孝荘文皇后と愉快な仲間達-モンゴル女性編

 と言うワケで、BSジャパンで始まった《山河戀·美人無淚(邦題:宮廷の泪 山河の恋)》をツラツラ見てます。このドラマ、清初皇后というか皇太后というか太皇太后として有名な孝荘文皇后の一代記ですね。孝荘文皇后モンゴルホルチン部ボルジギット氏出身なので、お粗末ですがモンゴルのシーンがあります。意外と新鮮ですね。こんなに頻繁に往来できるほど、盛京(ムクデン・ホトン)とホルチン部の放牧地が近いとは思えませんが、孝荘文皇后のドラマというとホンタイジに嫁いでからドルゴン初めとしたマンジュの人々と絡む印象があったんですが、確かに孝荘文皇后の叔母である孝端文皇后も姉である敏恵恭和元妃も当然モンゴルに居たときからの血縁ですからモンゴルから話を始めて因縁を描くのはありだなぁ…と感心した次第です。まぁ、そこは良いのですが、モンゴルの装束の考証は無茶苦茶ですし、折角八旗が出て来るのにホンタイジドルゴンも馬に乗らずに袁崇煥と対戦してるあたりは…そこまで予算無かったのかなぁと悲しくなりますが…。まぁ、ちゃんとドルゴン正白旗の鎧着てたりするので、その辺は大目に見ないとダメっすかねぇ…。
 と、ドラマ見てて気になったのでこのドラマに出て来る人達の記事をWikipediaとか百度の記事あたりを見ながらツラツラまとめてみようかと思います。
 尚、人名はカタカナ(マンジュ語ローマ字表記 漢語表記)という順番で表記していこうかと。

 


