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	<title>宣和堂遺事 &#187; 慈嬉太后</title>
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	<description>宣和堂の節操のない日記</description>
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		<title>地上の天宮 北京故宮博物院展</title>
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		<pubDate>Sun, 20 May 2012 12:38:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>宣和堂</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　と言うワケで行ってから一月も経ってしまった上に、もう終わった展示の記事を今頃書いてみたりするのです。 　今回は４月の下旬に東京富士美術館で行われていた地上の天宮 北京故宮博物院展です。正直なところ、東博での特別展 北京 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　と言うワケで行ってから一月も経ってしまった上に、もう終わった展示の記事を今頃書いてみたりするのです。<br />
　今回は４月の下旬に東京富士美術館で行われていた<a href="http://www.chijonotenkyu.jp/" target="_blank">地上の天宮 北京故宮博物院展</a>です。正直なところ、東博での<strong>特別展 北京故宮博物院200選</strong>→<a href="http://sengna.com/2012/01/23/gugong200/" target="_blank">記事１</a>、<a href="http://sengna.com/2012/01/30/gugong200_%EF%BC%92/" target="_blank">２</a>と比べるとどうしても見劣りするわけですが、まぁ、アレも政治的な何かでしょうから、こちらも思ったよりは面白い文物は来てたんですよ？と言うコトで、チョコチョコ見ていきましょう。<br />
<span id="more-1451"></span><br />
　№２A：<strong>《孝賢純皇后朝服像》軸</strong> →これは<strong>郎世寧</strong>の筆のモノでしょうね。<strong>特別展 北京故宮博物院200選</strong>でも皇帝の肖像画であのタッチを油絵ではなく、顔料絵の具で表現していることにやっぱり驚きます。何度見ても凄いですね。<br />
　<strong>№８：玉「孝荘皇后之宝」</strong>は…こんなのも残ってるんだなぁ…と、素直に感心しました。<strong>ホンタイジ</strong>の皇后で<strong>順治帝</strong>＝<strong>フリン</strong>の生母にして<strong>ドルゴン</strong>に再嫁したとも言われる人物の判子です。<br />
　で、<strong>№９：金亀紐「珍妃之印」</strong>と<strong>№10：銀鍍金珍妃冊</strong>は<strong>珍妃</strong>の印と、<strong>慈嬉太后</strong>の怒りを買って降格された後に再度<strong>妃</strong>に封じられたときの冊です。実物残ってるんですね。<br />
　<strong>珍妃</strong>をクローズアップしたからか？<strong>№11A-B：慶寛「光緒帝大婚典礼全図」</strong>も来てました。これも<strong>《康煕南巡図》</strong>同様に、ハレの日の<strong>紫禁城</strong>の様子が描かれているので、前から見たかった絵なのですが、何となく絵巻物だと思ったら画冊なんですね。一場面一場面を切り抜くような絵だったことに驚きました。何でも実物見て見るモンですね。<br />
　キャッチーなネタとして<strong>慈嬉太后</strong>＝<strong>西太后</strong>の肖像画である<strong>№93：慈嬉太后便服像</strong>も来てました。<strong>徳齢</strong>の著作ではアメリカ人女性画家<strong>カール</strong>が<strong>パリ万博</strong>に出展するために描いた…という触れ込みで紹介されていました。なんだか<strong>徳齢</strong>って言う人は著作での表現がオーバーで信用出来ないからか、図録でも書いたとされる…って感じに紹介されてますね。<br />
　で…この展示の目玉である<strong>№22：《女孝経図》巻</strong>なのですが…<strong>南宋</strong>の絵画という意味なら、もっと他にあるような…という気がしてしまい、あまり惹かれませんでした。まぁ、テーマには合うんでしょうけどあまり魅力があるとは思えませんでした。中に描かれている文士の顔が<strong>徽宗</strong>の作であると言われる《<strong>聴琴図</strong>》に似てるなぁ…とか、<strong>乾隆帝</strong>の印爾がやたら押してあるな～とかそれぐらいしか感想がなかったです。<br />
　それよりは、複製ではあるモノの、留学時代に<strong>北京</strong>で見て以来、15年ぶりに見る<strong>№54：顧閎中《韓熙載夜宴図》巻</strong>の方がテンション上がりますね。<strong>南唐</strong>の<strong>韓熙載</strong>の宴会の様子が闊達に書かれていて実に興味深いです。まぁ、当時の大臣級の人が<strong>李後主</strong>に疑われて密偵されたあげくの報告書…という触れ込みの絵なんですが、それにしては気合い入りすぎだと思うんですがねぇ…。まぁ、これも<strong>《清明上河図》</strong>と並び称される名画ですから、真筆の方が来てたら五時間待ちとかだったのかも知れません。と言うか、そもそも新中国になってから真筆が展示されたことがあるのかさえ疑わしいのですが…ww<br />
　で、<strong>№24A：《乾隆帝及妃威弧獲鹿図》巻</strong>は良く見る、<strong>乾隆帝</strong>が鹿に矢を射て、寄り添う<strong>妃</strong>が矢を差し出している絵ですね。これも部分は見たことはありましたが、全幅は初めてです。っと、今、図録のキャプション見たら矢を差し出している<strong>后妃</strong>は<strong>容妃</strong>ではないか？と書かれてますね…。所謂、<strong>香妃</strong>伝説のモデルになったと言われる人物です。で、良く見ると確かにこの<strong>后妃</strong>はお下げ髪を垂らしてますね。風俗的には<strong>マンジュ</strong>も<strong>モンゴル</strong>も<strong>漢族</strong>も女性がお下げ髪にすることはおおよそありません。ならばこの<strong>后妃</strong>を<strong>ウイグル</strong>とする方がなんだか説得力がありますね。<strong>香妃</strong>かどうかは置いといたとしても…ですが。<br />
　あとはおなじみの<strong>美顔ローラー</strong>も来てたんですが、自分が目に止めたのはこの程度と言うコトで。この展示は女性に焦点を当てていたので、比較的宝石とか服飾、装飾品の展示が多かったように思います。<br />
　まぁ、ワザワザおっかない思いしながら<strong>八王子</strong>まで行った甲斐はありましたね。もっと近場ならもっとよかったんですが、それも贅沢でしょうしw</p>
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		<title>黄馬掛</title>
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		<pubDate>Mon, 07 Mar 2011 15:13:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>宣和堂</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史]]></category>
