モンハンロードを抜けて神武寺に…

 と言うワケで、いつも通りに上京ついでふらりと鎌倉方面に行ってきました。今回は神武寺鷹取山摩崖仏金沢文庫称名寺というコースです。

 で、今回の目的は一応、神武寺摩崖仏を見て回ると言うコト以外はノープランの適当なモノです。鎌倉で行事があったみたいですが、人が多いので回避したくらいなモノなのです…。

ここからが長い…

 ネットで検索すると、神武寺までは京急神武寺駅からも、JR東逗子駅からもそれぞれ三十分程度と書かれていますが、実際はJR東逗子駅の方がこの写真の場所までは近いです……。が、問題はこの目印を過ぎたところから始まるわけで…。

モンハンロード始まり

 いきなり、モンハンみたいな感じの道になります……。気持ち、目印から山門までで三十分はありそうです…。結構足場の悪い獣道風の道無き道をズンズン進みます。人もまばらで本当に観光スポットなのか迷いながら進みます。女性は絶対にズボン履きでトレッキングシューズなり装着で望んだ方が良さそうです。参道じゃなくて、きつめのハイキングコースだと思った方が良いと思います。

見た目よりも小さい感じの山門です

 境内はそんなに広くはありません。が、やはり獣道をズンズン進んできた甲斐あってか静謐な場所ではあります。まあ、自分ら行った時はボーイスカウトのお子様達が奇声上げながらかけっこしていたので、静謐とはほど遠い感じでしたが…。

静かなたたずまい

 絵で見るとナカナカナイスですね。小さいお堂も割と映えます。ただ、結構来るまでに気合い入れなきゃいけないので、参拝客よりもハイキングしてる人の方が多いように感じましたが…。で、見るモノもそうないので、ここから更にハイキングコースを伝って鷹取山摩崖仏に行きます。

モンハンの道は続く…

 が、ここからも更に三十分くらいのモンハンロードが続きます。平たい道で三十分を考えると、割と足下がおぼつかない道を行かなければならないので、体力勝負です。それなりに楽しいのですが、写真撮ってると転落しそうな気もしたのであまり写真も撮らず…(考えればむしろ撮っておくべきだったんですが…)。鎖つたって登るような箇所もあるので、そこそこ急な場所もありました。……が、先ほどのボーイスカウトも楽勝でついてきてたので、小学生でも踏破出来るコトは出来るんですがねw

遺跡じみた摩崖仏

 ついつい途中で忘れがちでしたが、この鷹取山には摩崖仏を見に来たのでありました。昭和に入ってから作られたみたいなんで、テーマパーク程度のありがたみしかないかも知れませんが、ナカナカ大きい仏さんです。
 途中、ロッククライミングに興じる人々が大勢おられましたが、ここはそう言う所みたいですね。垂直に切り立った岩に原生林じみた植物群は、どうにも鎌倉中とは違った地質植生を感じさせました。ここだとやぐらは作れそうにないです。

モンハンっぽくありつつも、ワンダと巨像っぽくもあるw

 今度はむしろ、森メインで来ても言いカモ!と思う程度には圧倒的でしたw

西へ東へ本願寺

 と言うワケで、GWを利用して西本願寺龍谷ミュージアムを見に、東本願寺井上雄彦の親鸞屏風見に行ってきました。

龍谷ミュージアム

 入れ物は綺麗でしたが、運用が今ひとつよく分からない博物館でしたね。色々ありましたけど、個人的には快慶作の仏像とベゼクリク石窟の再現壁画が見所でした。

屋根大好き西本願寺!

桃山城遺構の唐門

ドヤ顔の魔獣

仏具屋と洋風建築

 ツラツラ散歩です。

東本願寺

 近いのに案外東本願寺って初めてです。

案外ハイカラなので明治の作

東本願寺御影堂

 西から東へ本願寺と言うコト感じデスが、実にオモロかったです。それにしても存外大きいお堂が京都にあったモンですねぇ…。
 再建は繰り返しているんでしょうから、西も東も江戸初期の姿をそのまま残してるワケではないんでしょうけど、この大きさには圧倒されますね。故宮太和殿に比べると確か太和殿の方が大きいはずですが、中には入れる分大きく感じました。

花の鎌倉:三鱗

 と言うワケで先々週に行った鎌倉の写真デスだ。
 先週は光明寺分だけアップしましたが、まあ、その後ちょこちょこ行ってますので、その分です。

覚園寺あたりの紅白

 以前にも行った覚園寺ですが、震災の影響で一時間に一度のガイド付き解放も時間短縮!と聞いていましたが、ガッツリ一時間掛かりましたね…。相変わらず、美味しいところは撮影禁止なので覚園寺に行く道で咲いていた紅梅を撮影。

徳崇権現

 宝戒寺では不足した三鱗を補充。特に徳崇権現北条得宗家をお祀りした神社なので、鎌倉詣でをするならマスト。と言いつつも、境内あまり広くないので徳崇権現参拝くらいしかして無いww

