アキナとサスヘ;追記1

 と言うワケで、前回ネタにしたアキナサスヘですが、ネットを検索し続けてたら、わりと色々あったのでお蔵出しをば。

雍正上台后把「八阿哥、九阿哥」改名为「阿其那、塞斯黑」,这两个名字是什么意思?

 これは、どうやら中国版の知恵袋とか小町みたいなページですかね。マンジュ熱が凄く熱い人の回答が常軌を逸していて勉強になります。内容については多分下に挙げてる様な論文がソースと言うコトになるかと思います。独自に辞書や上奏文などから画像も貼り付けていますし、読み応え有りますね。

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アキナとサスヘ

 さて、いよいよ《歩歩驚心》の再放送もクライマックスで、八阿哥の命運も風前の灯火です。で、このあたりで出て来るアキナサスヘという八阿哥九阿哥の別名ですが、宮崎市定の『雍正帝 中国の独裁君主』中公文庫ではこうなっています。

──あいつはもう皇族ではない。一介の平民だ。皇族と間違えられそうな名前を持っていては他の兄弟が迷惑する。なんと名前をつけかえたらいいか、本人に聞いてまいれ。
使者がこの旨を取りつぐと、八阿哥は平気な顔をして、ただ一言答えた。
──犬。
──よし犬になれ。
 雍正帝は即座に八阿哥を犬にしてしまった。満洲語で犬のことをアキナという。これから朝廷では八阿哥の名をよんではならなくなって、いつもアキナと称した。i

 雍正帝の命によって宮内省は九阿哥から皇族の身分を剥奪することを決めた。皇族ではなくなると改名せねばならぬ。どんな名前がつけられたいかと聞きにやったが、九阿哥の原案が雍正帝の気に入らない。
──豚にせい。
 九阿哥は豚と名をつけかえられた。九阿哥は身体が丸々と肥えていたのだ。満洲語で豚のことをサスヘという。以後、九阿哥はサスヘが戸籍上の名になった。ii

 と、このように、アキナサスヘとなっています。しかし、宣和堂は異常な程の犬好きであった雍正帝がはたして殺す程憎い八阿哥なんて名前付けるのかしら?と、ずっと違和感がありました。それに、動物の名前を人名に付けるのはマンジュではそう珍しくはありません(例えばドルゴン Dorgonはアナグマの意)。と思って、阿其那塞思黒で検索したら面白記事が出てきました…。
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  1. 宮崎市定『雍正帝 中国の独裁君主』中公文庫 P.43~44 [戻る]
  2. 宮崎市定『雍正帝 中国の独裁君主』中公文庫 P.48~49 [戻る]

九王奪嫡のマンジュ封号

 さて、辮髪乙女ゲードラマこと《歩歩驚心(邦題:宮廷女官・若曦(ジャクギ))》の再放送をツラツラ見てました。何のかんのやっぱ面白いですよねぇ。自分は主人公の若曦にはあんまり感情移入出来ないんですが、まぁ、乙女ゲードラマなので、この人は阿哥たちを描くための狂言廻しですしねぇ。てか、マンジュなので本来ルォシィとでも呼ぶべきでしょうけど、この時代だとどうですかねぇ…。元々漢字を想定した名前は漢字のママで良いのかなとも思います。ともあれ、このドラマは史料読んだだけではさして魅力的とも思えない多羅敦郡王胤䄉はじめ他の阿哥たちを魅力的に描いてますよね…。確かに十阿哥は愚かかも知れないけど、案外気持ちの良い奴だったのかも知れないなどとはこのドラマ見るまで思いもしませんでしたというか、さして印象強かったわけでもないですしw

 と言うワケで、今回は九王+α達の名前のマンジュ語読みとマンジュ語の封号を調べて見ました。
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喀喇城と避暑山荘

 さて、今回はドルゴン終焉の地、喀喇城について。順治7(1650)7月には病床に伏せて死期まで悟ったドルゴンが何故かこの年の11月に狩猟に出かけます。出かけた先の喀喇城で逝去します。

(順治七年)十一月,復獵於 邊外。十二月,薨於喀喇城,年三十九。i
十二月戊子,攝政和碩睿親王多爾袞薨於喀喇城ii

 ところでこの喀喇城って何処なんでしょう。邊外と書かれているからには長城より外だと考えていいんでしょうけど。と、ココで遡って同年7月の記事を見てみましょう。

(順治七年七月)乙卯,攝政王多爾袞議建邊城避暑,加派直隸、山西、浙江、山東、江南、河南、湖廣、江西、陝西九省錢糧二百五十萬兩有奇。iii

 ドルゴンが病床にあった7月に、避暑のために邊外に拠点を建設するために直隸山西浙江山東江南河南湖広江西陝西に課税したとありますね。病身をおしての狩猟も避暑地の選定のためだと考えて良さそうです。で、何のための避暑地かというと、モンゴル政策を重視したドルゴンですからおそらくモンゴル王公の懐柔のためでしょう。終焉の地である喀喇城がその候補地であった可能性は高いと考えられます。

(順治八年二月)辛卯,罷邊外築城之役,加派錢糧准抵八年正賦,官吏捐輸酌給議敘併免之。iv
(順治八年二月)辛卯。諭戶部。邊外築城避暑、甚屬無用。且加派錢糧、民尤苦累。此工程著即停止。其因築城加派錢糧、朕本欲將已徵者發還百姓。v