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		<description><![CDATA[　と言うワケで辮髪画像が整理つかなくなってきたので、その過程で見つけた…というか今まで気がつかなかっただけなんですが、黄馬掛の画像を見つけたので、お茶濁すべくアップ。 　と、ココで黄馬掛について少し。今を去ること十数年前 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　と言うワケで<strong>辮髪画像</strong>が整理つかなくなってきたので、その過程で見つけた…というか今まで気がつかなかっただけなんですが、<strong>黄馬掛</strong>の画像を見つけたので、お茶濁すべくアップ。<br />
<span id="more-1104"></span><br />
　と、ココで<strong>黄馬掛</strong>について少し。今を去ること十数年前…自分は学生時代、<strong>上海</strong>に一年間留学して、帰国の際に<strong>友誼商店</strong>で<strong>清代</strong>の衣服である<strong>長衫</strong>と<strong>馬掛</strong>を買って帰りました（当然お土産物のレプリカです）。黒い<strong>長衫</strong>と臙脂の<strong>馬掛</strong>でした。折角買ってきたので、大学の卒業式に<strong>長衫</strong>と<strong>馬掛</strong>を着て出席しました。と、それを見かけた顔見知りの先生から「どうせ<strong>馬掛</strong>着て来るなら<strong>黄色</strong>にせんとあかんやろ！」と言われました。当時は<strong>清代</strong>についての知識はほぼゼロだった自分はキョトンとして、何で<strong>黄色</strong>じゃなくてはいけないのか？と、先生に聞きましたが、結局教えて頂けませんでした（まあ、意地の悪い先生だったので卒業式でそう言うコトするわけです）。<br />
　以来、なんで<strong>馬掛</strong>が<strong>黄色</strong>でなくてはならなかったのか…疑問に思いつつ答えが得られませんでした。帰国後間もなくインターネットは普及していたのですが、検索サイトも碌にない時代ですし、そもそもWikipediaはおろか個人サイトも満足に無い状態でしたから。で、卒業から数年経ったある日、加藤徹『<strong>京劇 「政治の国」の俳優群像</strong>』中公叢書（以下『京劇』） をペラペラ捲っていて、以下の文章に突き当たったわけです。</p>
<blockquote><p>　李鴻章は、かつて「黄馬掛」の着用を許されるという栄誉を与えられていた。馬掛は清朝の服装であるが、皇帝だけに許された黄色を許す、というのは、最高の名誉である。だが、黄海海戦の敗北の責任を問われた李鴻章は、勅命によって、黄色い馬掛を着用するという特権を剥奪された。<sup><a href="http://sengna.com/2011/03/08/huangmagua/#footnote_0_1104" id="identifier_0_1104" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="加藤徹『京劇 「政治の国」の俳優群像』中公叢書 P.65">i</a></sup></p></blockquote>
<p>　ココで漸く長年の疑問は氷解するわけです。なるほど！そう言うことか！ちなみに『<strong>京劇</strong>』は奥付を見ると2002年…そして<strong>黄馬掛</strong>が全面的に出て来る小説、浅田次郎『<strong>蒼穹の昴</strong>』講談社 の刊行は1996年ですから、もっと早くに『<strong>蒼穹の昴</strong>』を読んでいれば疑問の氷解も早かったハズですね…。買ってから結構長いこと寝かせましたからねぇ…。ちなみに『<strong>蒼穹の昴</strong>』でも<strong>李鴻章</strong>が<strong>黄馬掛</strong>を着て颯爽と現れる印象的なシーンがありますから、自分の中では<strong>黄馬掛</strong>＝<strong>李鴻章</strong>という刷り込みがあるわけです。黄馬掛といえばすぐに<strong>李鴻章</strong>が浮かびます。<br />
　ちなみに、ドラマ版『<a href="http://www.nhk.or.jp/subaru/">蒼穹の昴</a>』では殆ど李鴻章の出番が無かったので途中で放り投げてしまいました。しかし、ドラマ版『<a href="http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/">坂の上の雲</a>』第一部では出番は少ないながらもキチンと<strong>黄馬掛</strong>を着た<strong>李鴻章</strong>が出てきて（しかも結構似た俳優さん使ってましたね）、かなり好感を持ちました。しかも、傍らにいる<strong>袁世凱</strong>は<strong>黄馬掛</strong>ではない上、ちゃんと背の低いずんぐりむっくりした俳優さん使っていて思わずガッツポーズ取りました。これだよ！</p>
<p>　と、前置きが長くなりましたが、<strong>黄馬掛</strong>を下賜された三人の肖像です。<br />
<div id="attachment_1105" class="wp-caption aligncenter" style="width: 410px"><a href="http://sengna.com/wp-content/uploads/2011/03/soukokuhan.jpg" rel="lightbox[1104]"><img src="http://sengna.com/wp-content/uploads/2011/03/soukokuhan.jpg" alt="" title="曾国藩" width="400" height="484" class="size-full wp-image-1105" /></a><p class="wp-caption-text">《清代名人像冊・曾国藩像》（部分）<sup><a href="http://sengna.com/2011/03/08/huangmagua/#footnote_1_1104" id="identifier_1_1104" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="《清史図典》第十冊 咸豊 同治期 P.35">ii</a></sup></p></div><br />
<div id="attachment_1107" class="wp-caption aligncenter" style="width: 410px"><a href="http://sengna.com/wp-content/uploads/2011/03/sasoutou.jpg" rel="lightbox[1104]"><img src="http://sengna.com/wp-content/uploads/2011/03/sasoutou.jpg" alt="" title="左宗棠" width="400" height="633" class="size-full wp-image-1107" /></a><p class="wp-caption-text">《左宗棠克複杭州戦図・左宗棠像》（部分）<sup><a href="http://sengna.com/2011/03/08/huangmagua/#footnote_2_1104" id="identifier_2_1104" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="《清史図典》第十冊 咸豊 同治期 P.46">iii</a></sup></p></div><br />
<div id="attachment_1108" class="wp-caption aligncenter" style="width: 410px"><a href="http://sengna.com/wp-content/uploads/2011/03/rikousyou_h.jpg" rel="lightbox[1104]"><img src="http://sengna.com/wp-content/uploads/2011/03/rikousyou_h.jpg" alt="" title="李鴻章" width="400" height="676" class="size-full wp-image-1108" /></a><p class="wp-caption-text">《李鴻章克復蘇州戦図・李鴻章像》（部分）<sup><a href="http://sengna.com/2011/03/08/huangmagua/#footnote_3_1104" id="identifier_3_1104" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="《清史図典》第十冊 咸豊 同治期 P.44">iv</a></sup></p></div><br />