孝荘文皇后⇒本名:ブンブタイ(Bumbutai 布木布泰)i
 万暦41(1613)年、モンゴルホルチン部(Qorčin 科爾沁)の首領・ジャイサン・ベイレ(Jaisang Beile 寨桑貝勒 追尊:ホショ忠親王)iiの娘として出生。
 天命10(1625)年、数えで13才の時に叔母である孝端文皇后ジェレの夫ホンタイジに嫁ぐ。当時はまだヌルハチは健在で、結婚当時ホンタイジは有力者とは言えベイレの一人に過ぎない。ちなみに、万暦41(1613)年生まれのブンブタイ万暦20(1592)年生まれのホンタイジとは21才差の年の差婚。ちなみにドルゴン万暦40(1612)年生まれなので、1才差。
 翌年、天命11(1626)年、ヌルハチが没したためホンタイジハン位を継いで即位。天聰3(1629)年には長女・ヤトゥ(Yatu 雅図)iii固倫雍穆公主(ホンタイジの四女)、天聰6(1632)年には次女・アトゥ(Atu 阿図)iv固倫淑慧公主(ホンタイジの五女)、天聰7(1633)年には三女・固倫端献公主(ホンタイジの七女)を相次いで出産する。
 天聪8(1634)年には、またしてもホルチン部よりブンブタイの姉である敏恵恭和元妃ハイランジュが嫁ぐ。
 天聰9(1635)年、ホンタイジチャハル部リンダン・ハーンを攻略した際に大元の玉爾・制誥之宝を入手し、崇徳元(1636)年にダイチン・グルンの帝位に就いた際にブンブタイ建福宮・莊妃(Wanrgi ashan i hūturingga booi jingji fujin)に封じられる。これは叔母である清寧宮(中宮)皇后ジェレや姉の関雎宮(東宮)宸妃ハイランジュと比べても地位は低い(永福宮は次西宮) v崇徳3(1638)年には男児・フリン順治帝を出産。
 崇徳8(1643)年、ホンタイジが急逝。後継者を決定する合議が開かれたが、有力候補のホンタイジの異母弟・ドルゴンホンタイジの長子・ホーゲ…と両者を推す派閥viが対立が先鋭化し、あわやダイチン・グルンを二分する事態となった。どちらかを立てるとどちらかが角逐される局面になることを避けるべく、どちらの派閥でも無い数え6才のフリンが帝位を継ぐことに決定する。この際に莊妃フリンを帝位に就けるべく奔走した…と言われるものの具体的に何をしたのかは不明。ともあれ、皇帝の生母と言うコトで莊妃皇太后となる。
 更に翌 順治元(1644)年、大明大順李自成に滅ぼされると、ドルゴン率いるダイチン軍は山海関の守将・呉三桂の降伏を受け入れる形で進軍し、李自成の軍勢を一掃して大明を継ぐと称して4月には北京を占領。9月には順治帝北京に移動し、10月には中華皇帝として武英殿で即位。と言うコトでおそらく、皇太后となったブンブタイも同行したと思われる。
 以後、ドルゴン率いるダイチン軍は陝西から湖南に逃げ延びた李自成勢力を駆逐し、更に華南で割拠した南明政権と対立していくことになる。
 この時期、莊妃ドルゴンに嫁ぎ、ドルゴン皇父摂政王を称した…とする説があるものの俗説とされる事が多い…。しかし、中には本気でそう信じている研究者もいる模様。遊牧民特有のレビレート婚と言う説を取る向きが多いが、この時期のマンジュにレビレート婚の実例はあまり多くは無いようだが、ドラマなどでは面白いので皇后再嫁説が取られることが多い。
 順治7(1650)年にドルゴンが狩猟中に死去すると、数え13才で順治帝が親政を開始。
 しかし、順治18(1661)年、順治帝フリンが24才という若さで急逝。この際に順治帝は最愛の董顎妃を前年に死別したため、菩提を弔う為に五台山で出家し、その際に皇太后と対立したとかしないとか言う説もあるが、具体的なことは分からない。ともあれ、順治帝の遺詔により皇太子に册封された皇三子・玄燁康煕帝が数え8才で即位する。代がかわりブンブタイは以後太皇太后と呼ばれることになる。
 開明君主とも称される康煕帝玄燁は即位以来、祖母とその侍女のスマラ姑の英才教育を受けた模様。実際、康煕帝太皇太后のみならずスマラ姑に対しても終生敬意を払い続けた。しかし、順治帝の遺詔により実際の行政は輔政大臣ソニン(正黄旗)、スクサハ(正白旗)、エビルン(鑲黄旗)、オボイ(鑲黄旗)の四人に任された。最長老のソニン在世中は何とかバランスを保っていたが、ソニン康煕6(1667)年に死去すると、次第に地位が一番低かったオボイが他の二人を圧倒して専権を振るうようになった。康煕8(1669)年には遂に康煕帝オボイを拘束して断罪してこれを監禁した。康煕12(1673)年、平西王呉三桂が謀反を起こし三藩の乱が発生する。足かけ8年に及ぶ内戦を若き康煕帝は制する。更に康煕22(1683)年には三藩に呼応した台湾鄭氏勢力を制圧して南明勢力を根絶した。康煕帝即位当初の難題解決はブンブタイ太皇太后の策を容れたためと言われるが具体的にはよく分からない。
 康煕26(1687)年にブンブタイ太皇太后は病没。卒年74才(数えで75才)。北京郊外にある清東陵にある順治帝の陵墓、孝陵近くに葬られた。

 《満文老檔》では削られている各后妃の名前が《旧満洲檔》には残っているらしいviiので、本稿では孝荘文皇后の本名についてはブンブタイ説を採用しました。これは他の五妃についても同様デス。
 清初の人物の中では、ヌルハチの代にホンタイジに嫁入りし、順治を生み、康煕を養育すると言う、確かに清初を通覧するにはもってこいの狂言廻しデス。皇后再嫁は有名なロマンスなので、同じく明末清初の女性である陳圓圓柳如是秦良玉よりは大河ドラマにしやすいと思います。ただ、皇后再嫁について…宣和堂の個人的な見解としては、ドルゴンの名誉回復は乾隆年間に入ってからで、ドルゴンの政敵が失脚した後も試みられなかったあたりから、少なくとも莊妃はドルゴンの排斥にある程度関わっていたんじゃないかと思ってます。ドルゴンに失脚させられたホーゲ順治13(1656)年に名誉回復されていることから、少なくともオボイが失脚したあたりで名誉回復しても良さそうなもんですが、そんなコトはなかったみたいですし。
 勿論、ドラマの玉児のモデル。ちなみに孝荘文皇后の本名を玉児とか大玉児とするドラマはかなりある様子ですが、根拠と起源はよく分からない模様。多分、戯曲などでは無くドラマ起源では無いかと。

