アキナとサスヘ;追記2

 と言うワケで、《愛新覚羅宗譜》や王佩環《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》遼寧民族出版社 と言った史料に目を通してみたので、再度追記という形でアキナサスヘネタをもう一度…。


 まず、《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》で引用されていた、《黑圖檔》の該当箇所を見てみましょう。

“……neneme akina gebu halarade geren wang ambasa genefi ududu mudan sorgire jakade teni gebu araha……”i
漢訳:“……先前阿其那改名字时,因诸王大臣前去数次催促,才改了名”。ii

 やはり前段の引用はこの本からのようですね。一字一句差が無かったです。まぁ、どうもこの本のマンジュ語標記にはちょっと疑問が残るので何とも言えんのですが…。

hoso i unenggi cin wang tomohonggo cin wang benjihe bitehede dergi hese be gingguleme dahara jalin huwaliyasun tob i duici aniya sunja biya i juwan duin de yun tang yun tang ni juse i gebu be balai araha jedzi be geren wang ambasa tuwafi wecimbuhede yineku inenggi hulame dosimbufi hese wasimbnhangge gulu lamun i gusai amban cudzung de bitehe unifi yun tang ni gebu be dasame afabuki seme wesimbuhebi……te cudzngiii de bitehe unggihe seme baitaku yun tang yun tang ni jusei gebu halara babe unenggi cin wang tomobonggo cin wang sede afabufi halame arakini sehebe gingguleme dahafi meni juwe nofi yun tang de halame alaha gebu seshe. elei ahungga jui de araha gebu fusihuniv, jaci jui de araha gebu fecuhun、 ilaci jui de araha gebu ebiyathav、 duici jui de araha gebu dimedevi、 sunjaci jui ge araha debu hairan、 ningguci jui de araha gebu dungki、 nadaci jui de araha gebu dusihiyen、 jakuci jui de araha gebu eihun. erei jalin harangga gusade ulame bitehe yabubureo sehembi.vii
漢訳:据和硕诚亲王恒亲王来文称:”为钦遵上谕事。雍正四年五月十四日,胡乱写允禟允禟子名字折子诸王大臣看过后具奏时,本日奉召,降旨:著行文正蓝旗大臣楚宗,命将允禟名字重写等因具奏……今毋庸行文楚宗允禟允禟子名改写之处,交诚亲王恒亲王改写。钦此钦遵。我们两个将允禟名改写色思和(汉文写作塞思黒)。其长子改名为复西浑(下贱的)、二子改名佛楚浑(卑賤的)、三子改名乌比雅逹(可恶的)、四子改名额依黙徳(讨人嫌的)、五子改名海兰(可惜了的,大约就是弘晹)、六子改名栋启(懒惰的)、七子改名杜希宪(糊涂人)、八子改名额依浑(愚蠢的)。为此转咨该管之旗施行等语。”viii

訳:ホショ・ウネンギ・チンワン(和碩誠親王=三阿哥・允祉)とトモホンゴ・チンワン(和碩恒親王=五阿哥・允祺)は「聖旨によって参上した(欽遵上諭事)。雍正四年五月十四日、允禟と允禟の子供達の名前を妄りに公文書(折子)で使用されている。諸王大臣はこの状態を看過できぬので改善を奏上し、陛下の本日聖旨が降った。正藍旗大臣楚宗(チュズン?)が奏上した通りに、允禟の名前を再度改名させるように命じた。………さて、楚宗は通常全く役立たずとはいえ、允禟と允禟の子供達の改名はここですべきだなので、誠親王と恒親王が代わる代わるやってきて改名させて聖旨に従った。我々二名(誠親王と恒親王)が允禟の名前をサスヘと変えさせました。また、その長子はフシフン、二子はフチュフン、三子はウビヤダ、四子はエイメデ、五子はハイラン、六子はドゥンキ、七子はドゥシヒイェン、八子はエイフンと改名させました。」

 と言うワケで、九阿哥の子供達に関する《黑圖檔》の記事が抜き出されていたので、引用されている全文を取りあえず上げてみたんですが…。どうも記述に間違いがあるような気がプンプンしますね…。以前調べたサイトでは九阿哥の八子に付けられた変な名前は全員マンジュ語として意味をなす単語でしたけど、漢文の音訳とみても差異があるので、どこかで転写間違いがあったみたいですね…。この辺は専門の方の意見が聴いてみたいです。ちなみに訳文も辞書では今ひとつ分からなかったので、マンジュ語からの直訳ではないのです…。悔しい…。

