李自成─駅卒から紫禁城の主へ その2

 と言うワケで、佐藤文俊『李自成─駅卒から紫禁城の主へ(世界史リブレット人041)』山川出版のメモ第二弾です。大まかなところは面白いのですが、細かく調べると多分あの辺りとかこの辺りとか違うんじゃないかなぁ…という予感は有るものの、おもろいです。

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愛新覺羅宗譜

 ネットでツラツラ検索していて、《愛新覚羅宗譜》についての記事を見つけたので、リンクを上げときます。

愛新覺羅宗譜─台灣Wiki

 内容に関してどの巻にどの系譜が載っているのか、ザッと載っていたので抜き出してみます。

學苑出版社1998年影印本31冊分卷內容如下:
甲冊1-4: 德宗景,穆宗毅,文宗顯,宣宗成,仁宗睿,高宗純,世宗憲,聖祖仁,世祖章,太宗文皇帝位下之子孫。
乙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第1子貝勒褚英,第2子親王代善,第3子鎮國公阿拜之子孫。
丙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第4子鎮國將軍湯古代,第5子鎮國莽古爾泰,第6子輔國公塔拜,第7子親王阿巴泰,第9子鎮國公巴布泰,第10子鎮國德格類,第11子鎮國巴布海,第12子鎮國阿濟格,第13子輔國公賴慕布,第14子親王多爾袞,第15子親王多鐸,第16子費揚果之子孫。
丁冊1-4: 顯祖宣皇帝位下第2子貝勒穆爾哈齊,第3子親王舒爾哈齊,第5子貝勒巴雅喇之子孫。
丁冊5: 玉牒之末:太宗文皇帝位下第1子武肅親王豪格之第5子溫良郡王勐峨之第3子延信此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第1子廣略貝勒褚英之第1子安平貝勒杜度之第6子追封懷愍貝子杜努文之第1子蘇努此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2子禮烈親王代善之第1子克勤郡王岳托支下奉恩將軍興瑞之第1子全亮比支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2子禮烈親王代善之第2子碩托此比支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2禮烈親王代善之第3子穎毅親王薩哈之第1子阿達里此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第6子輔國厚公塔拜之第2子額克親之第6子額爾濟圖此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第7子饒余敏親王阿巴泰之第4子安郡王岳樂之第19子務爾占此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第5子莽古爾泰此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第10子德格類此支降為紅帶子。
戌冊1: 景祖翼皇帝位下:第1子武功郡王禮敦巴圖魯,第2子多羅慧哲郡王額爾袞,第3子多羅宣獻郡王齋堪,第5子多羅恪恭貝勒塔察篇古之子孫。
戌冊2: 興祖直皇帝位下:第1子德世庫 第1子 第1子素赫臣,第2子譚圖,第3子尼揚古之子孫。
戌冊3: 興祖直皇帝位下:第2子劉聞 第1子陸虎臣,第2子瑪英格,第3子門圖之子孫。
己冊1-5: 興祖直皇帝位下:第3子索長阿 第1子履泰,第2子務泰,第3子綽奇阿注庫,第4子龍敦,第5子飛永敦之子孫。
庚冊1-2: 興祖直皇帝位下:第5子包郎阿 第1子隋痕,第2子巴孫巴圖魯,第3子對秦第4子郎騰之子孫。
庚冊3: 興祖直皇帝位下:第6子寶實 第1子康嘉,第2子阿哈納,第3子阿篤齊第4子多羅郭齊之子孫。
索引1-2: 愛新覺羅·常林主編。
付錄: 星源吉慶

 この中でも特に宗室與覺羅の項目は注目に値するので、改行を加えて抜き出してみましょう。宗室の中でも罪を犯して民間人に落とされた支族を紅帯子ギョロ(准宗室)の中で罪を犯して民間に落とされた氏族を紫帯子と称したようですね。その中でも紅帯子十八支族を紹介しているのでメモ。

