満文老檔と満文原檔

 さて、自分でよくこんがらがるので作表して誤魔化す感じのポストです。
 《満文老檔》は内藤湖南が明治38(1905)年に当時の奉天崇謨閣で発見した満文の史料です。これを奉天檔と言いますけど、ザックリ言うと太祖ヌルハチと太宗ホンタイジの事績が書かれた史料ですね。で、後の研究でこれが《太祖武皇帝実録》、《太宗文皇帝実録》の元ネタであったことが分かっています。
 で、その後、民国20(1931)年に故宮博物院文獻館が清朝内閣大庫を整理した際に同様の形態の檔案が見つかります。これが北京檔です。で、その翌月、同じ内閣大庫からこの《満文老檔》の元ネタと思われる檔冊37冊が発見され、さらにその四年後、民国24(1935)年にはこの檔冊と同じ様式の別檔冊3冊が発見されました。この合計40冊の檔冊が《満文原檔》…もしくは《旧滿洲檔》と称されている清朝最古の記録文章群と言うことになるかと思います。で、これが瀋陽で発見された奉天檔と、故宮で発見された北京檔と、更にその中で有圏点滿洲文字で書かれた有圏点檔子と無圏点檔子があるという…なんだかこんがらがってきましたから、『清代文書資料の研究』の巻末を元にまとめてみました。


編纂編纂開始記述巻数書名保管場所影印出版備考
満文原檔満文i40冊ii臺北国立故宮博物院《旧滿洲檔》國立故宮博物院、《満文原檔》國立故宮博物院
満文老檔乾隆重鈔乾隆40iii満文(無圏点文字)180巻tongki fuka akū hergen i dangse北京本⇒中国第一歴史档案館、奉天本⇒遼寧省档案館iv中国第一歴史档案館 編《満文老檔》遼寧民族出版社北京本(楷書本、草書本)、奉天本(楷書本)v
満文(有圏点文字)180巻tongki fuka sindaha hergen i dangse北京本(楷書本、草書本)、奉天本(楷書本)vi

 で、《満文原檔》は乾隆年間に《満文老檔》が整理された際に、千字文の字号が振られた…というのは知っていたのですが、実際にどういう字号にどういう内容が記されていたのかまでは知らなかったので、『淸太祖實錄の研究』にまとまっていた表をほぼそのまままとめてみました。
字號料紙圏點記事年代
1荒字高麗紙無圏點萬暦35年3月~天命4年3月
2昃字萬暦43年6月~天命5年9月
3張字明公文紙天命6年2月~天命7年3月
4來字天命6年7月~天命6年11月
5辰字天命7年3月~天命7年6月
6列字天命8年正月~天命8年5月
7冬字高麗紙崇徳元年9月~崇徳元年12月
8盈字明公文紙天命8年6月~天命8年7月
9寒字天命9年正月~天命9年6月
高麗紙
10収字加圏點天命10年正月~天命10年11月
11黄字無圏點天命11年5月
12宙字明公文紙天命6年12月~天命11年8月
13附1高麗紙天命9年正月、3月、天命11年7、8月
14洪字明公文紙無年月(萬暦38年ムクン・タタン表を含む)
高麗紙加圏點
15蔵字明公文紙無圏點天命8年(投降漢官勅書)
16往字太宗朝無年月(八旗官員勅書・誓文)
17宿字太宗朝無年月(八旗官員誓文)
18露字高麗紙太宗朝無年月
19致字明公文紙太宗朝無年月(八旗官員誓文)
20無編號(断片貼り混ぜ)
高麗紙
21天字天聰元年正月~天聰元年12月
22歳字天聰2年正月~天聰2年4月
23閏字天聰2年正月~天聰2年12月
24陽字天聰3年正月~天聰3年閏4月
25秋字天聰3年10月~天聰3年12月
26調字天聰4年正月~天聰4年5月
27月字天聰4年3月~天聰4年4月
28雨字天聰4年2月~天聰4年5月
29雲字天聰4年3月~天聰4年4月
30騰字天聰4年3月~天聰4年5月
31呂字天聰4年4月~天聰4年6月
32暑字天聰5年正月~天聰5年7月、11月、12月
33餘字天聰5年7月~天聰5年9月
34律字天聰5年10月
35成字天聰3年10月~天聰5年閏11月
36地字天聰6年正月~天聰6年4月
加圏點
37附2無圏點天聰6年正月~天聰6年4月
加圏點
38附3天聰9年正月~天聰9年8月
39日字天聰10年正月~崇徳元年8月
40宇字崇徳元年9月~崇徳元年12月

