と言うワケで、ひょんなコトからハインリッヒ・シュリーマン/石井和子『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫 を読んでます。トロイヤ発見の8年前、当時はむしろクリミヤ戦争で財をなした商人として、シュリーマンは太平天国の乱平定直後の清国の北京と上海に訪れていたわけです。どうにも経歴を見ると香具師という印象が強いシュリーマンですが、旅行記は案外観察眼が確かでフィールドワークとしてはしっかりしたモノに思えます。
と言うワケで今回は前回に引き続き珍妃のお仕置きの回ですね。写真のことで皇后にいびられた珍妃は、李蓮英の売官のことをそれとなーく光緒帝に告げ口して、却って分を超えて政治に口出ししたことを慈嬉太后に責められて罰を受けます…。
と言うコトになっていますが、史実に残る事件は真逆ですね…。ちょっと長くなりますが引用します。
(前略)長春宮の回廊を飾る『紅楼夢』に壁画である。
透視図による斬新な構図と巧妙な遠近法、一草一葉にいたる細密絵画の手法は、あたかも長春宮が『紅楼夢』の世界の中に存在しているかのような錯覚をもたらす。
中国の『源氏物語』ともいわれる曹雪芹の長編小説『紅楼夢』は、帝王の封建制を批判したという理由で乾隆が「禁書」としたが、晩清にいたって西太后の愛読書となり、爆発的な流行をみた。西太后の熱中ぶりを知る瑾妃と珍妃の姉妹が、西太后六十歳の賀の贈物として、太后の居宮を飾るべく趣向を凝らしたのであろう。清末の進士で宮廷事情に通じた九鐘主人こと呉士鍳の著『清宮詞』の珍妃を詠った部分の注として「珍、瑾二妃は畫苑をして紅楼夢大観園を畫かしめ、内廷臣に詩を題せしむ」の添書がある。姉妹が発案して大観園の絵画を描かせただけでなく、さらに内定の官人に詩文を求めていたことが知られる。(中略)
まさに才気煥発を謳われた珍妃姉妹が西太后への恭順を示す「気のきいた贈物」であった。しかしこの抜群のアイディアが王臣達の疑念を招く結果になる。これだけの作品に要した金銭的負担───いかに皇帝の寵愛をうけているとはいえ、この正月、妃に昇格したばかりの姉妹ではないか。その封銀でとうてい賄えるはずもないこの制作費は、いったいどこから出たのだろうか、と。1
(前略)西太后六十歳の賀の恩恵として珍嬪とその姉は妃に昇格した。その感謝のしるしとして秋の祝典に披露された『紅楼夢』の障壁画は、その抜群の着想で廷臣たちをあっと言わせた。しかしその直後、もう一度全宮廷をあっと言わせる事件が生じる。姉妹そろって妃から無品の貴人に二階級降格させられたのである。(中略)
その問題とは、口利きによる収賄「売官」であった。2
と言うワケで、慈嬉太后に懲罰を受けたのは出しゃばって売官を糾弾したからではなく、還暦祝いの為に売官して儲けたためだったわけですね。このスキャンダルが発覚すると、芋蔓式に珍妃のお付きの太監や慈嬉太后お付きの太監も罪を問われて、死刑に処されています。となると、この事件の二年後には妃に復帰している珍妃と瑾妃はやはり光緒帝の寵愛あつかったと言うコトでしょうか…。もしくはスキャンダルを利用してお仕置きされたモノか…。どっちもありそうですけど。
2008年11月23日 宣和堂撮影 長春宮扁額
長春宮紅楼夢長廊
と、長春宮の写真です。いつもの如く写真はあるんですが、紅楼夢障壁画は絵画保護のためにガラスがビッチリはめ込まれているので、あんまりきれいに撮れないんですよねぇ…。暗いしフラッシュ弾くでまともに撮れたことがありません。自分の技術ではコレが精一杯。
で、個人的には待ちに待ってた李鴻章が漸く(名前だけ)登場するわけですが…原作と扱いが180°違います……。また大陸で評価変わってきたんですかねぇ…。近代化の英雄=ジェネラル・リーではなくどっちかというと、旧態依然とした漢奸買弁のイメージで進めるみたいですねぇ…。
代わって原作では名前が出て来ない馮子材が清仏戦争の英雄として出てきます。自分は寡聞にして知らなかったので、「ええ~清仏戦争って言ったら黒旗軍の劉永福じゃないの?」とガッカリでしたが、調べてみると実在の人物で太平天国関係では有名な人だった模様…。光緒帝とも縁があるので、あの文脈なら劉永福ではなく馮子材なんだろうなぁ…と納得。ちなみにこんなおじいちゃんだったみたいです。