孝荘文皇后 ブンブタイ

孝荘文皇后 ブンブタイ

スマラ姑(蘇嘛喇姑)
 万暦43(1615)年、モンゴル・ホルチン部で生まれる?スマラは袋の意味らしい。は敬称。お袋様?
 ブンブタイの輿入れに付き従って、ムクデン・ホトン(興京=現在の瀋陽)に移住。終生ブンブタイに付き従い独身を貫く。モンゴルマンジュの文字、文学に通じ順治帝康煕帝の教育を担ったという。また、清初の宮廷衣装をデザインしたとも言う。…要するによく分からない人。《清史稿》には記事は無いモノの《嘯亭續録viiiによく分からないことばかり書いてある。康煕44(1705)年、九十才まで生きたというが、年に一度しか風呂に入らなかったとかその風呂の水を啜ったとか良く分からない記事がさも長寿の秘訣みたいに載っている。ネットでは終生薬を飲まなかったとか、ブンブタイ死後に康煕帝の十二阿哥・胤祹の養育を任されたと言う記事もあるが、ソースがよく分からない。

 長生きなので、ブンブタイよりも狂言廻しに向いている気はします。なんかシャーマンみたいだし好き放題出来る使い勝手の良いキャラクターですよね…。
 ドラマの蘇瑪(スマ)のモデル。他のドラマでも蘇嘛喇姑に近いけど違う名前になることが多い模様デス。

スマラ姑

スマラ姑

孝端文皇后⇒本名:ジェレ(Jere 哲哲)ix
 万暦28(1600)年、モンゴル・ホルチン部マングス・ベイレ(Manggūs Beile 莽古斯貝勒、莽古思貝勒)xの娘として生まれる。万暦42(1614)年、14才で22才のホンタイジアンバ・フジン(大福晋、嫡福普)として嫁ぐ。
 天命10(1625)年2月に13才の姪であるブンブタイホルチン部から嫁いでくる。同年8月、長女・マカタ・ゲゲ(Makata Gege 馬喀塔格格)xi固倫温莊長公主(ホンタイジの次女)を出産。更に天聰2(1628)年、二女。固倫靖端長公主(ホンタイジの三女)を出産。次いで天聰8(1634)年、三女・固倫永安長公主(ホンタイジの八女)を出産。
 崇寧元(1102)年、ホンタイジの二次即位に際して、グルン・イ・エジェン・フジン(gurun i ejen fujin)すなわち皇后に封じられ、清寧中宮妃(dulimbai genggiyen elhe booi gunrun i ejen fujin)に封じられる。
 ホンタイジ崩御後、順治元(1644)年に順治帝が即位し、皇太后と尊称される。
 順治6(1649)年、逝世。享年51才。ムクデン・ホトン郊外のホンタイジの陵墓・昭陵に葬られた。

 ってあれ?北京じゃ無くてムクデン・ホトンにずっと居たの?と思ったのですが、中央研究院のサイトで検索かけたら違った模様。

順治六年四月,太宗皇后博爾濟吉特氏崩,梓宮奉安宮中,正殿設几筵,建丹旐門外右旁。首親王訖騎都尉,公主、福晉、命婦咸集。世祖率眾成服,初祭、大祭、繹祭、月祭、百日 等祭,與大喪禮同。七年,上尊諡曰孝端文皇后,葬昭陵。xii