 千字文冒頭の

天地玄黃 宇宙洪荒 日月盈昃 辰宿列張 寒來暑往 秋收冬藏 閏餘成歲 律呂調陽 雲騰致雨 露結為霜

天から露までの37文字が先に発見された檔冊に振られています。”玄”字は康熙帝の諱”玄燁”を避けていますが、欠番ではなく20番無編號がそれに当たるはずです。附1~3は後から発見された檔冊で、装丁は同じ仕様だったようですが、字號は振られていません。何故この3冊が別管理とされたのかもよく分かってはいないようです。

 『淸太祖實錄の研究』には

以下これらの檔册を字號によらず年代順に表示する。vii

と書かれてますが、一部年代順じゃないんですがこれは…。特に7番冬字冊は明らかに下の方にないといけないはずはのに何故そこに居る…とか、40番宇字冊と年代丸かぶりなんですが流石にこれは何らかのメモミスかなんかでは…と、ちょっと唸ってしまいますが、自分は《満文原檔》の影印本すら確認していないので、これについては確認しないと何ともですね。
 で、《満文老檔》180巻自体は一応編年体というか、年代順に並んでいるわけで(参照⇒満文老档の時代)、年代が重なっている檔冊が多い《満文原檔》をそのまま並べても順序などにどうしても編纂意図が出ます。
 また、《満文原檔》は無圏点滿洲文字で記されている箇所もあれば、天聰6(1632)年以降の記事は、有圏点滿洲文字が多くなります。また一覧表を見ると分かるように、天聰6年以前の記録…ヌルハチの天命年間の記事にも有圏点滿洲文字が使われている箇所もあります。これを《満文老檔》では一律有圏点滿洲文字に改めたり、一律無圏点滿洲文字に改めたりしているわけです。当時は辞典がないと無圏点滿洲文字を理解できないくらいに馴染みがなかったワケですから、《満文老檔》が《満文原檔》を忠実に整理した編纂物…と言うわけではないことがこの事からも分かるかと思います(実際に添削を行ったことは《満文原檔》の記述からも指摘されています)。
 しかも、《満文老檔》自体も、実録の原史料として乾隆年間に重鈔されているわけで、決して実録の否定を目的にはしていないようなんですよね。まぁ、そもそもこの字號の順番に何の意味があったのかとか、あとから見つかった3冊に字號が振られなかったのは何故なのかとか、内国史院檔として保管されている档案群とどういった関係があるのかなど、まだ自分も理解が追いついていない部分はあるんですけどねぇ。ともあれ、今回は自分ですっきりしない部分をまとめてみました。

参考文献:
加藤直人『清代文書資料の研究』汲古書院
庄声『帝国を創った言語政策─ダイチン・グルン初期の言語政策と文化─』京都大学学術出版会
松村潤『淸太祖實錄の研究』東北アジア文獻研究會

  1. ~天聰6年:無圏点文字 天聰6年~:加圏点文字、一部漢文⇒『淸太祖實錄の研究』P.28~29 [戻る]
  2. 民國20(1931)年発見分37冊(乾隆年間に表装され、《千字文》順に字号が「天」~「露」まで振られている(「玄」は康熙帝の諱を避けて使用されていない [戻る]
  3. 1775 [戻る]
  4. 『淸太祖實錄の研究』P.27 [戻る]
  5. 『帝国を創った言語政策』P.309 [戻る]
  6. 『帝国を創った言語政策』P.309 ちなみに内藤湖南が奉天宮殿崇謨閣で発見したのは有圏点満文老檔楷書本で、この本の影印が取られ東洋文庫で和訳されている。 [戻る]
  7. 『淸太祖實錄の研究』P.28 [戻る]

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