(雍正四年三月丙辰)先是、宗人府奏、允禩、允禟、蘇努、吳爾占等。既已削出宗籍。應將伊等本身、及其子孫、俱撤去黃帶。更改舊名。歸並各該旗各佐領。其有品級之女。一並銷去品級。奉上日允行。至是、正藍旗都統音德等、將允禩允禟等、更名編入佐領事、定議奏聞。得上日。爾等乘便行文楚宗。將允禟之名、並伊子孫之名、著伊自身書寫。告知楚宗。令楚宗報於爾旗。允禩之名。及允禩之子之名。亦著允禩自身書寫。編入佐領。ix

 で、このあたりのことは《世宗憲皇帝実録》ではこんな感じデスね。日付違うので何とも言えませんが、やっぱり楚宗(ズチュン)という人物がなんか係わってそうなんですが、よーわかりません。

第八子 允禩 一子⇒康煕二十年辛酉二月初十日未時生母良妃衛氏内管領阿布鼐之女(中略)嫡妻郭絡羅氏和碩額駙明尚之女妾張氏張之碧之女妾毛氏毛二格之女
 第一子 弘旺⇒康煕四十七年戊子正月初五日寅時生庶母張氏張之碧之女(中略)嫡妻舒穆祿氏倫布之女妾茂怡氏馬爾泰之女妾完顔氏四格之女妾榮氏榮禧之女x

 ネットで検索すると、八阿哥嫡フジン・ゴロロ氏多羅饒餘郡王・アバタイの第四子・和碩安親王・ヨロ(Yolo 岳樂)の七女で明尚に嫁いだ和碩格格(ホショゲゲ)の娘さんだったようですね。だから安親王家雍正帝に徹底的に弾圧を受けたんですな…。ちなみに八阿哥の王府である廉親王府の所在推定地は安親王府の所在推定地と隣同士でしたから、距離的にも近かったので近しい関係だったんでしょうか…。まぁ、少なくとも雍正帝の目から見たらそうだったんでしょうねぇ…。

(雍正)四年正月,上御西暖閣,召諸王大臣暴允禩罪狀,略曰:「當時允禩希冀非望,欲沽忠孝之名,而事事傷聖祖之心。二阿哥坐廢,聖祖命朕與允禩在京辦事,凡有啟奏,皆蒙御批,由允禩藏貯。嗣問允禩,則曰:『前值皇考怒,恐不測,故焚燬筆札,御批亦納其中。』此允禩親向朕言者。聖祖升遐,朕念允禩夙有才幹,冀其痛改其非,為國家出力,令其總理事務, 加封親王,推心置腹。三年以來,宗人府及諸大臣劾議,什伯累積,朕百端容忍,乃允禩 詭譎陰邪,狂妄悖亂,包藏禍心,日益加甚。朕令宗人府訊問何得將皇考御批焚燬,允禩改言:『抱病昏昧,誤行燒毀。』及朕面質之,公然設誓,詛及一家。允禩自絕於天,自絕於祖宗,自絕於朕,斷不可留於宗姓之內,為我朝之玷!謹述皇考諭,遵先朝削籍離宗之典,革去允禩黃帶子,以儆凶邪,為萬世子孫鑒戒。」並命逐其福晉還外家。xi
(雍正四年正月)戊戌,集廷臣宣詔罪狀皇八弟胤禩,易親王為民王,褫黃帶,絕屬籍,革其婦烏雅氏福晉,逐回母家,復革民王,拘禁宗人府,敕令易名名曰阿其那,名其子弘旺曰菩薩保。甲寅,削隆科多職,仍令赴鄂羅斯議界。xii

 しかし、《清史稿》では八阿哥嫡福晋烏雅氏なんですよねぇ…。まぁ《玉牒》ベースの《愛新覚羅宗譜》の方が信用度は高いとは思うんですけど、何か意味のある差なんですかねぇ…。

