順治元年入関前夜─昭顕世子の見た入関

 少し間が空きましたが、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでいてもう一つ引っかかった部分をネタにします。

 まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i

 とまぁ、兵法三十六計以逸待労を以てドルゴン李自成を破ったと言うことになっているんですが、はてそうだっけ?と言うのが今回のお話です。

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  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.46 [戻る]

ホンタイジのモンゴルかぶれ

 図書館で見つけた、内藤虎次郎 等輯『満蒙叢書 第9巻 瀋陽日記』満蒙叢書刊行会 をペラペラ捲っていたところ

この日記の如きは實に其史料中最も正確に、且つ重要なるものにして、之によりて淸實錄の記事の正確なることを證するに足り、時としては其の失載せる事實を明にすべきものあり。試みにその一二の例を舉ぐれば、淸實錄順治元年四月朔日の條に、粛親王豪格の爵を削りしことを載せ、その由來をも詳かに記せるも、然もこの日記の前月二十九日及び四月四日の記事を見れば、この事の始末に於いて相發明するに足るものあり。殊に淸軍の李自成と山海關に於ける交戰の如きは、睿親王が行軍の途に於いて吳三桂の使に接せしことより山海關外に於ける戰狀に至るまで、淸實錄とこの日記とは其月日は符合し、其記事は相輔けて、當日の實情を明白ならしむるものあり、聖武記の記事が月日、事實に於いて並びに正確を缺くのに比にあらず。i

などと興味深い事が冒頭の「瀋陽日記 解題」に書いてあり、うっひょー!入関時期の同時代史料や!と、ワクワクしながらページを何度もめくったのですが、お目当ての順治元年の記事になかなかたどり着きませんでした。
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  1. 『満蒙叢書 第9巻』瀋陽日記 解題P.3 [戻る]

順治元年4月、ドルゴンの入関遠征の経緯

 岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 は読んでいて刺激が多く、特に外交面で興味深い本だったのですが、読んでいて一カ所引っかかる部分があったので、今回調べてみました。具体的には下に引用した文章です。

明朝政府は李自成の軍が北京に迫るとの報を受けると、呉三桂を北京に戻して首都の防衛に当たらせる。しかし間に合わなかった。(中略)長城東端の要衝、山海関にはドルゴン率いる清軍が迫っていた。呉三桂は前方に李自成、後方に清朝と挟まれる形になって、窮地に立たされる。(中略)そこで呉三桂は、敵対する清軍に密使を送って、援軍を要請する。(中略)ドルゴンは思いがけず、敵軍の前線の司令官から密使が来たばかりか、その君主の最期まで告げられて、さぞかし驚いたに違いない。(中略)『東華録』という清朝の年代記にみえるこのやりとりは、互いの立場と知略をよくあらわしている。呉三桂はあくまでも前線を守る明朝の将軍として、対峙する敵国の清朝に援助を求めたにすぎない。(中略)ドルゴンは高圧的な態度に出て、あくまで呉三桂の降伏・帰順を強いた。i

 この文章を見るに、
①:滅亡、呉三桂北京を陥落させた李自成と、北方から押し寄せる清朝に挟まれる
②:清朝ドルゴンの滅亡を知らずに山海関まで進軍
③:進退窮まった呉三桂清朝に援軍の要請のため密使を送る
④:の滅亡を初めて知ったドルゴンは驚くが、呉三桂に降伏・帰順を強要
…と言う時系列で岡本センセは理解しているようです。自分の記憶とかなり時系列が違うので驚きました。まぁ、岡本センセも清末の外交関係がご専門だからか、参考にした《東華録》にそんなことでも書いてあったのかしら…と思いながらなんか引っかかっていたんですが、昨日、別の調べ物をしていたところ、似たような文章に出くわしました。

1644 順治元年(崇禎17年) 4 ドルゴン、呉三桂の投降を受け出征し、山海関で李自成を撃破。ii

 山川出版の『世界歴史大系 中国史4』の年表にもこう書かれると、自分の記憶が不安になってきましたので、今回、《明史》と《大清世祖章皇帝實録》で確認して見ました。

 

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  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.43~45 [戻る]
  2. 『中国史4』年表P.70 [戻る]
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