《清史図典》第十二冊 光緒 宣統朝 下 P.222
今でも公園で太極拳してそうなおじいちゃんですが、六十超えてベトナム遠征してフランス軍の大砲の中に矛持って突っ込んで撃退したり、七十超えても義和団が迫る北京に駆けつけようとしたりする元気なおじちゃんだったみたいです。知らないコトっていっぱいあるんだなぁ…。勉強になりました。
さて、今回は春児の取材から始まります。…原作では取材後にハゲでデブで四十絡みのトマス・バートンが岡圭之介を連れて教会を訪れたりして、郎世寧ことジョゼッペ・カスティリオーネとベネチアングラスの関係について語ったりしたのですが、丸ごとカットですねそうですか…。堂子に安置してある龍玉がダミーという設定自体がすでに無いようなので、仕方が無いかも知れませんね…。
で、珍妃の出番です。今回は珍妃が宮中で写真を撮ると言うので一悶着、いつもイライラしてる皇后にイチャモンつけられます。
中央電視台《故宮》第五集 〈家国之間〉より
珍妃が写真好きであったとか、紫禁城にカメラを最初に持ち込んだのは珍妃であるとか、光緒帝とコスプレして太監に撮らせたとか言う話はあったみたいです。ただ、真っ当な本で読んだことがなかったり…。謎ですねぇ…。
で、今回は珍妃が生活していた景仁宮の写真でお茶濁します。
写真は全て2008年11月23日に宣和堂が北京故宮に参観した際に撮影したモノです。
景仁宮の入り口 障壁が大理石
景仁宮の扁額 質素で飾りがあんまり無いです
割と風情のない外観です
2008年11月23日時点では中で陶磁器を陳列してました
多分満洲国経由で摂取された溥儀旧蔵品
景仁宮でしか見なかった大きな木
景仁宮の井戸 ある意味こっちが本当の珍妃井w
東六宮の一つである景仁宮は、康煕帝の生地である…と同時に珍妃が戊戌変法の前に居住していた宮殿です。慈嬉太后が起居した西六宮と比べて地味な印象なのですが、本来は咸豊帝の正皇后・慈安太后が東六宮で暮らしていたことからも分かるように、宮殿のヒエラルキーとしては東の方が上です。
ただ、慈嬉太后の還暦祝いのリフォームが壮麗であったために、西六宮の方が豪華に見えますよね…。景仁宮は珍妃の悲劇性も相まって、非情に質素で閑散とした印象があります。珍妃井よりも気にしてみてる人はいなかったように思います。
留学時代は非公開地域だったので、参観したときにはテンション上がりましたw
で、今回はおまけで美顔ローラー。
永寿宮の展示室にて 手前右が美顔ローラー
前回見つからなかった美顔ローラーの写真です。自分が行ったときには永寿宮の陳列室で展示されてました。記憶は確かでしたw
と言うワケで、原作ではサラッと結婚していた梁文秀と楊喜禎の娘(ドラマ版では楊青筠)の結婚式がメインのお話。だから、こんないらん話する暇があったら郎世寧とジョーホイ(兆恵)の出番を削るなと…。
で、同時に醇親王・奕譞が病に倒れ、光緒帝は実父を見舞いたいけど、慈嬉太后に気兼ねして言い出せない…という所を、春児が巧いこと京劇を絡めて説得するのが見所ですね。原作ではサラッとしてた部分ですが…。
《故宮珍蔵人物照片薈萃》紫禁城出版P.62
←醇親王・奕譞と→恭親王・奕訢兄弟の写真です。光緒15(1889)年、それぞれ五十才と五十八才の時に恭親王府で撮られた写真です。
この写真だと醇親王はやせていますが、他の写真を見るとボーとしてちょっとふっくらしてます。ドラマの役者さんはヒゲの形はよく似てましたね。醇親王は良くも悪くもおっとりした性格で、光緒帝が即位した際も後見人として政治に参与しますが、あまり目立った事はしません。
一方の恭親王は咸豊帝の兄弟で次期皇帝候補とされていましたが、才気走ったところが父帝である道光帝から嫌われたモノか、太子密建儲ではワザワザ奕訢を恭親王に封じて、奕詝(咸豊帝)に皇位を継承させるとまで書かれたくらいデス。