 梓宮は奉安宮…ってあれ寿皇殿じゃないのか!順治帝初め皇族も葬儀に参列しているようですし、順治帝も本紀を確認するに北京から離れた様子も無いので、多分北京に居たんでしょうが…。ともかく、策略に長けた正婦人…っていう記述は正史には無いですねぇ…。あそこまで極端な人でも無かったと思います。

敏恵恭和元妃⇒本名:ハイランジュ(Hairanju 海蘭珠)xiii
 万暦37(1609)年、モンゴルホルチン部の首領・ジャイサン・ノヤンの娘として出生。つまり、孝端文皇后ジェレの姪にして孝荘文皇后ブンブタイの姉。
 天聰8(1634)年、26才の時にホンタイジの後宮に入り、叔母であるジェレ、妹であるブンブタイの後輩フジンとなる…。この時代にしては遅い輿入れなので、結婚していたモノと思われるが前夫についての情報は無い。
 崇徳元(1636)年、ホンタイジの二次即位に際して関雎宮(東宮)宸妃(dergi hūwaliyasun doronggo booi hanciki amba fujin)に封じられる。アンバ・フジンであったジェレはともかく9年も前に嫁いでいる妹のブンブタイよりも上位に封じられている。
 崇徳2(1637)年、男児を出産する(ホンタイジの第八子)。ホンタイジは出産を記念して大赦を布告するが、これは立太子の際の恒例行事である。しかし、翌崇徳3(1638)年、この男児は名前を授かる前に夭折する。そして、崇徳6(1641)年には宸妃ハイランジュも逝去する。
 ホンタイジハイランジュが病に倒れた時には外征中であったが、すぐさまムクデン・ホトンに引き返した。しかし、ハイランジュの死に目には会えなかった。ハイランジュを失ったホンタイジは悲嘆に暮れたという…。

 正史にもホンタイジはこの女性を失って取り乱す様が記録されています。

上慟甚,一日忽迷惘,自午至酉始瘥,乃悔曰:「天生朕為撫世安民,豈為一婦人哉?朕不能自持,天地祖宗特示譴也。」上仍悲悼不已。諸王大臣請出獵, 遂獵蒲河。還過妃墓,復大慟。妃母和碩賢妃來弔,上命內大臣掖輿臨妃墓。郡王阿達 禮、輔國公扎哈納當妃喪作樂,皆坐奪爵。xiv

 正史にしてはロマンチックな記述から(八つ当たりも含めて)、ホンタイジに深く愛されたのはハイランジュなのではないか?という根拠となっていて、このドラマでもホンタイジの本命と言うコトになっています。ホントの所はホンタイジの生前にジェレブンブタイが逝去しなかったので、個人的には何とも言えないンじゃ無いかとは思うモノ、ホンタイジにとってハイランジュは特別な女性だったのでは無いか?と思わせます。
 遅すぎる輿入れもホンタイジの恋慕からではないか?という想像の余地があり、前夫から奪ったと解釈もできなくはないです。でも、やっぱり名族の子女だけに前夫が死亡したので…というのが、無難な解釈ではありますが。まぁ、それに卓林もドラマのオリキャラですし…。生まれが卑しいとかドラマの中では言われていますが、同じ父親ですからあんなに差別的な扱いを受けたとは思えません。孝荘文皇后と腹違いの姉妹だったとか言う記録はないですが、仮にそうであっても姉妹仲悪くはなかったでしょうし、義理の母親と殺し合いする程仲が悪かったとも思えません。それに、嫁ぎ先でいがみ合うくらいなら元々ホルチン部からノコノコやってきたりしないでしょうし…。無粋なこと言ってますねw
 ともあれ、輿入れにはいささか疑問点はあるものの、流石にあんなに権謀術策に富んだ人物では無かったと思います。

