順治元年、清朝北京に入る─昭顕世子の見た北京2

と言うわけで、前回に続いて朝鮮世子・昭顕世子日記の北京滞在部分です。今回は後半部分ですね。
宣和堂の節操のない日記
と言うわけで、前回に続いて朝鮮世子・昭顕世子日記の北京滞在部分です。今回は後半部分ですね。
時間が空きましたが、《昭顕瀋陽日記》の続きです。いよいよ清軍とともに北京に入城した朝鮮世子・昭顕世子一行がどのような生活を送っていたのか見ていきましょう。
と、ここで昭顕世子一行の山海関から北京までの行程を追う前にドルゴンが余裕綽々で李自成を迎え撃ったとする根拠となったと思われる記事をちょっと見てみましょう。
度々出している《明季北略》からです。 Read more
所定の目的は達成しましたが、折角なので続けて山海関の戦いのあたりを訳していきます。と言うわけで、山海関の戦いの当日です。
前回と同じく、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでて引っかかった部分のネタです。
まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i
ドルゴンが以逸待労の計で李自成をコテンパンにしたことになってますが、本当にそうだっけ?と言うお話です。