 で、この避暑拠点建設に対して順治帝…というかポストドルゴン政権とでも言うべき、ジルガラン孝荘文皇后順治帝の連合政権は否定的だったようで、ドルゴンの死後2ヶ月ですぐさま避暑拠点の建設の中止を命令しています。

(順治八年五月)丁亥。上駐蹕喀喇城vi

 それでも、同年5月には順治帝喀喇城に行幸しています。しかし、順治帝喀喇城に赴いたのは後にも先にもこれっきりですね。実際まだまだ南明政権が頑張ってますし、漢土がマダマダ疲弊してる時期に避暑拠点を作るのは現実的ではなかったのかも知れないですね。ドルゴンが避暑拠点の建設を急いだのも死期を悟ったからでしょうし、ドルゴンが居なくなった以上避暑拠点の建設を急ぐ必要は無くなったとみるべきでしょう。
 で、これで避暑拠点が頓挫してしまったのかというとそうではありません。

(康熙十六年九月)丙申。(中略)鎮國公烏忒巴喇、弓矢駕還至喀喇和屯南駐蹕。vii
(康熙十六年九月)丙申,次喀拉河屯viii

 で、時代変わって康煕16(1677)年になると康煕帝が狩猟に喀喇和屯を訪れています。この喀喇和屯って何処なんでしょう?って所ですが、ナンのコトはない、喀喇城のことですね。そもそもがモンゴル語のQara Hoton=黒き城を中途半端に漢語に訳すかそのままモンゴル語の音訳で通すかの違いです。喀拉河屯も同音なので気にすることはないです。なので、これから後はハラ・ホトンで通します。

(康煕四十年十二月。)癸亥。上行圍。射殪一虎。是日、駐蹕喀喇和屯ix

 で、いつ頃かは不明ですがこの頃にはハラ・ホトンに避暑拠点が出来ていたようです。課税されたとか建設されたとか実録にも本紀にも記事は無いのですが康煕16(1677)~康煕40(1701)年の間に建設されていたようです。この辺ザッと調べただけでは分かりませんでした。

康熙四十二年,建避暑山莊於熱河,歲巡幸焉。x

 で、かの有名な避暑拠点である承徳避暑山荘康煕42(1703)年に建設が始まります。ハラ・ホトンがテストケースとして避暑山荘の参考になった事は間違い無いでしょう。なぜ、ハラ・ホトンの拡張という方向に構想が進まなかったのかは謎ですが。

雍正初,遣京兵八百赴熱河之哈喇河屯三處創墾,設總管各官。xi
西南:沽河自獨石口廳入,與湯河、紅土峪、馮家峪、黃崖口、水峪、白道峪、大水峪諸河並入密雲。其西雁溪河入懷柔。有喀喇河屯、王家營、常山峪、 兩間房、巴克什營五行宮。邊牆東首漢兒嶺,西訖幵連口。 喀喇河屯、大店子、三道梁、馬圈子、紅旗、呼什哈、喇嘛洞七鎮。xii乾隆三年(中略)四百駐喀喇河屯xiii

 で、その後ハラ・ホトンはお払い箱になったのかというとそうでも無いようで、雍正年間には駐留兵の規定も決められたようですし、乾隆年間にも駐留兵がいたことは記録があります。拠点的な意味は避暑山荘に譲ったのでしょうが、避暑山荘近辺の中核都市としてその後も存在した様ですね。

熱河所屬總管(中略)千總、委署千總分駐兩間房、巴克什營、長山峪、王家營、喀喇河屯、釣魚臺、黃土坎、中關、十八里臺、汰波洛河屯、張三營、吉爾哈郎園。xiv

 で、なんでハラ・ホトン承徳避暑山荘の近くにあったと断定するかというと、まぁ、ハラ・ホトン承徳と同じく熱河省の管轄だからです。熱河省には他にも波洛河屯ポロ・ホトンという行宮もあったようですね。流石康煕年間お金のかけ方が違う感じデス。

 つまるところ、ドルゴン終焉の地は承徳避暑山荘にほど近い場所で、一度は順治帝に否定はされたものの、避暑拠点を建設してモンゴル諸侯の懐柔のために活用する…というドルゴンの悲願は康煕年間に実を結ぶわけです。モンゴル政策重視はなにもドルゴンの専売特許ではありませんが、避暑山荘建設のアイデア自体はドルゴンが始めて建義したアイデアであったと言うコトです。

 そう言えば、入関前は山海関を重視したダイチンが入関後は古北口を重視するようになるのはまぁ、地理的状況とマンジュの故地よりも対モンゴル政策を重視したことってコトになるんでしょうね。

  1. 《清史稿》卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞 [戻る]
  2. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  3. 清史稿卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  4. 清史稿卷五 本紀五 世祖本紀二 順治八年 [戻る]
  5. 順治実録巻五十三 順治八年二月 [戻る]
  6. 順治実録巻五十七 順治八年五月 [戻る]
  7. 康煕実録卷之六十九 [戻る]
  8. 清史稿卷六 本紀六 聖祖本紀一 康煕十六年 [戻る]
  9. 康煕実録卷之一百六 [戻る]
  10. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  11. 清史稿卷一百二十 志九十五 食貨一 田制 [戻る]
  12. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  13. 清史稿卷一百三十 志一百五 兵一 [戻る]
  14. 清史稿卷一百十八 志九十三 職官五內務府 [戻る]
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