據《玉牒》統計,在宗室各支系中,先後有18個支系被降束紅帶子:
①顯祖塔克世三子舒爾哈齊長子阿爾通阿長子舒爾赫一支⇒シュルガチ(Šurgaci)の長子・アルトゥンガ(Alutungga)の長子・舒爾赫の支族。
②顯祖塔克世三子舒爾哈齊次子阿敏之孫塞克圖次子拉哈禮一支⇒シュルガチの次子・アミン(Amin)の孫・塞克圖の次子・拉哈禮の支族。
③顯祖塔克世三子舒爾哈齊次子阿敏次子愛度一支⇒シュルガチの次子・アミンの二子・アイドゥリ?(Aiduri?)の支族。
④顯祖塔克世三子舒爾哈齊六子濟爾哈朗之孫楊桑長子務能義一支⇒シュルガチの六子・ジルガラン(Jirgalang)の孫・楊桑の長子・務能義の支族
⑤顯祖塔克世三子舒爾哈齊九子腦岱一支⇒シュルガチの九子・腦岱の支族
⑥顯祖塔克世五子巴雅喇四子鞏阿岱一支⇒バヤラ(Bayara)の四子・ゴンガダイ(Gongadai)の支族
⑦顯祖塔克世五子巴雅喇五子錫翰一支⇒バヤラの五子・シガン(Sigan)の支族
⑧顯祖塔克世五子巴雅喇八子德瑪護一支⇒バヤラの八子・德瑪護の支族
⑨太祖努爾哈赤長子褚英曾孫蘇努一支⇒チュエン(Cuyeng)の曾孫・スーヌ(Sunu)の支族
⑩太祖努爾哈赤次子代善九世孫興瑞之子全亮一支⇒ダイシャン(Daišan)九世の孫・興瑞の子・全亮の支族
⑪太祖努爾哈赤次子代善次子碩托一支;ダイシャンの二子・ショト(Šoto)の支族
⑫太祖努爾哈赤次子代善三子薩哈廉長子阿達禮一支⇒ダイシャンの三子・サハリヤン(Sahaliyen)の長子・アダリ(Adali)の支族
⑬太祖努爾哈赤五子莽古爾泰一支⇒マングルタイ(Manggûltai)の支族
⑭太祖努爾哈赤六子塔拜之孫額爾濟圖一支⇒ダバイ(Dabai)の孫・額爾濟圖の支族
⑮太祖努爾哈赤七子阿巴泰四子岳樂十九子務爾佔一支⇒アバタイ(Abtai)の四子・ヨロ(Yolo)の十九子・務爾佔の支族
⑯太祖努爾哈赤十子德格類一支⇒デゲレイ(Degelei)の支族
⑰太祖努爾哈赤十六子費揚古一支⇒フィヤング(fiyanggû)の支族
⑱太宗皇太極長子豪格五子猛我三子延信一支⇒ホーゲ(Hooge)の五子・猛我の三子・ヤンシン(Yansin)

 この中で分かるのが逆に、天聰末年のマングルタイデゲレイ崇徳末~順治初年のショトアダリアイドゥリ順治半ばのゴンガダイシガン雍正初年のスーヌヤンシンくらいですから、半数しか分からないってコトですね。《欽定宗室王公功績表伝》の以罪黜宗室貝勒に伝がある、バヤラの二子・バイントゥも兄弟であるゴンガダイシガンとともに、順治帝ドルゴンのシンパとして罰せられたハズなんですが、嘉慶4年に子孫は宗室に戻されているみたいですね。
 てか、アルトゥンガすら《清史稿》では存在抹殺されているのに、その子供とか…とか、アイドゥリらしき人出てきたよ!とか、色々興味深いんですが取りあえず現物は来週見に行くので楽しみです。

古代中国の虚像と実像

 と言うワケで、落合淳思『古代中国の虚像と実像』講談社現代新書 を読了…。まあ、予想通りサラッと読める本ではありました。
 どういう本かというと、金文偉い!二次文献資料カッコワルイ!と言う、発掘ブームに沸く中国の世相を反映した最近の学会の風潮をデデーンと主張してる本です。まあ、文献資料でも古い時代に書かれたモノに価値があり、数百年経ってから書かれたモノにはあまり価値がないというスタンスですね。
 言わんとしていることはわかるものの「密室で会話されたとするモノが史書に書かれているのがそもそもおかしい」という類の事例を押し並べて「だからこの話は作り話だ!」という感じでガンガン断定していくのはどうかと…1。史書に書かれている”史実”は、そのまま当時起きた”事実”とは違うのは…、何というか今更ご高説垂れて貰うまでもなく常識の範疇ではないかなぁ…とも思うんですけどねぇ…。せいぜいが「密室で行われたことが外に漏れる可能性は極めて低いので信憑性には欠けるモノの、後世の史家及び当時の市井の人々が納得する説話であった」とする方がいいと思うんですけどねぇ。それならば一番わかりやすい四知でも例に出せばいいのに…と思うんですが…。

