まぁ、アレも政治的な何かでしょうから、こちらも思ったよりは面白い文物は来てたんですよ?と言うコトで、チョコチョコ見ていきましょう。
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金銭鼠尾

 Twitterで辮髪好きな方と絡むことも多くなったんですが、未知の大地に辮髪の花は開くモンなんですね。日本にもこんなに辮髪を愛する人たちがいるなんて胸が熱くなりすぎます。時代は変わったよ…ボクは一人じゃないんだ…と、独りごちるコトしばしです。
 で、その中で、ラーメンマン辮髪について話が出たりしたわけですが、自分もネットか何かでラーメンマン辮髪も史実として存在したという記事を見たことがあります。しかも、ラーメンマン辮髪自体は正当なマンジュ風俗で、映画等にでてる辮髪は清末の大衆的な髪型であって、どちらも正解という感じでした。そんなこんなで、ラーメンマン辮髪の正式な言い方の方はすっかり失念していたんですが、ご指摘いただいたとおり、金銭鼠尾という名称みたいですね。語源は、銅銭程度の髪を残して、の尻尾のように結んで垂らす…というところみたいです。
 ちなみに、清朝において薙髪令で定められたあの髪型のことを日本では古くから辮髪と呼んでいたわけですが、当地ではそんな呼び方をしてはいないみたいなんですよね…。ちなみに、辮髪という用例自体は検索すれば古文でいくらでも引っかかるので和製漢語というわけではないです。ただ、清朝で通行したあの髪型をそう称すことは日本だけみたいですが。ではなんと呼ぶかというと、大体は大辮子とか単に辮子と言う言い方するみたいなです。これはPigtailと同じく女の子のお下げ髪のことも指すわけで、検索するとお下げ髪の女子の方がヒットしてノイズありまくりでナカナカ思ったような結果が得られませんでした(何かエロい記事とかも多いので特に)。で、金銭鼠尾というキーワードを入れてみると、ザクザク辮髪記事辮髪画像が得られるわけです。やった~!

 で、検索結果出てきたのがこの文章です…→清代辫子的演变:从鼠尾、猪尾到牛尾

 どうも、この新聞記事?がそこら中にコピペされて検索に引っかかりまくってるようですね。iこの記事によると、清朝初期、入関した頃は金銭鼠尾といわれる、所謂ラーメンマン辮髪にしていたようですね。髯をどこまで伸ばして良いのか?といった規定まであったと、この記事では書いてますね。このあたりは自分も初耳です。
 と言うワケで以下は訳ではなく大意、意訳デス…念のため。

辮髪今昔

1-後金時期:ダイチン・グルンは降伏した漢族に帰順の意思表示としてその辮髪を強要した。結果的にダイチン・グルン領内の漢人男性の大部分は頭髪を剃り上げることになった。その際には頭のうしろの毛を小指ほど残して結んで垂らしていた。髯も上唇にはやすだけであった。これを金銭鼠尾式といった。ii

2-入関時期:明の旧領を接収したダイチン・グルンは領土内の全ての漢人に辮髪を強要する。辮髪を嫌って反乱を起こす漢人は多く犠牲となった。この時期から徐々に髪を残す部位は頭の後から頭頂に移動したが、これも金銭鼠尾式と称しても良いだろう。iii

3-清代中期:髪を生やす部位は変わらなかったが、髪を留めておく面積が増えてた。かつては金銭一枚分の面積だけだったのが、この頃には金銭四~五枚分=こぶし一個分の面積を残すようになっていた。髯は上唇だけでなく、あごまで伸ばしても良くなった。iv

4-清代後期:嘉慶以後、次第に頭頂を中心とした髪の周縁を部分を剃るだけになっており、髪は頭の後で三つ編みにして垂らしていた。この髪型は辮子とか、髪辮と呼ばれた。v

5-清代末期:清末から清の滅亡まで、開明的な知識人や学生は民主化や革命運動の中で、辮髪を切り落とすことを重要なコトだと捉えていた。清全土で身分の上下を問わず辮髪を切り落とす現象はどこでも見られた。

 で、あと辮髪変遷の傾向として上げられているのが以下の三点です。

1-頭髪を残す範囲が段々大きくなる傾向がある。初期の金銭鼠尾式から中期の髪をこぶし大残すモノでは面積が大きくなっているし、後期は殆どの髪を残すまでになっている。このことを比喩的に表現すると、はじめは鼠の尻尾で、次第に豚の尻尾になり、最後には牛の尻尾になったと言える。また、頭髪は時代を経ると面積本数ともに増える傾向にあり、辮髪は編み目が大きく荒くなる傾向がある。

2-清代通しての辮髪の変遷を整理すると、為政者の意志を反映したモノではなく、また、リーダーシップを取った者も不在で、ごく自然発生した変遷であったこと。漢満の別もなく、軍民の別もなく、官吏・商人・農民・市民・皇帝の別もなく、皆一様に変化している。

3-辮髪の変化の速度は一様ではないこと。順治元(1644)年の清の入関から、嘉慶4(1799)年までの間は155年あり、清朝267年の歴史の大半を占める。髪を留めておく面積は増加の傾向にあるものの、その速度は実にゆっくりとしたものであった。嘉慶年間に入っても、最も多い人間でも髪は全体の三分の一程度であった。しかし、嘉慶以後髪を留めておく速度は加速し、百年もしないうちに頭髪の大部分を残し、全体の三分の二まで残すようにまでなった。髪型の変遷のスピードは清朝の統治能力の強弱と丁度反比例しており、統治能力が高い時は変遷は緩やかだが、統治能力が落ちると変遷は加速している。

