今まで何となく買いそびれていた、内田道夫 編『北京風俗図譜』東洋文庫 を購入したので、パラパラ捲ってフムフム言ってます。オンデマンド版だと図版が大きくて些かお得気分です。なんか東洋文庫のサイズだと図版ちっこそうで躊躇していた部分はあるんですよねぇ…。で、寡聞にして知らなかったんですが、これ絵画部分は青木正兒センセが留学してた時に現地の絵師雇って書いて貰ったモノの様ですね。もっともこの本の肝は各画の解説部分にあるので、注釈を付けた内田道夫センセの本だと言うコトは間違いないんですけど。
で、パラパラ捲っているとこんな記事に遭遇。
神仏をまつる寺廟にも、それぞれはやりすたりはあるが、北京城内のそれは、いずれも整頓されたものが多かった。前門の関帝廟は『三国志』で有名な関羽の霊をまつるもので、鼓楼の関帝廟とともに人を集め、つつましやかな男女の神前にぬかずく姿が見られた。明の成祖永楽帝が蒙古王ベンヤシリを遠征したとき、関公が霊威をあらわし、砂塵煙霧のうちに、常に軍隊を誘導したと伝える(劉侗『帝京景物略』)。i
かつての北京には至る所に関帝廟があったようですね。その中でも前門の関帝廟は場所もあいまってランドマーク的な意味合いもあって大層人気があった模様です。で、上の記事で上げられてる《帝京景物略》が手元にあったのでパラパラ捲ってみたところ、確かに該当の記事がありますね。
關帝廟
關廟白古今、偏華夷。其祠於京畿也、鼓鐘接聞、又歳有増焉、又月有増焉。而獨著正陽門廟者、以門於宸居近、左宗廟、右社稷之間、朝廷歳一命祀。(中略)
先是成祖北征本雅失理、經闊灤海、至斡難河、撃敗阿魯台。軍前毎見沙濛霧靄中、有神、前我軍駆、其巾袍刀仗、貌色髯影、果然關公也、獨所跨馬白。凱還、燕市先傅、車駕北發日、一居民所畜白馬、晨出立庭中、不動不食、晡則喘汗、定乃食、回蹕則止。事聞、乃勅崇祀。ii
と、まあこんな感じデス。砂漠でいきなり砂嵐に遭遇したら、髯のオッサンが現れて先導してくれたわけですね。髯だからアイツ関羽だったんじゃね?と軍中で噂になって、帰ってきたら前門に妙ちきりんな白馬がいるからとりあえず祀ってやるさ!って感じですかね?
胡散臭さ満点なので、多分関帝廟の箔付けのために永楽帝に仮託された与太話なんでしょうけど、少なくとも明代には前門には関帝廟があったという証拠にはなるでしょう。
で、その前門関帝廟は今現在存在しません。いつの間に消えて無くなったんでしょうか?
明代はとにかく軍人中心に関羽信仰が強かったと言われます。何せ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮半島に進駐した明軍は駐屯地に関帝廟をワザワザ建設されたと言いますiii。遠征の駐屯地にすら関帝廟を欲するくらいですから、国都の中心たる前門に関帝廟があったとしても驚くには足りないのかも知れません 。
次の清代ではマンジュの皇族からして大の関羽好きです。入関前にはホンタイジが漢人官僚に批判されるくらい《三国演義》にのめり込んだり、のめりこむあまり《三国演義》のマンジュ語訳が国家事業としておこなわれたり、その後もダイチン・グルンの歴代皇帝は毎夕坤寧宮でシャーマンが関羽を祀ったといいますから、国を挙げて関羽が好きだったみたいですね。 試しに手持ちの絵画を捜してみたら、康煕帝が南巡した際の様子を描いた《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》の部分に前門の甕城内に描かれた関帝廟らしき建物が確認出来ました。

《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》(部分)iv
で、その後の顛末をWikipediaで確認して見ると、前門こと正陽門は1900年の義和団事件で戦乱に巻き込まれて外郭である大柵欄が焼け、それに続く八ヶ国連合軍進駐の際に見張りに立っていたインド兵の不審火が原因で火事が発生して前門が焼け落ちたみたいですv。当然、この際に件の関帝廟も焼け落ちたと考えても良いでしょう。
で、焼け落ちたのなら今の正陽門は何なの?と言うコトになりますね。現在の正陽門は中華民国3(1914)年に再建されたモノです。その際に関帝廟も再建された様ですね。