　言わずと知れた<strong>洋務派</strong>として知られる三人の肖像画です。うーん…スキャナが今ひとつなので、あまり綺麗じゃないですね…。三人とも写真が残ってますけど、特徴を捉えていて意外と似てます。でも、カラーだと印象変わりますね。特に<strong>黄馬掛</strong>が目に映えます！</p>
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		<title>陰門陣</title>
		<link>http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/</link>
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		<pubDate>Sat, 12 Feb 2011 18:55:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>宣和堂</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　と、言うわけで『義和団事件風雲録』を読んでいて見つけた陰門陣ですが、Googleさんで検索すると、割と２ｃｈあたりの記事に引っかかりますね…。流石に邦訳あるんだろうなと思ったらやっぱりあるんですな。たまたま実吉達郎『中 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　と、言うわけで『<strong>義和団事件風雲録</strong>』を読んでいて見つけた<strong>陰門陣</strong>ですが、Googleさんで検索すると、割と２ｃｈあたりの記事に引っかかりますね…。流石に邦訳あるんだろうなと思ったらやっぱりあるんですな。たまたま実吉達郎『<strong>中国妖怪人物辞典</strong>』講談社 が手元にあったのでちょっと長めですが抜粋してみます。</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=FFFFFF&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=406207883X" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
<p><span id="more-980"></span></p>
<blockquote><p>　明や清の既に火砲を用いて戦争をするような時代に入ってから、おこなわれたという珍戦術。明の末といったら、「もはや明の徳が衰えて、世の中は思い出しても厭わしいほど紊乱した折です、四百四州は地獄のようになったのであります」（幸田露伴「暴風裏花」改造文庫『龍姿蛇姿』所収）という時代だ。十三家七十二営、その一営だけで二、三万あったという流賊がいたるところを押しまわった。そのうちの一団が河南の汴梁（開封）を包囲し攻め立てた。三回にわたって猛襲したが、”守りには強い”という城兵はよく耐えて落ちない。流寇の首領は策に詰まった。そのあげく、”窮すれば通ず”で妙案を思いつき、陣中にいたあるいはほうぼうから拉してきた婦女たち数百名を先頭に立て、一人残らず下半身を裸出させた。しかも地面に逆立ちさせ城に向かい逆立ちさせ城に向かい思いきりののしらせた。これを号して陰門陣と称する。とんでもないエロ戦術だといいたいところだが、これが呪法だというのは面妖なのだ。「これにより城壁の上の大砲はことごとく発火しなくなった」。<br />
　城将陳永福も”名将”で、よしその儀ならばと敵方の裸婦たちとほぼ同数の僧を集め、彼らの裸身にして城壁に陳列させた。これを裸女戦術に対して陽門陣と称した。するとあああら不思議や、敵方の銃器・砲火もことごとく沈黙し、後退せざるを得なかったという（李光璧の『汴圍日録』）<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/#footnote_0_980" id="identifier_0_980" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="実吉達郎『中国妖怪人物辞典』講談社 P.15~16">i</a></sup></p></blockquote>
<p>　と、まあ<strong>陰陽合戦</strong>でも埒があかなくなったので、<strong>李自成</strong>側は<strong>開封</strong>を水攻めにしたと言うコトになるみたいですね…。<br />
　と、何だかこの後に澤田氏という単語が何回も出て来るので、サッと澤田瑞穂『<strong>中国の呪法</strong>』平河出版社 を調べてみると、どうやらこっちの方が元ネタみたいですね。</p>
<blockquote><p>　途方もない話になるが、陰部を丸出しにした女たちを陣頭に立てて敵に向かわせ、それで敵の火砲を沈黙させるという陰門陣の秘法は、うそかまことか、厭勝としてもすこぶる奇抜である。清・董含『三岡識略』巻一に見える「陽陣陰陣」の奇談がそれだ。<br />
　明末に流賊が河南の汴梁（開封）を包囲するや、城内では堅く守り、三回も攻撃を受けたが落ちない。賊は策に窮し、婦女数百人を拉致してきて悉く下体を露出させ、地面に逆立ちして城に向かって慢罵させた。号して陰門陣といったが、これで城壁上の砲はみな発火しなかった。守将の陳永福が、すぐさま僧をつれてきて、人数はほぼ敵と同数にし、裸体にして城壁の上に立たせた。陰門陣に対してこれを陽門陣といったが、賊軍の砲火もまた後退して不発に終わったと。詳細は李光壁の『汴圍日録』に見えているといるから、まるまるの作り話でもなかったらしい。<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/#footnote_1_980" id="identifier_1_980" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="澤田瑞穂『修訂 中国の呪法』平河出版社 P.402~403">ii</a></sup></p></blockquote>
<p>　書名だけではなく、巻数も載ってるので非常に便利です。ネットで検索するとすぐに見つかるこの幸せ…。でも、どうやら李光璧《<strong>汴圍日録</strong>》は書名だけで本文はネットには見当たらないみたいですね…。</p>
<blockquote><p><strong>陽陣陰陣</strong><br />
　先是，流寇圍汴梁，城中固守，力攻三次，俱不能克。賊計窮，搜婦人數百，悉露下體，倒植於地，向城嫚罵，號曰「陰門陣」，城上炮皆不能發。陳將軍永福急取僧人，數略相當，令赤身立垛口對之，謂之「陽門陣」，賊炮亦退後不發。詳見李光壂《汴圍日錄》，後群盜屢用之，往往有驗。嘗考黃帝風後以來，從無此法，惟孫子「八陣」中有「牝牡」之說，此豈其遺意與？<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/#footnote_2_980" id="identifier_2_980" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="清・董含《三岡識略》第一巻 &rarr;開放文學&gt;三岡識略">iii</a></sup></p></blockquote>
<p>　いや、<strong>孫子</strong>の<strong>八陣</strong>に<strong>雌雄陣</strong>なんてあったけ？wwっと、調べて見ると、どうも<strong>銅雀山</strong>発掘の<strong>竹簡</strong>には<strong>八陣</strong>という語は出て来るみたいですが、具体的には出て来ないみたいですね…。どうも怪しげな本には<strong>諸葛亮八陣</strong>とかと並べて紹介してるみたいですが、こうなると<strong>道術</strong>の一つと考えた方が良さそうですね…。</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=000000&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=4892030864" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
<p>　ついでなので他の事例も抜粋。</p>
