と言うコトで特別展 北京故宮博物院200選の続き。展示会場の1/4を占めるダイチン・グルン(大清国)の展示です。個人的にはこのあたりが一番内容濃かったように思います。この展示内容だと、基本的には書道や磁器、青銅器も来てますが、メインは絵画だと思います。特にこのあたりは絵画の濃度が濃かったように思います。では、始めましょう。
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と言うワケで特別展 北京故宮博物院200選に行ってきました。どうにもこうにもお蔵出しの清明上河図が人を呼ぶらしく、噂に違わぬ盛況ぶりでした。8:30に東博について列んで、見られたのが11:00なので思ったよりは早かったモノのやはり結構掛かりましたね…。でも、予想外だったのがそれ以降にも結構な時間掛かったことですね。17:00に設定したオフ会ギリギリまで掛かって見てしまいましたね…。あんまり期待せずに行ったんですが、清明上河図以外にも結構良いものが来てます。大物の絵巻物の展示が3巻もあったので図録にすると小さいのですが、全幅載っているのは素晴らしいですね。絵の部分だけではなく賛や跋の部分もカラーでガッツリ載ってますから、自分の様に鑑賞印とか鑑蔵印見るだけでニヤニヤ出来る人には勝って損なしです。と言うか、展示に行かなくても図録だけ買っても良いくらいですね。実に素晴らしい!と言うワケで以下備忘録です。
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というわけで、何となくTwitterで絡んでいる時に楊家将のドラマの話になりってですね…。日本語で楊家将を知ろうとすると、北方楊家将しか無いよねぇ…等という話になりまして。まあ、悪くはないけどどうもバイアス掛かりすぎで…って感じでして。まあ、それでも楊家将を知る手がかりってそうないよねぇ~と言う話をしていて検索掛けたら自分が過去に書いて吹っ飛ばした記事にリンク貼ってあったりですね…。いや~バックアップ取ってない文章だったので些か困りました。サルベージもできそうにないですねw
そんなわけで、自分も楊家将は好きなので、折角だから思い出しがてらまとめてみようかなぁ…と思った次第。
まず、楊家将サガが三国志ほどメジャーでないのは、まぁ…色々理由はあると思いますが、やはり決定的なテキストがないって当たりですかね…。
現在楊家将演義と称されているテキストには大きく分けて二種類あります。これに講談やら京劇やらドラマやらの独自展開があって、内容についても様々なバリエーションがある上、第二世代、第四世代以降の兄弟の人数や構成についてもマチマチです。また、大本の二種類のテキストでは結末が大きく違うのでこれもまた厄介です。
それに、京劇では楊家将と言えば穆桂英!と言うくらいキャッチーなアイコン的キャラがいますが、テキストではそんなにウェイトが高いわけではありません。おそらくキャラが成熟しきった頃に成熟しきったテキストが出て来なかったモノでしょうけど、これでは折角京劇を見て興味を持った層がテキストを読んでもガッカリすること請け合いですね。
それに、基本的には「報われない忠臣一家の話」なので、各世代ごとに基本的にバットエンドです。配役が変わるだけで結構既視感の強い展開であることは否めないですね。まあ、バットエンドが連続するワケなので、読んでいてハリウッド的なスカッと感に欠けます。まあ、これが売りなんで仕方が無いことではあるんですけど。
あと、中国の古典小説は大河モノの場合はよく転生譚から始めるモノが多い中で、これは珍しく人間の物語として始まるわけですが、途中で《東遊記》と被る仙人の妖術合戦が入ってきます。三国志でも妖術合戦はありますが、どちらかというと水滸伝並みに前面に出て来る感じなので、ストイックな感じは薄れますね…。
あと、明確な敵を設定出来なかったことも弱点だとは思います。第一世代、第二世代は契丹(遼)という圧倒的な敵が存在しますが、澶淵の盟締結後はこれを設定することが難しくなり、西夏に設定したり当時存在しなかった西番・新羅にしたりするわけです。