敏恵恭和元妃 ハイランジュ

敏恵恭和元妃 ハイランジュ

義皇后
 ドルゴンアンバ・フジンボルジギット氏出身だが、ブンブタイとの関係は不明。《清史稿》でもドルゴン死後の記述で一カ所、尊号を追送される記述しか無い。と思ってたら、《満洲実録》8巻によると、天命9(1624)年5月にホルチン部桑噶爾寨台吉が娘を送ってきたので、ヌルハチドルゴンに嫁がせた旨記述がある。

天命九年(中略)二十八日科爾沁部桑噶爾寨台吉送女來 帝設宴與皇子多爾袞台吉為妃xv

 桑噶爾寨台吉は《満洲実録》6巻にミンガンの息子とあるのでxviブンブタイの従兄弟の娘がドルゴンアンバ・フジンと言うコトになるxvii。ちなみに、百度では万暦38(1610)年生まれで、天命9(1624)年に数え15才でドルゴンに嫁いだとある。ドルゴン万暦40(1612)年の生まれなので2才姉さん女房で、ブンブタイよりも3才年上になる。順治6(1649)年12月、逝去。享年40才。ドルゴンはこの女性の死後、私的に敬孝忠恭元妃という諡号を贈っている。翌順治7(1650)年にドルゴンが死去して、成宗義皇帝と追尊されると、この女性も義皇后と追尊され太廟に合祀され、更に翌順治8(1651)年にドルゴンが罪に問われて宗籍を剥奪されると、太廟から義皇后の位牌も取りさらわれた。この女性が小玉児のモデル?
 しかし、史料に残るだけでも十人居たドルゴンの妻妾でも半分の五人がボルジギット氏の出身なので特定できない。他に元ホーゲフジンだった女性はホルチン部索諾布タイジの娘でブンブタイの族妹とされているので小玉児のモデル?と言われればそうかも知れない。

 本名はどちらのフジンも不明。ドラマでよく出て来る小玉児という名前もブンブタイの異名・玉児大玉児からの連想でしか無いデス。と言うコトで、ほぼ架空の人物ってことでいいんすかねぇ…。まぁ、清初モンゴルからお嫁さん連れてきまくってますから、こう言うドラマがあったんじゃないか?って言うのは想像できますけど、当時はそれ普通でしたしねぇ…。

追記(2014/04/22)
懿靖大貴妃⇒本名:ナム・ジュン(Nam Jung 娜木鍾)xviii
 アバガ部(Abaga 阿霸垓)のドルジ・エチケ・ノヤン(Dorji Ecike Noyan 多爾濟額斉格諾顔)の娘。リンダン・ハーンに嫁して竇土門福金となるxix天聰8(1634)年にリンダン・ハーンが病没し、遺族は翌天聰9(1635)年、アイシン・グルンホンタイジに摂取され、ナム・ジュンホンタイジフジンとなった模様。崇徳元(1636)年に麟趾宮(西宮)貴妃(warigi da goshin i booi wesihum amba fujin)に封じられた。崇徳6(1641)年には男児・ボンボゴル(Bomubogor 博穆博果爾)xx(ホンタイジの第十一子)を出産する。康煕13(1674)年逝去。連れ子が二人居た模様ですが、政略結婚に使われたりチャハル部の間接統治に使われたりしたモノの優遇はされたみたいです模様。
 ネットの記事と『明清史論考』ではナム・ジュンリンダン・ハーンの妃の誰に比定するかについては意見が分かれているようだが、この項では松村説を取ってナム・ジュンリンダン・ハーン竇土門福金に比定した。
 この辺は流石に蛇足かなぁ…と思って触れていなかったのですが、ドラマに娜木鍾として出てきたのであわてて追加。覆面かぶってホンタイジに襲いかかったり、軽功使ってドルゴンと追いかけっこしたという記事は残っていません。ましてや、アグラはオリキャラですから、不倫してたとか言う記録もないです。発覚したらそもそも名前残ってないかも知れませんが。