宝戒寺境内の徳崇権現…の一輪挿し

 あらゆるアイテムに三鱗がつくあたり、流石北条鎮魂の神社です…と言ってもそんなに大きくはないんですが…。

徳崇権現の欄干

 同行した方には、ネズミーランドのみっきー探しみたいだと言われましたが、割といろんな所に三鱗があしらわれています。テンション上がりますね。

三鱗瓦頭と桜

 宝戒寺北条得宗家鎮魂の為に建立されただけあって、瓦頭に三鱗がキチンと…。季節柄桜の合間から三鱗です。

八幡宮の桜

 他にも色々撮ったモノの、グッとくるモノもなかったので割愛。八幡宮の桜で何となく〆てみますw

花の鎌倉:光明寺

 と言うワケで、先週末には鎌倉に花見に行ってきました。またかと言われながらデスが、何度行っても良い街デスよw

 今回は光明寺九品寺補陀洛寺宝戒寺覚園寺鶴岡八幡宮という感じのコースでした。
 今回、参考にしたのは松尾剛次『鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景』歴史文化ライブラリー という本ですデス。

光明寺本堂

 光明寺鎌倉時代には小坪といわれた鎌倉中(乱暴に言うと、東京で言うところの23区に相当)の東南の境界線上にあるお寺です。今までは北鎌倉…つまり山内あたりを中心に回っていたので、結構新鮮です。

光明寺本堂裏の庫裏

 光明寺江戸時代以降にこの地に移って来たと推測されます。それ以前はこの土地には極楽寺系のお寺があったみたいですね。結構敷地が広いお寺なのに今まで足を運んでいなかったのは、割と新しい寺だから…と言うコトもあるわけです。

かすかに見える和賀江島

 鎌倉時代には、貿易港として活用された築島である和賀江島が近いことから、光明寺の境内には元々極楽寺系の寺院があり、和賀江島の維持管理と関所米の徴収を一括していたようです。鎌倉へ入る開運の荷は一旦は和賀江島を経由するので結構な財力を振るったようですね。

北条経時宝塔

 光明寺の開基は四代執権北条経時とされ、境内にも北条経時を祀った宝塔があります(上の宝塔の画像に”平朝臣経時”と掘られています)。しかし、寺紋菊紋桐紋ですし、あまり境内では北条一族を感じさせませんね…。一応、開基北条経時説の他に大佛朝直説があるんですが、大佛朝直大佛流北条氏なわけで、移転の際に三鱗が抜けちゃった感じデスねぇ…。

遺跡!

 現在の光明寺はむしろ江戸時代の空気は感じました。上の写真は光明寺境内にある九州延岡藩内藤家墓所なのですが、パッと見はボロブドゥールかなんかの遺跡のようです。墓所なので中に入ることは出来ませんが、敷地全体を見渡すことが出来ます。わかりにくい場所ですが(北条経時の宝塔を見た帰りに発見したくらいデス)、実に幻想的です。

やはり桜で〆ます

 今までこの辺は来たことがなかったのですが、逗子に近いせいか?海を感じられる土地柄ですね。釜揚げのしらすの臭いのする街でした。
 と、何となく続きます。

前門の関帝廟

 今まで何となく買いそびれていた、内田道夫 編『北京風俗図譜』東洋文庫 を購入したので、パラパラ捲ってフムフム言ってます。オンデマンド版だと図版が大きくて些かお得気分です。なんか東洋文庫のサイズだと図版ちっこそうで躊躇していた部分はあるんですよねぇ…。で、寡聞にして知らなかったんですが、これ絵画部分は青木正兒センセが留学してた時に現地の絵師雇って書いて貰ったモノの様ですね。もっともこの本の肝は各画の解説部分にあるので、注釈を付けた内田道夫センセの本だと言うコトは間違いないんですけど。
 で、パラパラ捲っているとこんな記事に遭遇。

 神仏をまつる寺廟にも、それぞれはやりすたりはあるが、北京城内のそれは、いずれも整頓されたものが多かった。前門の関帝廟は『三国志』で有名な関羽の霊をまつるもので、鼓楼の関帝廟とともに人を集め、つつましやかな男女の神前にぬかずく姿が見られた。明の成祖永楽帝が蒙古王ベンヤシリを遠征したとき、関公が霊威をあらわし、砂塵煙霧のうちに、常に軍隊を誘導したと伝える(劉侗『帝京景物略』)。i

 かつての北京には至る所に関帝廟があったようですね。その中でも前門関帝廟は場所もあいまってランドマーク的な意味合いもあって大層人気があった模様です。で、上の記事で上げられてる《帝京景物略》が手元にあったのでパラパラ捲ってみたところ、確かに該当の記事がありますね。

關帝廟
關廟白古今、偏華夷。其祠於京畿也、鼓鐘接聞、又歳有増焉、又月有増焉。而獨著正陽門廟者、以門於宸居近、左宗廟、右社稷之間、朝廷歳一命祀。(中略)
先是成祖北征本雅失理、經闊灤海、至斡難河、撃敗阿魯台。軍前毎見沙濛霧靄中、有神、前我軍駆、其巾袍刀仗、貌色髯影、果然關公也、獨所跨馬白。凱還、燕市先傅、車駕北發日、一居民所畜白馬、晨出立庭中、不動不食、晡則喘汗、定乃食、回蹕則止。事聞、乃勅崇祀。ii