<blockquote><p>　清・屠芴巌『六合内外瑣言』巻上「万人塚」にも、やはり陰門と陽門の対抗戦の話がある。<br />
　妖人の汪崙という者、薬を施して愚民を扇動し、山東斉州に事を構え、多くの女弟子を率いて清淵城を囲む。時に統軍の荊公が官兵を率いて城の囲みを解く。荊公は大砲でこれを撃たせた。すると賊は女弟子に声を限りに砲をまじなわせる。公は驚いて、「これ陰門陣なり、これを破るべし」とて、城内の兵卒に命じて下体の毛を剃らせ、これを砲中に置いて撃つに、賊多数を殺傷した。賊はまた年十五以下の少年たちに裸体で矢を城内に射させ、多くの死傷者が出た。荊公、「賊の勢さかんで今度は陽門陣で来おったわい」とて、多数の娼婦を城壁城に並ばせ、その陰所を露出して見せた。老陰少陽で少年部隊の負けとなり、一月ならずして賊は破れ、その徒を悉く城隅の大仏寺に集めて皆殺しにしたという。<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/#footnote_3_980" id="identifier_3_980" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="澤田瑞穂『修訂 中国の呪法』平河出版社 P.403~404">iv</a></sup></p></blockquote>
<p>　むしろ変に物知りで兵に陰毛剃らせる<strong>荊公</strong>怖い…。<br />
　《<strong>六合内外瑣言</strong>》の作者・<strong>屠芴巌</strong><sup><a href="http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/#footnote_4_980" id="identifier_4_980" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="魯迅/中島長文『中国小説史略 ２』東洋文庫 P.227によると屠紳のこと。芴巌は号。">v</a></sup>と言う人は《<strong>蟫史</strong>》と言う<strong>神怪小説</strong>の著者として知られている人みたいですね。<strong>乾隆</strong>年間から<strong>嘉慶</strong>年間に活躍したみたいです。《<strong>六合内外瑣言</strong>》も二度改訂を経ていて、編纂前は《<strong>瑣蛣雑記</strong>》とも言った様ですが、これも引っかからず…。ただ、どうやら《<strong>六合内外瑣言</strong>》は<strong>魯迅</strong>には<strong>志怪小説</strong>と捉えられていたようですが…<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/#footnote_5_980" id="identifier_5_980" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="魯迅/中島長文『中国小説史略 ２』東洋文庫 P.227">vi</a></sup>。<br />
　で、<strong>義和団</strong>の本拠であ<strong>る山東省</strong>での出来事ですから、<strong>乾隆嘉慶</strong>の頃とは言え、<strong>陰門陣</strong>の下地があったと言えるでしょう。</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=FFFFFF&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=4582806198" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
<p>　さらにこんな挿話も。</p>
<blockquote><p>　また、清・柴萼『梵天盧叢録』巻三十「厭炮」にも同様の例を挙げている。<br />
　光緒二十年（一八九四）の春、四川順慶の土匪が乱を起こしたので、徐吉林が全省の提督代理に署せられた。たまたま足の疾患のため、部将の馬総兵をして兵を率いて討伐させた。ある日、まだ戦闘が終わらなころ、ふと見ると敵陣の匪賊どもが、裸体の婦人数十人を押し立て現れ、哭声は天に震う。ために官軍の大砲は発火しなかったと。これが近人の筆記に見えるところでは、名づけて婚人厭砲というと。<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/13/hentai-shaman/#footnote_6_980" id="identifier_6_980" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="澤田瑞穂『修訂 中国の呪法』平河出版社 P.404">vii</a></sup></p></blockquote>
<p>　《<strong>梵天盧叢録</strong>》は<strong>プーアル茶</strong>の記述がある本として引用されることが多いみたいですが、テキストは見つかりませんでした…。作者の<strong>蔡鍔</strong>は<strong>辛亥革命</strong>後に<strong>日本</strong>に留学した人物みたいですね。お役人もやっていたようですが…。<br />
　いずれにしても、文章を信じると<strong>四川</strong>とはいえ<strong>義和団事件</strong>の五～六年前にも<strong>陰門陣</strong>の実例があったって言うことですね。なんか連綿と<strong>陰門陣</strong>の系譜が<strong>義和団事件</strong>まで続いていることを理解出来てしまいました。困りましたねぇ…wwww</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=FFFFFF&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=4469233129" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
<iframe src="http://www.facebook.com/plugins/like.php?href=http%3A%2F%2Fsengna.com%2F2011%2F02%2F13%2Fhentai-shaman%2F&amp;layout=standard&amp;show_faces=true&amp;width=450&amp;action=like&amp;colorscheme=light&amp;height=80" scrolling="no" frameborder="0" style="border:none; overflow:hidden; width:450px; height:80px;" allowTransparency="true"></iframe><ol class="footnotes"><li id="footnote_0_980" class="footnote">実吉達郎『中国妖怪人物辞典』講談社 P.15~16</li><li id="footnote_1_980" class="footnote">澤田瑞穂『修訂 中国の呪法』平河出版社 P.402~403</li><li id="footnote_2_980" class="footnote">清・董含《三岡識略》第一巻 →<a href="http://open-lit.com/list.php">開放文學</a>><a href="http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=436">三岡識略</a></li><li id="footnote_3_980" class="footnote">澤田瑞穂『修訂 中国の呪法』平河出版社 P.403~404</li><li id="footnote_4_980" class="footnote">魯迅/中島長文『中国小説史略 ２』東洋文庫 P.227によると屠紳のこと。芴巌は号。</li><li id="footnote_5_980" class="footnote">魯迅/中島長文『中国小説史略 ２』東洋文庫 P.227</li><li id="footnote_6_980" class="footnote">澤田瑞穂『修訂 中国の呪法』平河出版社 P.404</li></ol>]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>義和団事件風雲録</title>