大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史﹑東萊太守.當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震.震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者.」震曰:「天知,神知,我知,子知.何謂無知!」密愧而出.後轉涿郡太守.性公廉,不受私謁.子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」2

 まあ、有名な話なので楊震四知とでも検索すれば意味は出てくると思います。要するに、要職にあった楊震の元に夜半、王密という人が任官の便を図って貰おうとして、賄賂を持って行ったところ楊震は受け取らず、王密が「今は夜ですし知っている人もいません」と促すと「天知る地知る我知る君知る…なんで誰も知らないと言うことがあろうか!」といったという説話ですよね。
 本当にこのことを知る人がいなかったのなら、この話は史書に載ることなく二人だけの秘密になったはずですが、史書に残されているところを見ると楊震が恐れていたように誰かに見張られていたのか、恩を感じた王密が喧伝したのか、改心のディベートを楊震自信が吹聴して回ったのかいずれかですよね?史書にはママどうしてこの話が伝わったんだろう…という話は多くあります。こういうのを一つ一つあげつらって「作り話だ!」というのは…ナンセンスだと自分は思うんですけどねぇ…。むしろ、当時その説話が事実だと信じられた…もしくは史書を書いた人物にとっては事実だと信じ…そして後世の人も事実だと信じた…という社会的な側面の方が中国史では特に留意すべきだと思うんですが…。信憑性が薄いというのであれば同意するんですけど、信憑性が薄い=作り話であるというのは些か飛躍のしすぎだと思うんですが…。この辺、一般書だから敢えて強調したかったのかも知れませんが、ちょっと飛躍しすぎのような印象を受けました。

 で、文学史学が未分化の状態とよく言われる《史記》や、あの平勢氏によるとプロパガンダだと言われる《春秋左伝》も、事件の数百年後に書かれた史書で信用に値しないとか書かれていますが…。この論法で行くと《史記》の武帝朝の記述は同時代資料として全面的に信頼が置ける文章と言うコトになるでしょうし、《春秋左伝》も比較的記事の新しい部分については作為が少ないといえることになるんでしょうけど、その辺についてはスルーですね…。こういう人が見落とすのは、「一次資料も同時代資料も、二次資料や後世の資料同様嘘をつくし、完全な事実を述べない」と言うコトですね。むしろ、社会的な制約のある一次資料の方が禁忌に触れて書けないこともあるはずですから、扱いには十分注意が必要なはずです。

 あと、《孫子》については、いろいろ根拠をあげて《孫子》が春秋時代孫武の著作ではない根拠をあげています。その中で孫武で活躍したのが事実ならば、海上戦に関する記述がないのはおかしい…と書かれてます3。むしろ戦国時代に書かれた兵書なら、一般的に言われているように、何故攻城戦の記述がないのか?と言うコトにも答えないと断言はできないはずなんですけどねぇ…。
 それに《史記》では、孫武の出身で、元々『孫子兵法十三篇』が評判だったために闔廬に謁見したように読めるんですが4、自分の漢文力がないからに行ってから《孫子》を書き上げたように読めないのか…それとも最近の研究で《史記》の孫子呉起列伝が否定されているのかは知りませんが、どうして海上戦の記述がないことが《孫子》の偽書疑惑の根拠になるのかさっぱりわかりません…。この部分に関しては平勢氏同様の胡散臭さを感じるのが残念ですねぇ…。

 面白かったのが、やっぱり専門の甲骨文と、平勢氏完全否定のところだけだったのが残念でしたが…。

  1. まず問題になる部分は、趙高らによって破棄されたはずの始皇帝の爾書の内容が記録されている点であり、これは事実としてありえない。また帝位継承者を替える密談が記載されていることも不自然である。始皇帝が死んだのは紀元前二一〇年であるが、『史記』が著されたのは前漢中期(紀元前九〇年ごろの完成とされる)であり、百年以上の時代差がある。要するに、始皇帝本紀の内容は、その間につくられた作り話だったのである。『古代中国の虚像と実像』P.13
  2. 《後漢書》巻五十四 楊震列傳第四十四 楊震
  3. しかも、呉の地方は湿潤な気候のため湿地帯が多く、軍隊の移動や物資の輸送には船が有効なのであるが、『孫子』にはそうした状況での兵法はほとんど記されていない。『古代中国の虚像と実像』P.106
  4. 孫子武者,齊人也.以兵法見於吳王闔廬.闔廬曰:「子之十三篇,吾盡觀之矣,可以小試勒兵乎?」《史記》巻六十五 孫子呉起列傳第五 孫子