水滸伝なら梁山伯全滅に向けたカタルシス、三国志なら蜀漢の滅亡、三国時代の終焉や諸葛亮の死といったカタルシスを結末に設定出来ますが、楊家将はそれを設定することが難しいわけです。個人的には穆桂英の事績を若い頃の佘塞花のエピソードにしちゃって、対契丹、対後周・北宋のエピソード増やして、四郎失踪を北漢滅亡に繰り上げて、最終点を楊業の死と六郎による楊家府再興にするか、若しくは、寡婦西征を澶淵の盟の後くらいに設定すればスッキリするのになぁ…と思ったりするんですがねぇ。
ただ、楊家将の影響というのはバカに出来ないモノがあります。
古いところでは《水滸伝》に登場する青面獣・楊志は楊家将の祖である楊業の後裔という設定です。後半に登場する十節度使の闌路虎・楊温も楊志とは別系統のようですが、楊家将の末裔という設定です。もっとも、彼自体は水滸伝よりも先に世に出た講談のヒーローだった様ですねi。
更に、《説岳》に登場する楊再興も楊業の後裔という設定です。もっとも、楊再興は実在の人物で《宋史》にも伝はありますがii、特に楊業とは関係ない血筋のようです。
あと、更に言えば金庸の小説《射鵰英雄伝》に登場する楊鉄心は楊再興の曾孫…つまり、楊家将の末裔で得意技は楊家槍と言う設定になっています。なので、彼の偽名が穆易なのも、楊四郎が木易と名乗ってからの伝統ですiiiw
と言うコトで、血縁的には完顔康…つまり楊康も楊家将の末裔なワケです。この辺は、忠臣として名高い楊家将の末裔が完顔を名乗り夷狄に与している!という仕掛けなんですね。正しく作用している設定とは言い難いと思いますが…。もっと自分の血筋と、育ててくれた完顔洪烈への恩との間で悩むようなドラマツルギーがあればよかったんでしょうけどねぇ。
というわけで、楊康が楊家将の末裔なら当然、《神鵰侠侶》の楊過も楊家将の末裔です。ジュシェンの狗として死んだ親から、対モンゴル戦の英雄が生まれるという話になってるわけですね。
と、あらすじ書く際の枕を書こうとしたら存外長くなったので、あらすじはまたの機会と言うコトで…。
と言うワケで、こないだの記事で《満洲実録》を扱ってから悶々としていた宣和堂です。うーん。実はこの辺が良くわからんのですよね…。
ご存じの通り、現在知られる満洲語の歴史書で一番有名なのは、内藤湖南が日露戦争終結の頃に瀋陽故宮で発見した、通称《満文老檔》です。
で、この際に見つかった他の書物が清朝歴代皇帝の実録である《清朝実録》 と、合戦絵図と言われる《満洲実録》です…。中身や成立過程については後回しにしましょう。
あと同じく名前が挙がるのが《五体清文鑑》ですね。元々は満洲語の辞典で元々の題名も《Han i araha manju gisun i buleku bithe(漢語題名《清文鑑》)》。これが増補を繰り返し、漢語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語をも収録した拡張版が《五体清文鑑》と言うコトのようです。検索したらこれに関してはさっくり画像がありました→《五体清文鑑》早稲田スゲー!むしろ、《満洲実録》も置いてよ!とか思うモノの我慢。
で、Twitterで満文老檔について発言した時に教えて頂いた本でサクサク検索したところ、疑問が氷解です。
《満文老檔》
《満文老檔》と言う名称自体が、そもそも内藤湖南が名付けた便宜上の名前であって、表題は単に《Tongki fuka sindaha hergen i dangse(トンギ フカ シンダハ ヘルゲン イ ダンソ=有圏点檔案)》若しくは《Tongki fuka akū hergen i dangse(トンギ フカ アク ヘルゲン ダンソ=無圏点檔案)》。発見当初は表題だけ見ても何の書物かは分からなかったみたいですね。ただ、自分レベルではこの無圏点本と有圏点本の違いはよく分かりません。調べて見ると、内容はともかく冊数と題材は同じようですね…。
ものの本によると、ヌルハチ、ホンタイジ時代の記録としてはもっとも詳細で重要な根本記事とされているようです。ただ、乾隆年間に編纂されたモノなので、清朝に都合の悪いことはさっくり削除されているわけです。漢化された皇帝という見方をされることの多い乾隆帝ですが、マンジュ視点に立った場合、民族主義を奨励した指導者と言う評価も出来るんですよね。