		<link>http://sengna.com/2011/02/12/giwada/</link>
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		<pubDate>Sat, 12 Feb 2011 08:24:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>宣和堂</dc:creator>
				<category><![CDATA[書籍]]></category>
		<category><![CDATA[歴史]]></category>
		<category><![CDATA[中国史]]></category>
		<category><![CDATA[北京]]></category>
		<category><![CDATA[大清]]></category>
		<category><![CDATA[慈嬉太后]]></category>
		<category><![CDATA[故宮]]></category>
		<category><![CDATA[李鴻章]]></category>
		<category><![CDATA[珍妃]]></category>
		<category><![CDATA[辮髪]]></category>

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		<description><![CDATA[　と言うワケで、菊池章太『義和団事件風雲録 －ペリオの見た北京』あじあブックス を読了。義和団事件と言うよりは、ペリオの日誌の北京部分にフォーカスを当てた本ですね。ペリオは言わずもがな、敦煌文書で有名なフランスの東洋学者 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　と言うワケで、菊池章太『<strong>義和団事件風雲録 －ペリオの見た北京</strong>』あじあブックス を読了。<strong>義和団事件</strong>と言うよりは、<strong>ペリオ</strong>の日誌の<strong>北京</strong>部分にフォーカスを当てた本ですね。<strong>ペリオ</strong>は言わずもがな、<strong>敦煌文書</strong>で有名な<strong>フランス</strong>の<strong>東洋学者</strong>ですね。</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=FFFFFF&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=4469233129" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
<p><span id="more-949"></span><br />
　<a href="http://www.taishukan.co.jp/">大修館のホームページ</a>を確認すると、<a href="http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/30586">目次</a>はこんな感じデス。</p>
<blockquote><p>
<strong>はじめに</strong></p>
<p><strong>第１章　義和団事件の世界地図</strong><br />
中国の悲劇か／ザビエルの遺志／宗教行為 vs. 風俗習慣<br />
こじれたあげくの禁教／神社参拝にもつながっている<br />
おんぼろ帆船を口実に／義和団事件のふりだし／ただ一度の勝利の代償<br />
満洲皇族勢揃い／驚天動地オンパレード／清国争奪のひきがね／ついに暴発<br />
あわれ義和団の末路</p>
<p><strong>第２章　ペリオの手帳から</strong><br />
敦煌写本の発見／北京へ向けて／ナポレオンの遺産／再発見された手帳<br />
北京の日本人社会／舞台と装備一式／ペリオの仲間たち／動乱のきざし</p>
<p><strong>第３章　暗雲たれこめる北京</strong><br />
動乱はじまる／もたらされる情報／援軍の至急要請へ<br />
ペリオ、救援に向かう／いくつもの顔を持つ男／誤解の元凶か<br />
日本人書記生の受難</p>
<p><strong>第４章　翻弄される人々の群れ</strong><br />
戦闘のはずが？／どこよりも安全／また一斉射撃が／日本兵の面目躍如<br />
ついえた民族の遺産／救援軍到着のきざしか／期待と失望のはざま<br />
救援軍、鳩をはなつ？／籠城者の夢想談／あげくのはては開きなおり<br />
すべては清国兵が／もうひとつの籠城劇／難攻不落の物語<br />
いくらでも維持できる</p>
<p><strong>第５章　単身敵陣乗りこみ</strong><br />
ペリオ、敵の軍旗を奪う／軍旗の代償／得意げな男／敵陣乗りこみ<br />
危険なことは何もない？／おしゃべりで命拾い／休戦状態のはじまり<br />
戦いのあとで／北堂救出の諸相／何度でも建て直そう／フランス翰林学士の追想</p>
<p><strong>第６章　前近代か、汎時代的か</strong><br />
子どもを陣頭に／白蓮教から義和団へ／不老不死という願望<br />
こりない皇帝たち／ペリオの白蓮教研究／刀槍不入の幻想／孫悟空の憑依<br />
山東という土地柄／脅威の向かう先／多発する軋轢と葛藤<br />
騒動のかげにインテリあり／インドシナの教訓／義和団の名づけ親<br />
伸縮自在な勅令／毓賢から袁世凱へ／陰門には陽門で<br />
愛国者の国民的決起／紅い扇をかざす女神／ふたりの女神の末期<br />
日の下に新しいものなし／生きつづける教民</p>
<p><strong>第７章　いくつもの女帝像</strong><br />
西太后残酷物語／スパイの自白から／うずく古傷／徳齢の回想録<br />
問わずがたりに／端郡王への猜疑／老いのくりごと／権力者の揺らぎ<br />
戊戌政変への反動／宣教師なんか大嫌い／古都の静けさ／西太后の素顔</p>
<p><strong>第８章　ペリオ、中央アジアへ</strong><br />
義和団事件後のペリオ／ふたたびアジアへ／流謫の皇族との邂逅<br />
いやされざる記憶／先陣争いには敗れたが／洞窟のなかでの格闘<br />
華北でのやりのこし／チベットの研究、そして探検<br />
チベット大蔵経の日本将来／まぼろしの門戸開放計画／義和団事件の遺産<br />
東洋学のひとつの出発点</p>
<p><strong>参考文献</strong></p>
<p><strong>登場人物</strong></p>
<p><strong>あとがき</strong></p></blockquote>
<p>　読み応えがあったのは、第一章の<strong>典礼問題</strong>のあたりと、やはり第六章の<strong>義和団</strong>の記述ですね。その他は<strong>ペリオ</strong>の日誌に付属した写真は貴重ですね。<strong>ペリオ</strong>が奪取したという官軍（おそらく董福祥の軍）の旗の写真は文章と相まってナカナカ感慨深かったです。<br />
　逆に第七章の<strong>慈嬉太后</strong>のあたりは、ワザワザ<strong>徳齢</strong>の記事から<strong>慈嬉太后</strong>の言動を擁護しようとしているようですが、よりによって…という気もしますね…。<strong>徳齢</strong>ってどうも牽強付会で自分に都合の良いように事実を曲げる人って言う印象が強くて…。<br />
　個人的には当時、《<strong>永楽大典</strong>》の副本と《<strong>古今図書集成</strong>》の銅版本が<strong>公使館街</strong>に隣接した<strong>翰林院</strong>にあり、尚且つ<strong>八ヶ国連合軍</strong>の侵攻ではなく、無知蒙昧な<strong>義和団</strong>の破壊活動で焼失したわけではないことが書かれているのがなるほどと言った感じデスね。この辺は柴五郎・服部宇之吉/大山梓 『<strong>北京篭城―付北京篭城回顧録</strong>』東洋文庫 あたりでも出てきますが、<strong>ペリオ</strong>は放火ではなく火災という表現を使っているみたいです。どちらにしろ<strong>八ヶ国連合軍</strong>が意図的に<strong>翰林院</strong>を襲って《<strong>永楽大典</strong>》を燃やしたわけではありません。大砲の下敷きににはしたみたいですけど…。<br />