 最終的にこの文章では、テレビドラマの辮髪は皆、清代後期辮髪を参考にしていて、考証的には間違っていると指摘してますね。ドルゴンなら後頭部型の金銭鼠尾式のハズですし、乾隆帝なら中期のこぶし大辮髪のハズですからねぇ。
 とはいえ、ちょっと図版等を見るとこの記事鵜呑みには出来ないなぁ…とも思うわけで…その辺はまた機会があれば。

  1. 百度の金銭鼠尾の項はこれを思いっきりコピペしてたからか?現在閲覧出来なかったり…Googleのキャッシュにはあったので内容は確認済み。 [戻る]
  2. 図で言うところの前期の絵の後頭部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  3. 図で言うところの前期の絵の頭頂部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  4. 図で言うところの中期の絵? [戻る]
  5. 図で言うところの後期の絵? [戻る]

NHKドラマ 蒼穹の昴 第八回 龍玉の歌

 最初に…いや、皆さん分かっておいでだと思いますが、龍玉なんて本当はありません。あんなマジックアイテムというか天命の具現化したダイアモンド。《三國演義》に出てくる伝国の玉爾みたいなアイテムですね。
 で、肝腎の龍玉の歌ですが、原作とかなり違ってますね。ドラマ版はこんな感じでした。

春去春来
雲聚雲散
龍隠龍飛
玉兮百兮莫能測
得兮失兮莫奈何

邦訳
春が来ては 去り
雲が集まり 散りゆく
龍が来て また龍が去る
玉か石かは定かならず
得たか失ったかも分からず

 縦読みすると、春雲龍玉得となって実に中国的な予言詩っぽくなりますね。
 ちなみに原作の歌はこんな感じ。

万歳爺 万歳爺
哀れな奴才を お許し下さい
広大無辺のみめぐみは
天に轟き 地にあまねき(『蒼穹の昴 2』講談社文庫 P.280)

万歳爺 万歳爺
奴才は 口がさけても申しませぬ
乾隆様のお匿しになった
あの龍玉のありかなど(『蒼穹の昴 2』講談社文庫 P.280~281)

 流石にこの辺はドラマ版の方がそれっぽいですね。

 あと、ドラマでは安徳海の死に際して春児宝貝を上げちゃうわけですが、原作では陳九老爺こと陳蓮元に上げちゃってますね。この辺、慈嬉太后の寵愛を一身に受けた安徳海なら、たんまりお金を持ってるので宝貝も買い戻してるハズですから、このあたり、うだつの上がらないぐうたら師匠・陳九老爺春児が惜しげもなく自分の宝貝を与えて後宮太監の人気を一気に得る!と言う場面には繋がらないですねぇ…。さして親しかったとも言えない人にダーンと上げちゃうあたりが春児なんですけどねぇ…。
 さらに、刀子匠が字幕では畢五になってましたけど、セリフでは小刀劉って言ってますね…。どちらも原作に出てきますけど、畢五も原作ほど出て来ないし…蘭琴も怪しいほどにきれいじゃないし、春児の義兄弟でもないですし…。ここは小刀劉でも良かったかもですね。原作だとあんな恰幅良くなかったですし、良い暮らしもしてなかったですし…。

 ちなみに春児の棒叩きの原因になったのが、慈嬉太后の料理。原作でも春児の料理の師匠・周麻子造蘇肉李蓮英に羽虫入れられたために、足を折られて後宮追い出されたりしたわけですが、ホントにこんな事あったのかなぁ…と思っていたらこんな記事も…。

 西太后専用の西膳房の責任者は、謝太監が取り仕切る。房には太監の弟、謝二をはじめ今では倣膳飯荘に残る「四大抓(北京編一四三頁参照)」料理を作ったとして知られる有名な厨師が揃っていた。なかでも謝二は西太后の大好物の、焼麦を作るのが得意で、皮は紙のごとく薄く餡もとても旨く作るので大のお気に入りとなっていた。
 ある日、西太后が東陵に出かけたときのこと。この時西膳房から房師が随行したのだが、謝二は所用を理由に随行しなかった。西太后はいつものように焼麦を所望した。一口食べるといつもの味と香りとは違うことに気がついた。そのことを問いただすと、謝二ではなく劉大という者が作ったと分かった。それを聞いた西太后は怒るまいことか。責任は劉大ではなく謝二にありと、至急に謝二を呼び出し、大板による四十たたきの刑に処したのである。大板で十もたたかれると背の皮が剥けた、といわれるか謝二は焼麦一つで死ぬ目にあわされたのだ。[1 横田文代良『中国の食文化研究〈天津編〉』辻学園調理・製菓専門学校 P.116]

 慈嬉太后食通だという伝説とともに、料理の失敗で処刑された!という伝説は割と多いですね。ドラマとかだと割とメジャーなネタかと。あと、原作に出てきた菜包は多分、愛新覚羅浩さんの『食在宮廷』の記事からだとおもわれ…。ただ、菜包の故事の主人公がドルゴンだったりホンタイジだったりしてあやふやな話だったと思いますが…。あんまり慈嬉太后菜包を繋げる記事は見たことないですね。

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