《満洲実録》
《満洲実録》の売りは絵が載ってるコトなので比較的図版が引用されていますね。
内容については、順治年間に作成された《清太祖武皇帝実録》とほぼ同じ…ここで注意したいのが、現行本の《太祖実録》が乾隆年間の重修本である点ですね。後の時代には忌避しているコトでも採録しているようです。でも、満洲音の漢字表記は乾隆年間の方式に改められているようです。また、絵画については《太祖実録戦図(《清太祖実録戦跡図》?)》の引き写しみたいですね。乾隆年間にいいとこ取りして編纂されたモノの様です。やはり絵画については元絵の《太祖実録戦図》を引いた方が良いみたいですね…。まあ、見当たらないのですが…。どうやら、盛京・崇謨閣にはマンジュ文本と漢文本との二組が収蔵されてたみたいです。…と、参考図書には書いてますが、書影を見るに戦図に関しては満漢合壁の模様ですね。
《清朝実録》
現在中華書局から出版されている《清実録》は巻頭に《満洲実録》を置き、以後《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》、《徳宗実録》、《宣統政紀》が収録されているようです。これは全て漢文の模様。
この内、盛京・崇謨閣にあったのは、マンジュ文と漢文の《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》の模様…です。で、内藤湖南が盛京を調査して《満文老檔》を発見したのは、明治38(光緒31、1905)年ですから、光緒5(1879)年成立の《穆宗実録》までを発見したと考えて良いようですね。《徳宗実録》は中華民国10(1921)年成立ですし、《宣統政紀》に至っては成立年代も良くわからんみたいなので、発見されるわけがないわけです。一応、満洲国務院が《大清歴朝実録》として、これらの《実録》を1937年に刊行した際には、《徳宗実録》と併せて《宣統政紀》が収録されているので、その頃には成立はしていたと考えて良いんでしょうけど…。
北京皇城内の皇史宬にはマンジュ文、モンゴル文、漢文の実録が保管されていたようですが、やはりそれも《穆宗実録》まで。《徳宗実録》は漢文のみ現存しているようですが、マンジュ文はなかったのかも知れませんね…。自分が漠然と、マンジュ・グルンと言うか、清朝がまるきり漢化されたのは光緒年間じゃないかと思うのは、こういう所なんですが、まあ、今回は関係ないので触れません。
《旧満州檔》《満文原檔》
で、乾隆年間に編纂された《満文老檔》の元になった檔案が、1931年に北京内閣大庫から《満文老檔》と一緒に発見されたようです。この檔案のことを、日本では《旧満州檔》と称していたわけです。で、あまり研究がなされないうちに、盧溝橋事件が勃発して日本軍の侵攻が始まり、かの有名な文物南遷の際に、この檔案も北京から逃避行に出たわけですね。最終的に台北故宮博物院に収蔵され、《満文原档》という題名で影印出版されたみたいです。この際に《満文老檔》には含まれていない、天聰9年部分の檔案、所謂《天聰九年檔》も収録されたようです。
とまあ、自分が疑問だった史書類はこれであらかた疑問は氷解という感じデス。この辺の資料はwikiや百度でも記事が足りないので、大変スッキリしました。ちなみに参考資料は以下の通り。
神田信夫・山根幸夫 編『中国史籍解題辞典』燎原書店
神田信夫『満学五十年』刀水書房
『清朝とは何か』藤原書店
※ご指摘によりマンジュ文献のローマ字変更しました(6/26)
今まで何となく買いそびれていた、内田道夫 編『北京風俗図譜』東洋文庫 を購入したので、パラパラ捲ってフムフム言ってます。オンデマンド版だと図版が大きくて些かお得気分です。なんか東洋文庫のサイズだと図版ちっこそうで躊躇していた部分はあるんですよねぇ…。で、寡聞にして知らなかったんですが、これ絵画部分は青木正兒センセが留学してた時に現地の絵師雇って書いて貰ったモノの様ですね。もっともこの本の肝は各画の解説部分にあるので、注釈を付けた内田道夫センセの本だと言うコトは間違いないんですけど。
で、パラパラ捲っているとこんな記事に遭遇。