ただ、1909年刊行の『北清大観』という写真集にも関帝廟と菩薩廟らしき建物が写っているviので、再建されたモノなのか?元々甕城内は被害が軽微だったのかは自分には判断出来ません…。
中華民国4(1915)年に京奉鐵路敷設のために前門の甕城が除去された際も、関帝廟は壊されなかったようです。その後、軍閥抗争の際にも、日中戦争時にも、国共内戦の時も、再建された関帝廟は壊れずにいたようですね。
下の写真は1957年頃撮影された正陽門ですが、バッチリ関帝廟も菩薩廟も写ってます。

1957年頃の前門vii
というわけで、先週末に思いついて鎌倉に行ってきたので写真撮ってきました。今回は去年の夏も行ったコースですが、金沢街道沿いに覚園寺→鎌倉宮(大塔宮)→瑞泉寺を歩きました。去年はコレに百八やぐら=首やぐらも巡りましたから短縮したんですが、それでも歩きましたね…。
本来的には紅葉の名所と知られるこのあたりで、紅葉狩り~と言う趣向だったのですが、時期が遅かったこともあり今ひとつ…。まあ、京都の東福寺みたいなのを勝手に想像してた自分が悪いんですが…。
と、まずは覚園寺です。このお寺、鎌倉に残るお寺の中でもダントツで古いお寺なので自分は大好きなんですが、残念ながら境内の大半は撮影禁止となってます。とても残念ですが仕方ない。
覚園寺は元々は二代執権・北条義時の建てた持仏堂=薬師堂と言われています。例の実朝暗殺の時に薬師十二神将の戌神将が夢に現れて助けてくれたというので、恩に感じた義時が創建したと言われています。と言うコトで覚園寺境内は北条義時の大倉邸の跡地である可能性が高い場所ですね。源頼朝の大倉御所の近くにあったという話ですが、まあ、結構離れてます。
義時没後、源氏将軍が三代で途絶えて藤原将軍を迎えるに当たって、御所も宇都宮辻子御所に移転されたので、執権邸も小町邸(現在の宝戒寺周辺)に移りましたが、その後も特に北条得宗家の尊崇を集め、九代執権・北条貞時の時に外敵退散を祈念して覚園寺として整備されたようです。
と、覚園寺はその後の鎌倉幕府滅亡の頃に火事で焼失します。その際に再建したのが足利尊氏で、現在も薬師堂にその名が書かれています。江戸時代に改築に近い大修理を受けているとは言いますが、他の寺院に比べれば由緒は古いと言えるでしょう。
参考→ Wikipedia覚園寺
特に鎌倉宮の土牢はちょっと怪しいですからねぇ…。由来からしてテーマパークみたいな感じなんですよねぇ…。今回初めて見たんですが、やっぱり違うんじゃないかなぁ…という感想を新たにしましたww
鎌倉行ってもあんまり八幡宮って行かないんですが、何となく大銀杏のその後が気になって立ち寄ってみました。境内では屋台が出ていて、ぎんなんが売られていたのが印象に残りました。
いや、また行きたいですね!
と言うワケで今回で11月に行った聖地巡礼は最後。今回は岐阜県にある世界遺産、合掌造りの白川郷です。白川郷と言えばひぐらしのなく頃にですが、当方未プレイの上にアニメも見てないんですよね…。同行者はBGMだけでうるっと来て、更に景色を見てうるっときてました。やっぱりやってから行くべきだったかしら…。
でも、それ抜きに綺麗な場所でした。ココは泊まりがけで行きたかったですねぇ~。
当日、昼抜きで撮影敢行してたら、雨は降ってくるし日は暮れてくるしで大変でした。でも、一同文句なく当然のように雨の中飯も食わずにチェックポイントを目指して行きましたから、やっぱり目的があると違いますよねww
結局、飛騨牛まん、飛騨牛コロッケ、飛騨牛串焼きの屋台フルコースを食べたんですけどねw
と言うコトで11月始めに行った聖地巡礼第二段。鮮度は落ち始めてるけど、気にせず公開するのであった。
今回の舞台はココ→
マイナーなアニメですが、true tearsですね。ヒロインがみんなぶっ壊れてて愛おしかったですww
特徴的な場所があるわけではないので、ちょっと難しいですね。でも、現地に行ってあのアニメは富山の空気感キチンと描けてたんだな…と、納得出来ましたよ。
まあ、聖地巡礼とか抜きに綺麗なところでしたね。絵になる街です。
ガッツリ村興しする気満々だったみたいですね…。御免ねそんなにメジャーじゃなくて御免ねww