しかし、親の期待を受けた咸豊帝は太平天国の乱やアヘン戦争で揺れる国内外の事件に対して無為で、アロー号事件で北京が焼け野原になるのを尻目に、自分は熱河避暑山荘で京劇を見ながら死んでしまいます。
次期皇帝として有力視されたくらいですから、有能であった恭親王はこの機会に慈安太后、慈嬉太后と組んでクーデターを起こして、顧命大臣たる怡親王・載垣、鄭親王・端華、粛順らを粛正します。この時、このクーデターが起こっていなければ、同治帝も祺祥帝と呼ばれていたんだなぁ…とか、その程度ですが(粛正された顧命大臣が定めた年号が祺祥だったので、排除された後は勝者たる東太后・慈安と西太后・慈嬉が共同統治する…という意味の同治という年号に収まったという経緯がある)。
実質的に慈嬉太后の治世を担っていた人物でありながら、色々と貧乏くじを引かされた感が否めません。
ちなみに、咸豊帝が皇四子、恭親王が皇六子、醇親王が皇七子です。なので、ドラマでもこの二人は六哥とか老七と呼び合って、見舞いに来た慈嬉太后のことを四嫂と呼んでも良いかとか言ってるんですね。醇親王、皇太后陛下と呼び合うよりは、ファミリー感漂う呼び名なワケです。
さて、この見舞いのために仕組まれた京劇が〈四郎探母〉だったわけですが、この演目も慈嬉太后ゆかりの演目ですね。
ドラマでは佘太君と楊四郎こと楊延朗が再会する場面でしたが、むしろ慈嬉太后が自己を投影させたのは四郎の義母である蕭太后の方ですね。当時の京劇を演じる人も異民族の皇太后という事で、慈嬉太后と蕭太后を重ねたみたいですが、慈嬉太后自体もそう見られることを好んだそうです。
うろ覚えですが、〈四郎探母〉の元々の結末は、楊四郎の正体が明らかになり、なおかつ実の母に会いに行っていたことを知ると、蕭太后は怒りにまかせて楊四郎を処刑する筋だったようです。慈嬉太后はこの結末を改めさせ、鉄鏡公主の懇願で楊四郎を救う筋に変えたみたいですね。
ちなみに、満洲八旗の子弟はそもそもが軍隊なので副業を禁じられていました。裕福な旗人は商業にも産業にも進出できなかったため、芝居に打ち込む人が多かったようです。芝居を見に行ったり、自宅に呼ぶだけでは飽きたらず、自分で演じたり、脚本を書いたり、仕舞いには自前の芝居小屋を建てたりしたみたいです。なので、民国時期の俳優には、満洲族出身者が多いらしいです。
で、芝居後に慈嬉太后は春児と話しながら、美容ローラーで顔を手入れしていました。あんなのあるわけないじゃん!と思うかも知れませんが、実際に美容ローラーは慈嬉太后の発案とする説もあります。北京故宮の展示を見たような気もしたんですが……写真あったと思ったら撮ってないですね…。あんだけ撮ってて何でコレを撮ってないのかなぁ…。
え~一回丸ごと恋バナの回ですね。こんな回を入れるくらいなら、李鴻章だって出せたろうに!!ムキー!です。原作では恋愛らしい恋愛もありませんし、玲玲に「乳吸ってよ」とか言わせるわけにも行かないでしょうし、春児×蘭琴の禁断の愛とかも大陸のお茶の間に流すわけに行かないので仕方ないんですが…。ミセス・チャンって全然美人イメージなかったんですけどねぇ…。そもそも、原作ではミセス・チャンと梁文秀って面識なかったと思うんですが…。
ちなみに、劇中、満洲人と漢人は通婚できないと再三言われていますが…実は出来たりしてます。と言っても、漢軍八旗と言われる清の入関前に清に帰順していた漢人部隊の子孫ですが…。蒙古八旗とともに満洲八旗と通婚を繰り返したために、独特の風習をこのクラスは保つことになり、満漢蒙八旗の子弟を総称して旗人と言うようになったわけです。なので、DNA的にはかなり漢人の血は入っていたようです。
ただ、生活習俗は満洲人と変わらなかったため、辛亥革命後に迫害を避けて、漢軍八旗の旗人は漢人に、蒙古八旗の旗人はモンゴル人と言うコトにしたようですが、ナカナカ巧く行かず、結局は旗人をひっくるめて満洲族として扱うようになったみたいですね。この辺は愛新覚羅烏拉煕春先生の『最後の公爵 愛新覚羅恒煦』朝日選書 あたりを読むと詳しく書いてあります。
と言うぐらい今回は書くことがないです。困った…。次回は恭親王と醇親王のネタにします。