三上

 学生時代に授業中に恩師が語ったトピックの中で、とりわけ印象に残っているのが歐陽脩の三上という話。アイデアを練るときには、鞍上枕上厠上…つまり、移動中、就寝前、トイレの中がよろしい…というのが印象に残っていたのだけど、出典が分からずモヤモヤして十数年…。今日思い立って検索してみました。

錢思公雖生長於富貴,而少所嗜好。在西洛時,嘗語僚屬曰:「平生惟好讀書。坐則讀經史,臥則讀小說,上廁則閱小辭,蓋未嘗頃刻釋卷也。」
謝希深亦言:「宋公垂同在史院,每走廁,必挾書以往,諷誦之聲琅然聞於遠近,其篤學如此。」
余因謂希深曰:「余平生所作文章,多在三上,乃馬上、枕上、廁上也。」蓋惟此尤可以屬思爾。 1

 鞍上だと思ってたのは馬上だった模様。あと錢思公呉越王族の末裔である銭惟演の事ですね。元になった文章をざらっと見るに、便所に本を持ち込んで…と言うのは今日的な感覚で言うとあまりお行儀がよろしくないと思うモノの、どうやら勉強熱心だなぁ…という文脈で語られている模様。トイレに本を持ち込むのと、トイレで文章を練るのは同列で語れないと思うんですけど…。でも、モノを考えるのは移動中、就寝前、トイレの中というのは何となく理解できます。
 ネット上ですらこの文章について、余平生所作文章だったり余生平所作文章だったり引用もまちまちだったりするあたり混乱しました。そもそも、全文上げてるところ自体が少なかったですしね。
 また同じ《歸田録》にこんな記事も…。

契丹阿保機當唐末五代時最盛。開平中屡遣使聘梁。梁亦遣人報聘。今世傳李琪金門集有賜契丹詔。乃爲阿布機。當時書詔不應有誤。而自五代以來。見於他書者皆爲阿保機。雖今契丹之人。自謂之阿保機。亦不應有失。又有趙志忠者。本華人也。自幼陷虜。爲人明敏。在虜中舉進士。至顯官。既而脱身歸國。能述虜中君臣世次山川風物甚詳。又云。阿保機虜人實謂之阿保謹。未知孰是。此聖人愼於傳疑也。 2

 まあ、契丹の音を無理矢理漢語に直しているのだから、阿保機だろうが阿布機だろうが阿保謹だろうがそう変わりが無い気もしますが、なんだかこだわってますねぇ…。

  1. 歐陽脩《歸田録》巻二
  2. 歐陽脩《歸田録》巻二

NHKドラマ 蒼穹の昴 第二回 母と子

 と言うワケで第二回です。ドラマ版では春児玲玲が孤児になってて、梁文秀の実の母に育てられたので、なんだか義兄弟になりましたという改変にポカーン。春雷にいちゃん…いないことになっちゃったよ…。

 と言うコトで今回は前回話が出た光緒帝の親政へ向けて、垂廉聴政から訓政に移る過程…ですね。
 大清…というかダイチン・グルンは早くから漢化されて、乾隆年間頃には満洲人漢人とほとんど変わらなかった!とか言われがちですが、それこそがダイチン・グルンが腐心して支配下の漢人に植え付けた”中国”イメージによるモノです。満漢合壁勅旨なども、満文漢文と同じ事が書かれているだけだ!なんて思われがちですが、最近のマンジュ語研究ではマンジュ語の文章の方がより詳細で、具体的な内容であることが分かってきているようです。このドラマが言うように、漢人を信じるな!的な事はほんとにあったみたいなんですよね。

《清史図典 第十一冊 光緒 宣統朝 上》紫禁城出版 P.6

《清史図典 第十一冊 光緒 宣統朝 上》紫禁城出版 P.6

 実際、清朝は歴代、科挙制は残されて、漢人にも相当な権力があったように誤解しますが、あんまり軍事権や行政権の大権は漢人には貸与されていませんし、満洲人八旗以外の漢人と婚通することも無かったようなので、通常考えられているよりもずっと漢化していなかったりするようです(実は、新中国になってから満人…とされているのは、満洲八旗はもちろん、漢人八旗、蒙古八旗を含む旗人だったりする。旗人間では通婚が盛んで生活様式も旗人様式と言えるモノだった模様。なので、遺伝的には漢人の血は入っている)。
 本当の意味でダイチン・グルン漢化したのは実は慈嬉太后西太后)の頃だったのではないか?と個人的には思っています。慈嬉太后は治世の前期こそ、恭親王奕訢をはじめとする満洲貴族を頼ったモノの、清末の国難に対して軍事の大権を曾国藩李鴻章左宗棠などの漢人官僚に与えました。光緒帝戊戌変法の際には康有為梁啓超漢人に頼りました。劇中に出てくる栄禄満洲人ですが、やはり実力的には李鴻章らと比較すると、ちょっと見劣りするのが事実…。
 最終的には宣統帝溥儀満洲人蔑視…と言っても良いくらいの不信感に繋がっていくわけです。実は国父摂政王 醇親王載灃が組閣した、清末満洲貴族の内閣は、満洲復古の目から見れば、いつ裏切るか分からない漢人の手から、信用のおける満洲貴族に大権を戻す試みだったわけです。結局、その試み自体は辛亥革命で頓挫するわけで、時期をわきまえないお坊ちゃんの誇大妄想だの、民情を顧みない暴挙だのと後世からは言われるワケです。漢化からダイチン・グルンを復活させるため…と考えれば、非難されるべき施策ではないんですが、ちょっとやり方は拙かったんでしょうね。結局、醇親王・載灃はあんまり良いところを見せることなく、一度は追放した袁世凱に頼って、結局はダイチン・グルンを滅亡させたワケですから、よく言われることはないんですけどね…。
 ちなみにこのドラマに出てくる、光緒帝の父親である醇親王・奕譞はもちろん、宣統帝・溥儀の父親である醇親王・載灃の父親でもあります。光緒帝醇親王・載灃は兄弟ですから…。
 と、ドラマの関係ない系図漢化の話するくらいですから、あんまり大した感銘を受ける回ではなかったと言うコトです。安徳海は実在の人物ですが、慈嬉太后の不興を買って処刑されたわけではなく、同治年間慈嬉太后の助命嘆願を無視されて、官僚に処刑された太監なんですけどねぇ…。
 あ、あと珍妃は新しいモノ好きで、紫禁城に最初にカメラを持ち込んだのは珍妃だとも言われています。コスプレして光緒帝とのツーショットを宦官に撮らせたとも言われていますが、現像された写真の実物はありません。光緒帝の肖像も写真のモノは残念ながらありません。なので、もっとも有名な朝服図でも貼っておきます。