第九子 允禟 八子⇒康煕二十二年癸亥八月二十七日子時生母宜妃郭絡羅氏佐領三官保之女(中略)嫡妻棟鄂氏七十之女妾劉氏劉大之女妾之兆氏瑪納吧之女妾郎氏郎圖之女妾周氏周大之女妾完顔氏王逹之女妾朱氏朱大之女妾佟氏佟大之女妾陳氏陳大之女xiii
 第一子 散秩大臣 弘晟⇒康煕四十五年丙戌十一月初八日戌時生庶母劉氏劉大之女乾隆四十三年正月授散秩大臣本年十一月受内大臣四十七年十二月封不入八分輔國公四十八年六月因事革去公爵本月授散秩大臣四十九年十一月奉旨仍著在散秩大臣行走(中略)嫡妻納喇氏尚書盛安之女妾楊氏楊大之女xiv
 第二子 弘曋⇒康煕四十八年己丑二月十九日丑時生庶母劉氏劉大之女(中略)嫡妻郭絡羅氏根特宜之女xv
 第三子 弘相⇒康煕四十九年庚寅正月廿二日丑時生庶母兆氏瑪納吧之女(中略)妾張氏張六之女xvi
 第四子 弘曠⇒康煕五十年辛卯十一月初六日卯時生庶母郎氏郎圖之女(後略)xvii
 第五子 三等侍衛 弘鼎⇒康煕五十年辛卯十一月初十日戌時生庶母完顔氏王逹之女乾隆四十三年閏六月授三等侍衛(中略)嫡妻巴林訥穆氏察吧爾總管拉布坦之女繼妻兆佳氏騎都尉唐古圖之女妾劉氏巴郎之女xviii
 第六子 棟喜⇒康煕五十八年己亥六月初八日丑時生庶母朱氏朱大之女(中略)嫡妻彭佳氏索柱之女xix
 第七子 四保⇒康煕五十八年己亥九月十四日未時生庶母周氏周大之女康煕六十一年九月奉旨過繼與尼雅哈爲嗣xx
 第八子 都錫欣⇒康煕五十九年庚子十一月初四日丑時生庶母劉氏劉大之女(中略)嫡妻白佳氏女妾馬氏馬榮之女xxi

 ちなみに酷い名前に改名させられた九阿哥の子供達ですが、《愛新覚羅宗譜》ではこんな感じデス。第五子・弘鼎までは、ちゃんとのつく文字みたいな名前が付いてますね。よく見ると、だったりだったりしますけど。しかしまぁ、何というか…八阿哥は割とお妾さん少なめで慎ましい生活してたのかなとは思うんですが、九阿哥は随分又派手に九人も奥さんいたいんですね…。尚且つ嫡福晋にはお子さんなしという状態だったようです。第四子・弘曠と第五子・弘鼎なんて四日違いで生まれてますし、なんというか凄いですね…。
 ともあれ、長子・弘晟散秩大臣、五子・弘鼎は三等侍衛と、いずれも乾隆年間の事ですが官位には即いているんですね。あと、気になるのは第七子・四保ですが、どうやら康煕61(1722)年……つまり、康煕帝の崩御の年に養子に出されてたみたいなんですよね。康煕帝崩御は康煕61年11月なので、6月に養子に出されていたのなら康煕帝の生前の話と言うコトになるんですが…。今回、尼雅哈という人物については調べが付かなかったんですが、養子に出されても罪は免れ得なかった…とすると、養子先も累に及んだってことなんでしょうね…。

  1. 王佩環《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》遼寧民族出版社 P.284より《黑圖檔》雍正四年部来檔 巻242 [戻る]
  2. 王佩環《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》遼寧民族出版社 P.284 [戻る]
  3. cudzung? [戻る]
  4. Fusihūnか? [戻る]
  5. Ubiyadaか? [戻る]
  6. Eimedeか? [戻る]
  7. 王佩環《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》遼寧民族出版社 P.285~286より《黑圖檔》雍正四年部来檔 巻242 [戻る]
  8. 王佩環《一個登上龍廷的民族──滿族社會與宮廷》遼寧民族出版社 P.286 [戻る]
  9. 《世宗憲皇帝實錄》卷四十二 [戻る]
  10. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.770~771 [戻る]
  11. 《清史稿》卷二百二十 列傳七 諸王六 聖祖諸子 [戻る]
  12. 《清史稿》卷九 本紀九 世宗 [戻る]
  13. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.777~778 [戻る]
  14. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.778 [戻る]
  15. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.787 [戻る]
  16. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.789 [戻る]
  17. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.789 [戻る]
  18. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.789~790 [戻る]
  19. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.794 [戻る]
  20. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.799 [戻る]
  21. 《愛新覚羅宗譜》甲冊P.799 [戻る]

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