 と、まあこんな感じデス。砂漠でいきなり砂嵐に遭遇したら、髯のオッサンが現れて先導してくれたわけですね。髯だからアイツ関羽だったんじゃね?と軍中で噂になって、帰ってきたら前門に妙ちきりんな白馬がいるからとりあえず祀ってやるさ!って感じですかね?
 胡散臭さ満点なので、多分関帝廟の箔付けのために永楽帝に仮託された与太話なんでしょうけど、少なくとも明代には前門には関帝廟があったという証拠にはなるでしょう。

 で、その前門関帝廟は今現在存在しません。いつの間に消えて無くなったんでしょうか?

 明代はとにかく軍人中心に関羽信仰が強かったと言われます。何せ、豊臣秀吉朝鮮出兵の際に、朝鮮半島に進駐した明軍は駐屯地に関帝廟をワザワザ建設されたと言いますiii。遠征の駐屯地にすら関帝廟を欲するくらいですから、国都の中心たる前門関帝廟があったとしても驚くには足りないのかも知れません 。
 次の清代ではマンジュ皇族からして大の関羽好きです。入関前にはホンタイジ漢人官僚に批判されるくらい《三国演義》にのめり込んだり、のめりこむあまり《三国演義》のマンジュ語訳が国家事業としておこなわれたり、その後もダイチン・グルン歴代皇帝は毎夕坤寧宮シャーマン関羽を祀ったといいますから、国を挙げて関羽が好きだったみたいですね。 試しに手持ちの絵画を捜してみたら、康煕帝が南巡した際の様子を描いた《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》の部分に前門甕城内に描かれた関帝廟らしき建物が確認出来ました。

《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》(部分)iv


 清代では天壇で祭事を行う際、歴代皇帝前門・関帝廟を参拝して線香を供えたと言いますから、余程崇拝されたんでしょうね。

 で、その後の顛末をWikipediaで確認して見ると、前門こと正陽門は1900年の義和団事件で戦乱に巻き込まれて外郭である大柵欄が焼け、それに続く八ヶ国連合軍進駐の際に見張りに立っていたインド兵の不審火が原因で火事が発生して前門が焼け落ちたみたいですv。当然、この際に件の関帝廟も焼け落ちたと考えても良いでしょう。

 で、焼け落ちたのなら今の正陽門は何なの?と言うコトになりますね。現在の正陽門中華民国3(1914)年に再建されたモノです。その際に関帝廟も再建された様ですね。
 ただ、1909年刊行の『北清大観』という写真集にも関帝廟菩薩廟らしき建物が写っているviので、再建されたモノなのか?元々甕城内は被害が軽微だったのかは自分には判断出来ません…。
 中華民国4(1915)年に京奉鐵路敷設のために前門甕城が除去された際も、関帝廟は壊されなかったようです。その後、軍閥抗争の際にも、日中戦争時にも、国共内戦の時も、再建された関帝廟は壊れずにいたようですね。
 下の写真は1957年頃撮影された正陽門ですが、バッチリ関帝廟菩薩廟も写ってます。
 

1957年頃の前門vii


 では、戦火を潜り抜けてきた関帝廟はいつ消えて無くなってしまったのか?というのを、先のWikipediaの記事で確認して見ると…案の定、文革の時に壊されてしまい、そのまま今日まで再建されていないようですね…viii

正陽門(2008年11月宣和堂撮影)


 今、民国初期風の街並みをモデルに綺麗に整備された正陽門の前に関帝廟を再建すれば、それなりに観光客を集めることにはなるんでしょうが、なんだかやるせないですねぇ…。勿論、考証的にはココに関帝廟がないとおかしいんですが…。まあ、以前なら文革でぶっ壊れたなんて言う記事は捜しても見つからなかったはずですから、時代も変わったと信じましょう。

  1. 内田道夫『北京風俗図譜 2』P.18 [戻る]
  2. 劉伺・于奕正《帝京景物略》北京古籍出版社 P.97 巻之三 城南内外 [戻る]
  3. この辺は本ではなく三国志学会 第ニ回大会で金文京センセの発表で聞いた話。詳しくはこのページを参照→2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1 三国志ニュース [戻る]
  4. 《清史図典》第三冊 康煕朝 上 P.91 [戻る]
  5. 正阳门箭楼在1900年义和团拳民焚烧前门外大栅栏时被飞溅火星引燃烧毁,城楼在当年冬天被生火取暖的印度士兵不慎烧毁,目前的正阳门是民国三年(1914年)改建的。 Wikipedia 正阳门 [戻る]
  6. ディジタル・シルクロード 東洋文庫アーカイブ 北清大観 : vol.1 P.141 [戻る]
  7. 『北京』岩波写真文庫 P.19 [戻る]
  8. 文革期间,正阳门关帝庙与观音庙一同拆除。Wikipedia 正阳门 [戻る]
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