康惠淑妃⇒本名:バトマ・ゾー(Batma Dzoo 巴特瑪璪)xxi
 アバガ部ボディサイ・チュルフ・タブナン(Bodisai Cūhur Tabunang 博第塞楚祜爾塔布囊)xxiiの娘。リンダン・ハーンに嫁して、ニャンニャン(Niyangniyang 囊囊)太后xxiiiに封じられた。
 天聰8(1634)年にリンダン・ハーンが病没した後、ダイシャンに配されるハズであったが、バトマ・ゾーオルドに財産が無いことから婚姻を拒否し、周囲の勧めがあって天聰9(1635)年にホンタイジフジンとなった…らしいxxiv衍慶宮(次東宮)淑妃(dergi ashan i urgun i booi ijiasuūn fujin)に封じられた。モンゴル人の養女…と言うコトになっているが、おそらくはリンダン・ハーンとの間の娘をドルゴンに嫁がせている。懿靖大貴妃ナム・ジュンよりも早く無くなったらしい。
 ネットではバトマ・ゾーの方がリンダン・ハーン竇土門福金としてますが、先の項と同じく松村説を取ってニャンニャン太后に比定した。

 と言うコトでホンタイジの五人の正妃の最後の人物。ドラマにはおそらく出てこないとんじゃ…と思ったら出てきましたね…。娜木鍾の妹・翡翠のモデルですね。そう言えばこの人どこに行ったんでしたっけ?w

  1. 松村潤『明清史論考』山川出版社 「清太宗の后妃」P.202及び三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.191 [戻る]
  2. 松村潤『明清史論考』山川出版社 「清太宗の后妃」P.202 [戻る]
  3. 松村潤『明清史論考』山川出版社 「清太宗の后妃」P.202 [戻る]
  4. 松村潤『明清史論考』山川出版社 「清太宗の后妃」P.202 [戻る]
  5. ホンタイジの二次即位に際しては、5人の妃が正式に冊立されているが、ブンブタイは麟趾宮(西宮)貴妃・ナム・ジュン、衍慶宮(次東宮)淑妃・バトマ・ゾーよりも位階は下だった。 [戻る]
  6. アジゲ、ドルゴン、ドド兄弟は両白旗を掌握し、両紅旗の旗王・ダイシャンはホンタイジ長子ホーゲを推し、ホンタイジ直属の正黄旗の旧勲・ソニン、鑲黄旗の旧勲・オボイはフリン推した。両藍旗のジルガランの支持は不明。ホンタイジ没後は旗王や旧勲などの思惑が錯綜していたことは伺い知れる。 [戻る]
  7. 松村潤『明清史論考』山川出版「清太宗の后妃」P.213 [戻る]
  8. 昭槤《嘯亭續録》巻四〈蘇嘛喇姑〉 [戻る]
  9. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.200及び三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.191 [戻る]
  10. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.200 [戻る]
  11. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.200 [戻る]
  12. 《清史稿》巻九十二 志六十七 禮十一 凶禮一 皇后喪儀 [戻る]
  13. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.203及び三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.191 [戻る]
  14. 《清史稿》巻二百十四 列傳一 后妃 太宗敏惠恭和元妃 [戻る]
  15. 《満洲実録》巻8 [戻る]
  16. 科爾沁桑噶爾寨【明安貝勒子也】 [戻る]
  17. このほかにも百度の成宗義皇帝の項には《睿親王家譜》に基づくとしてドルゴンの6人のフジンについて紹介している。これによると第五フジンはチャハル部の出身でドドの継フジンと姉妹とある。 [戻る]
  18. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.203及び三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.191 [戻る]
  19. リンダン・ハーンの息子・エジェンの死後、順治8(1651)年にチャハル親王を継いだ阿布奈もナム・ジュンの生子という。康煕8(1669)年には康煕帝に参内しなかったことを理由に親王位を剥奪され、ムクデン・ホトンに幽閉される。 [戻る]
  20. 後のホショ襄昭親王 [戻る]
  21. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.205及び三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.191 [戻る]
  22. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.205 [戻る]
  23. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.205 [戻る]
  24. 松村潤『明清史論考』「清太宗の后妃」P.206 [戻る]

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