神仏をまつる寺廟にも、それぞれはやりすたりはあるが、北京城内のそれは、いずれも整頓されたものが多かった。前門の関帝廟は『三国志』で有名な関羽の霊をまつるもので、鼓楼の関帝廟とともに人を集め、つつましやかな男女の神前にぬかずく姿が見られた。明の成祖永楽帝が蒙古王ベンヤシリを遠征したとき、関公が霊威をあらわし、砂塵煙霧のうちに、常に軍隊を誘導したと伝える(劉侗『帝京景物略』)。i
かつての北京には至る所に関帝廟があったようですね。その中でも前門の関帝廟は場所もあいまってランドマーク的な意味合いもあって大層人気があった模様です。で、上の記事で上げられてる《帝京景物略》が手元にあったのでパラパラ捲ってみたところ、確かに該当の記事がありますね。
關帝廟
關廟白古今、偏華夷。其祠於京畿也、鼓鐘接聞、又歳有増焉、又月有増焉。而獨著正陽門廟者、以門於宸居近、左宗廟、右社稷之間、朝廷歳一命祀。(中略)
先是成祖北征本雅失理、經闊灤海、至斡難河、撃敗阿魯台。軍前毎見沙濛霧靄中、有神、前我軍駆、其巾袍刀仗、貌色髯影、果然關公也、獨所跨馬白。凱還、燕市先傅、車駕北發日、一居民所畜白馬、晨出立庭中、不動不食、晡則喘汗、定乃食、回蹕則止。事聞、乃勅崇祀。ii
と、まあこんな感じデス。砂漠でいきなり砂嵐に遭遇したら、髯のオッサンが現れて先導してくれたわけですね。髯だからアイツ関羽だったんじゃね?と軍中で噂になって、帰ってきたら前門に妙ちきりんな白馬がいるからとりあえず祀ってやるさ!って感じですかね?
胡散臭さ満点なので、多分関帝廟の箔付けのために永楽帝に仮託された与太話なんでしょうけど、少なくとも明代には前門には関帝廟があったという証拠にはなるでしょう。
で、その前門関帝廟は今現在存在しません。いつの間に消えて無くなったんでしょうか?
明代はとにかく軍人中心に関羽信仰が強かったと言われます。何せ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮半島に進駐した明軍は駐屯地に関帝廟をワザワザ建設されたと言いますiii。遠征の駐屯地にすら関帝廟を欲するくらいですから、国都の中心たる前門に関帝廟があったとしても驚くには足りないのかも知れません 。
次の清代ではマンジュの皇族からして大の関羽好きです。入関前にはホンタイジが漢人官僚に批判されるくらい《三国演義》にのめり込んだり、のめりこむあまり《三国演義》のマンジュ語訳が国家事業としておこなわれたり、その後もダイチン・グルンの歴代皇帝は毎夕坤寧宮でシャーマンが関羽を祀ったといいますから、国を挙げて関羽が好きだったみたいですね。 試しに手持ちの絵画を捜してみたら、康煕帝が南巡した際の様子を描いた《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》の部分に前門の甕城内に描かれた関帝廟らしき建物が確認出来ました。

《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》(部分)iv
で、その後の顛末をWikipediaで確認して見ると、前門こと正陽門は1900年の義和団事件で戦乱に巻き込まれて外郭である大柵欄が焼け、それに続く八ヶ国連合軍進駐の際に見張りに立っていたインド兵の不審火が原因で火事が発生して前門が焼け落ちたみたいですv。当然、この際に件の関帝廟も焼け落ちたと考えても良いでしょう。
で、焼け落ちたのなら今の正陽門は何なの?と言うコトになりますね。現在の正陽門は中華民国3(1914)年に再建されたモノです。その際に関帝廟も再建された様ですね。
ただ、1909年刊行の『北清大観』という写真集にも関帝廟と菩薩廟らしき建物が写っているviので、再建されたモノなのか?元々甕城内は被害が軽微だったのかは自分には判断出来ません…。
中華民国4(1915)年に京奉鐵路敷設のために前門の甕城が除去された際も、関帝廟は壊されなかったようです。その後、軍閥抗争の際にも、日中戦争時にも、国共内戦の時も、再建された関帝廟は壊れずにいたようですね。
下の写真は1957年頃撮影された正陽門ですが、バッチリ関帝廟も菩薩廟も写ってます。

1957年頃の前門vii