　<strong>端郡王</strong>・<strong>載漪</strong>と<strong>輔国公</strong>・<strong>載瀾</strong>は捉えられた間者から、名指しで<strong>公使館</strong>攻撃の急先鋒とされてますね。その割に<strong>大阿哥</strong>・<strong>溥儁</strong>は名前が出てきませんwでも、<strong>ペリオ</strong>が後年、<strong>西域</strong>探索のために<strong>ウルムチ</strong>に立ち寄った際に、<strong>輔国公</strong>・<strong>載瀾</strong>からかなり厚遇を受けた模様です。感慨深いですね。<strong>ペリオ</strong>が引くくらい<strong>輔国公</strong>・<strong>載瀾</strong>はあれやこれやと世話を焼いてくれて、酒の勢いで<strong>義和団</strong>事件の思い出話をした上、男泣きしたみたいです。彼曰く、<strong>義和団</strong>を<strong>北京</strong>に引き入れたのは彼でも<strong>端郡王</strong>でもなく<strong>軍機大臣</strong>の<strong>剛毅</strong>だったと主張してますが、これも帰京に対する一縷の望みを<strong>ペリオ</strong>に託したのでは？とも取れるので何とも言えませんね。</p>
<p>　あと、<strong>義和団</strong>関係の記事は面白いですね。特に騒乱の影にインテリが関わっており、民衆を扇動したのではないか？という記事には考えさせられました。また、役所に頼るよりも迅速且つ有利な結果が得られるコトが多かったので、ゴロツキ同然の人間が洗礼を受けて教会に属すことがあったので、一般的な民衆からは恨みを買ったというのはなるほど納得です。更には<strong>義和団事件</strong>後に騒乱の中心地であった<strong>山東</strong>では、騒乱前よりも<strong>キリスト教徒</strong>が数を増やしていることから、<strong>義和団</strong>に属して騒乱に参加したした人たちの中で、<strong>官憲</strong>からの追求を逃れるために教会の庇護を求めたのでは？という推論はかなり説得力があります。庇護が求められるのであれば、どういう勢力でも構わなかったと言うことですねぇ…。<br />
　詳しくは三石善吉『<strong>中国、1900年―義和団運動の光芒</strong>』中公新書 あたりを読んだ方が良いと思いますが、こちらでは更に怪しい事例が紹介されてますね…。</p>
<blockquote><p>　公使館区包囲の情勢を奏上した檔案のなかに奇異な一文がある。<br />
　公使館の門前にすっぱだかの女が立ちはだかり、守備につとめているという。義和団員もびっくりこいて刀槍不入も身体鍛錬も効かなくなってしまうのだった。<br />
　この秘術、人呼んで陰門陣という。陰部まるだしの女を陣頭に立てて敵の火砲を沈黙させる。大砲を男根に見立てて、陰々たる圧力でそれを萎縮させるのだ。そんなアホなと思われるかも知れないが、史上例が少なくない。<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/12/giwada/#footnote_0_949" id="identifier_0_949" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="P.124">i</a></sup></p></blockquote>
<p>　おお！<strong>西洋妖術</strong>対<strong>義和拳</strong>のスペシャル対決が！心躍る対決ですが、種明かしをすれば、以下の通りになる模様…。</p>
<blockquote><p>　さて、問題は檔案の記事である。かくのごとき高等戦術をわきまえぬ西洋人には、とてもできることではない。どこから出た訛伝なのか。<br />
　ペリオの手帳、六月二十一日の記事に言う。</p>
<blockquote><p>義和団の軍隊が頭上に旗をかかげてオーストリア公使館までいたり、殺戮をはじめた。マネキン二体を使う。英兵と日本兵が発砲。相手はしろうとの中国人だ。</p></blockquote>
<p>　マネキンをかつぎ出し、敵にやりたいだけやらせているところを銃撃したのか。相手はマネキンなど見たこともない人種である。そうとは知らない清国兵が見たら、西洋婦人もいよいよ陰門陣開陳かと勘違いしても無理はない。弾丸よけの呪法も破られて当然なのだ。<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/12/giwada/#footnote_1_949" id="identifier_1_949" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="P.125">ii</a></sup></p></blockquote>
<p>　何だかガッカリですね…。ロマンがありませんwでも、報告書で当然のように出て来るくらい<strong>陰門陣</strong>はポピュラーな存在だったみたいですね。長くなりますが引用すると以下の通りです。</p>
<blockquote><p>　明末の崇禎十五年（一六四二）、李自成が河南第一の都市汴梁（開封）を襲ったときのことである。官軍による城壁の守りはすこぶる強固であった。そこで拉致してきた女たちを裸にして陰門陣で臨んだところ、城壁の大砲は発火しなくなった。あわてた官軍は坊さんをはだかにして陽門陣で対抗したところ、賊軍の砲火も不発に終わったという。陰を封ずるに陽をもってするところは流石である。しかもどちらも効果てきめんというのがまたすごい。<br />
　相田洋氏によれば、陰門陣の登場は十六世紀にまでさかのぼるという。このころヨーロッパから仏郎機砲が伝わり、さらに巨大な紅衣砲が伝わって、官軍の火砲は威力は圧倒的になった。そのため賊軍の方では、軍事的劣勢をおぎなうために呪法にでもたよらざるを得なくなったのだろう。かくして明末に盛んになり、その後も延々と使われつづけた。太平天国の乱のときも陰門大活躍だったそうだ。これは魯迅が乳母から聞いた話として、『朝花夕捨』に出てくる。<sup><a href="http://sengna.com/2011/02/12/giwada/#footnote_2_949" id="identifier_2_949" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="P.124～125">iii</a></sup></p></blockquote>
<p>　暇があったらちょっと<strong>陰門陣</strong>については調べてみたいです。<br />
　ともあれ、<strong>辮髪</strong>的には読んで損ナシという感じの本でしたね。写真も多くてナカナカです。個人的には<strong>ペリオ</strong>抜きで<strong>義和団</strong>と<strong>清国朝廷</strong>だけの構成でもっと読みたかったデス。</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=FFFFFF&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=458280053X" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=FFFFFF&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=4121012992" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
<p>　<br />
　それにしても、今回の記事でWikipediaの<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1">義和団の項目</a>を見てみたんですが、相変わらず<strong>珍妃</strong>の遺体を引き上げたのは<strong>日本軍</strong>ってコトになっているんですね…。何が出典なのかな…。一応、加藤徹『<strong>西太后―大清帝国最後の光芒</strong>』中公新書 によると、<strong>西安</strong>からの帰京前に<strong>慈嬉太后</strong>の命で引き上げられたとかなり具体的に書かれているんですけどねぇ…。</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&#038;bc1=FFFFFF&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as4&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;asins=4121018125" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
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		<title>シュリーマン旅行記 清国・日本#1</title>
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		<pubDate>Wed, 26 Jan 2011 13:53:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>宣和堂</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　と言うワケで、ひょんなコトからハインリッヒ・シュリーマン/石井和子『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫 を読んでます。トロイヤ発見の８年前、当時はむしろクリミヤ戦争で財をなした商人として、シュリーマンは太平 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　と言うワケで、ひょんなコトからハインリッヒ・シュリーマン/石井和子『<strong>シュリーマン旅行記 清国・日本</strong>』講談社学術文庫 を読んでます。<strong>トロイヤ</strong>発見の８年前、当時はむしろ<strong>クリミヤ戦争</strong>で財をなした商人として、<strong>シュリーマン</strong>は<strong>太平天国の乱</strong>平定直後の<strong>清国</strong>の<strong>北京</strong>と<strong>上海</strong>に訪れていたわけです。どうにも経歴を見ると<strong>香具師</strong>という印象が強い<strong>シュリーマン</strong>ですが、<strong>旅行記</strong>は案外観察眼が確かでフィールドワークとしてはしっかりしたモノに思えます。</p>
<div align="center"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_top&#038;bc1=000000&#038;IS2=1&#038;npa=1&#038;bg1=FFFFFF&#038;fc1=000000&#038;lc1=0000FF&#038;t=sengnadou-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;m=amazon&#038;f=ifr&#038;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&#038;asins=4061593250" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>
<p><span id="more-942"></span><br />
　紙数的には<strong>清国</strong>よりも<strong>幕末</strong>の<strong>日本</strong>に割かれてますが、とりあえず<strong>上海</strong>→<strong>天津</strong>→<strong>北京</strong>→<strong>古北口</strong>→<strong>長城</strong>の旅程の部分で書かれていることをメモ。</p>
<p><strong>蒸気船</strong><br />
<strong>上海</strong>→<strong>天津</strong>＝蒸気船：<strong>燕子飛号</strong>（80両 航程59時間…後に５日の記述も）<br />
<strong>天津</strong>→<strong>上海</strong>＝汽船：<strong>エッソ号</strong>（80両 航程２日半）<br />
　とにかく<strong>燕子飛号</strong>が気にくわなかった模様。</p>
<p><strong>清国の税関</strong><br />
　元々は<strong>清国官吏</strong>を<strong>税関吏</strong>を充てていたが、<strong>アロー号事件</strong>後に締結された<strong>北京条約</strong>により、賠償金を支払い終えるまで<strong>外国人</strong>を登用せざるを得なかった。しかし、皮肉なことに結果的にはそれまでよりも税収が遙かに増大し、<strong>清国官吏</strong>の腐敗が浮き彫りとなったので、<strong>清国</strong>は自国民の官吏を罷免して、以後税収業務を<strong>漢語</strong>の出来る<strong>西洋人</strong>を雇って当たらせるようになった。<br />
　<strong>税関吏</strong>として採用出来るほど<strong>漢語</strong>を習熟した<strong>西洋人</strong>を国内だけでまかなえなかったので、<strong>清国政府</strong>は<strong>欧米</strong>から若者を招聘し、<strong>漢語</strong>習得のために1年の猶予を与え、その後業務に就かせた。<br />
　<strong>シュリーマン</strong>は実際に<strong>漢語研修中</strong>の<strong>欧米</strong>出身者六名と会って、話を聞いている。</p>
<p><strong>大沽要塞</strong><br />
　<strong>シュリーマン</strong>は<strong>天津</strong>から<strong>北京</strong>に向かう途中に<strong>大沽要塞</strong>を通過している。当時<strong>北京条約</strong>により、北の要塞に<strong>仏軍</strong>、南の要塞に<strong>英軍</strong>が駐留していた。期間は賠償金が支払われるまでの間。</p>
<p><strong>天津</strong><br />
　不潔。<strong>清国</strong>でも筆頭の汚さ。街並みはゾッとするほど不潔。</p>
<p><strong>馬車</strong><br />
　<strong>シュリーマン</strong>は二輪の天蓋付きの馬車に搭乗。ヨーロッパの馬車との違いに戸惑い、馬車に乗るのは拷問、<strong>清国人</strong>が平気なら神経系統の欠陥か特質によるものとしている。</p>
<p><strong>北京</strong><br />
　圧倒的な<strong>城壁</strong>。街は<strong>皇帝の街</strong>、<strong>韃靼人の街</strong>、<strong>漢人の街</strong>に別れている。<strong>シュリーマン</strong>は偉大な城壁を見て<strong>マルコ・ポーロ</strong>に思いを馳せる。</p>
<p><strong>宿</strong><br />
　ゾッとするほど不潔な旅籠。<strong>シュリーマン</strong>は仏教寺院に１日６フランで宿泊。部屋には調度品がベッドと机と床几が一つずつ。窓はガラス張りではなく障子張り。20時には<strong>北京</strong>中が眠っているので食事も取れない。緑茶は酷い品質で砂糖もミルクも手に入らない。米の品質も悪く寺には塩さえもない。ナイフフォークはなく箸のみ。</p>
<p><strong>街路</strong><br />
　どの家も中庭に面して窓がある。窓が道に面しているのは商店のみ。どの通りにも半壊若しくは全壊の家があり、ゴミが道に捨てられ山になっている。道にも所々大きな穴があり馬に乗っている時には注意が必要。どこへ行っても埃が陽光を遮り、ボロを纏った乞食につきまとわれる。<br />
　<strong>北京</strong>では普通の人が輿に乗ることは法律で禁じられている。結婚式でもない限り輿に乗ることは出来ない。</p>
<p><strong>罪人</strong><br />
　1ｍ30ｃｍ四方の板状の手枷首枷にした<strong>罪人</strong>が至る所で見られ、中には１０ｋｇの鉄塊を腕や足にくくりつけた<strong>罪人</strong>も居る。<strong>罪人</strong>は手枷首枷をしたままでは食事が出来ないため、通行人に食物を恵んで口に入れてくれるように懇願する。<strong>罪人</strong>の罪状と刑期が手枷足枷や背中に取り付けられた高札に記されている。<strong>罪人</strong>は刑具が許す範囲で街中を自由に歩き回ることが出来るが、街を一歩でも出ようとすると死刑になる。</p>
<p><strong>刑場</strong><br />
　<strong>シュリーマン</strong>は実際に<strong>刑場</strong>を通りかかって、鉄籠に入った斬首された首を見ている。それぞれの籠には罪状を記した高札が取り付けられている。</p>
<p><strong>兵士</strong><br />
　武器を持っていなければ外見上は<strong>民間人</strong>と一緒。違いは彼らが持った武器と官帽を被った指揮官。</p>
<p><strong>纏足</strong><br />
　<strong>清国</strong>の女性の美しさは足の小ささだけで計られる。<strong>漢人</strong>の女性はどんなにおしゃれに無頓着な人でも靴だけは贅沢なモノを履こうとする。<br />
　<strong>シュリーマン</strong>は実際に<strong>纏足</strong>の女性の素足を見た模様。また、<strong>纏足</strong>は<strong>漢人</strong>だけの風習で、<strong>モンゴル人</strong>は<strong>纏足</strong>にしないコトを喝破。</p>
<p><strong>賭博</strong><br />
　<strong>清国人</strong>は生来賭け事が好きで、どの通りにも<strong>賭博場</strong>があり、戸外にも<strong>賭場</strong>が無数にある。即席料理の行商人が沢山居て、料理の外に菓子を景品にしたおみくじも行っている。また、<strong>寺院</strong>では<strong>神籤</strong>が行われている。</p>
<p><strong>古観象台とアダム・シャール</strong><br />
　<strong>古観象台</strong>に行き、<strong>天球儀</strong>など青銅製の観測器具を見物<sup><a href="http://sengna.com/2011/01/26/schliemann1/#footnote_0_942" id="identifier_0_942" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="1900年の八カ国連合軍による北京占領の際、観測器はドイツ・フランスに略奪されるている。シュリーマンは略奪以前に古観象台に来ていることになる。">i</a></sup>。しかし、この頃は天文台は活動はしていなかった模様<sup><a href="http://sengna.com/2011/01/26/schliemann1/#footnote_1_942" id="identifier_1_942" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="現在古観象台を管理する北京天文館のホームページである欢迎光临北京天文馆によると、中華民国成立後の1927年までは天文観察を行っていたことになっているのだか&hellip;">ii</a></sup>。<strong>シュリーマン</strong>は<strong>アダム・シャール</strong>の事績に感動しつつ<strong>古観象台</strong>から16ｋｍ離れた<strong>カトリック墓地</strong>に行き、墓参りをしている。墓地の中でもとりわけ大きな<strong>墓</strong>だったらしく、<strong>墓</strong>と<strong>墓誌銘</strong>までの距離が１０ｍもあったと記している。<strong>墓誌銘</strong>は<strong>漢語</strong>と<strong>ラテン語</strong>の合壁。</p>
<p><strong>紫禁城</strong><br />
　君主の牢獄。<strong>皇帝</strong>は旧習に縛られて決して外出できない<sup><a href="http://sengna.com/2011/01/26/schliemann1/#footnote_2_942" id="identifier_2_942" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="清代の皇帝の全てが当てはまるわけではないが、当時の皇帝である同治帝に関しては決して嘘ではない">iii</a></sup>。<strong>シュリーマン</strong>は<strong>清国</strong>の文明開化のためには、<strong>アロー号事件</strong>の際に<strong>円明園</strong>だけでなく<strong>紫禁城</strong>も破壊すべきであったとしている。<br />
　<strong>シュリーマン</strong>が<strong>皇城</strong>の城壁近くの塔に登ると、視界を遮るモノはなく、<strong>皇城</strong>を全景を見渡すコトが可能だった模様。<strong>紫禁城</strong>全体がまさに朽ち果てんとしており、草木が<strong>宮殿</strong>の瓦や<strong>寺廟</strong>を埋め尽くし、<strong>庭園</strong>の<strong>石橋</strong>も壊れていない橋がなかったと記している。</p>
<p><strong>寺廟</strong><br />
　<strong>シュリーマン</strong>は<strong>皇城</strong>の帰りにいくつかの寺廟を巡っている。建物自体の荘厳さを讃えながら、荒廃振りと手入れの不備を嘆き、<strong>清国皇室</strong>がこれらを保護しなかったことを糾弾している。</p>
<p><strong>劇場</strong><br />
　漢人街の通りに三つの劇場があり、二つの劇場は満員だったため、三つ目の劇場の桟敷席で観劇。<strong>京劇</strong>の舞台は<strong>欧州</strong>と舞台と違い幕も書き割りも無い…劇場には男性客のみで、女性が観劇する行為は慎みのないことだとされている…客席には白酒、茶、パン（？）、ジャム（？）、スイカのタネ、ブドウの房、野菜、飯、リンゴ、ナシ、タバコが置いてある等々と指摘している。<br />
　<strong>清国</strong>では俳優は差別（軽侮）されている、また、<strong>女性</strong>は俳優にならないしきたりがあり、<strong>男性</strong>が<strong>女性</strong>を演じるコトになるが、それだけの演技力を備えている。<br />
　この日の演目は、英雄的な叙事詩→歌と音楽の入った劇→おどけた芝居→？。幕間がないので、演目は次々にかけられる。<strong>シュリーマン</strong>はそれぞれに感心しながらおどけた<strong>芝居</strong>が言葉が分からなくても内容が理解出来た！と俳優の演技力を褒めている。<br />
　また、<strong>シュリーマン</strong>は<strong>京劇</strong>の伴奏や歌唱法に違和感を感じながらも、観客が満足していたコト、<strong>ヨーロッパ</strong>と違い拍手喝采せずに盛んに賞賛の声を上げる<sup><a href="http://sengna.com/2011/01/26/schliemann1/#footnote_3_942" id="identifier_3_942" class="footnote-link footnote-identifier-link" title="この時代は「好！」の掛け声のみで拍手は無かったと言うコトなのだろうか？">iv</a></sup>コトも記録している。<br />
　<br />
<strong>食堂</strong><br />
　不潔なコトを除けばまぁまぁの店。<br />
　箸のみでナイフフォークがない。手掴みで食べようとすると、楊枝を出してくれた。取り皿がない。ワインは無かったが玫瑰酒が出てきた。</p>
<p>前菜：野菜の漬物や燻製？、キュウリとソラマメのようなモノをペーストにして油と乳性で味付けした料理<br />
細かく切ってあってこってりとしたスープがたっぷり掛かった鶏料理、魚料理<br />
ツバメの巣のスープ</p>
<p>　店のススメでツバメの巣のスープを食べたモノの、味が無く魚のねばねばしたものに似ている、<strong>ジャワ島</strong>で見た砂糖煮の方が美味しそうだった。ツバメの巣は強壮剤、あるいはアヘンの解毒剤として食べられる。</p>
<p>　と、<strong>長城</strong>に行く前に力尽きたので今日はここまで。</p>
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