黄馬掛その2

 先日、珍しく過去に書いた記事黄馬掛にコメントをいただきました。

馬掛けの下の着ている裾の長い衣服は片方に継ぎ目がある使用なのでしょうか??

 うん?継ぎ目?なんだろそれ…とコメントだけ読んでも全く理解出来ませんで、とりあえず当該記事の当該画像を確認して見ました。

《李鴻章克復蘇州戦図・李鴻章像》(部分)i

 うお、今まで全く気がつかなかったけど、ホンマに右膝の辺りにツギハギあるやん!確かになんやこれ!絵だけでは何なので、写真を見てみましょう…。

黄馬掛を着た醇親王・奕譞(中)と李鴻章(右)、善慶(左)。ii


 手元にあった写真集をパラパラ見たところ、やっぱり右膝の辺りにツギハギがありますね。おおマジか…。
親王

馬上の醇親王・奕譞iii


 モデルが醇親王奕譞にバトンタッチしてますが、やはり右膝のあたりにツギハギが見えます。絵画だけの問題じゃ内容ですねこりゃ…。白黒写真で見るとかなり黒く写ってますが、Wikipediaの李鴻章の項を見ても写真では黄馬掛は黒っぽく映るようです。

 で、とりあえず官僚の服装を確認する時にはやはり《大清會典》ではないかと検索掛けてみたんですが、黄馬掛で検索してもヒットせず…。それならと、取りあえず李鴻章と時代が近いだろう光緒版の《大清會典圖》をペラペラ捲ってみたところ…ありましたよ。右膝にツギハギのある服。

皇帝行袍圖 光緒《欽定大清會典圖》巻75 冠服19 平服 行服

 こ、これや~!行服はどうも狩猟用の服みたいですね。木蘭行圍とかフォーマルな狩猟で着る服ってことですかね。ふむふむ。ついでに隣にあるキャプションを見るとこんな感じです。

皇帝行袍。制如常服袍。長減十之一。右裾短一尺。色及花丈随所御。緜袷紗裘惟其時。iv

 長袍の長さ一割減で右裾が一尺短くしてるよ、と確かに書いてますね。少なくとも、黄馬掛の下に着る長袍皇帝行袍をモデルにしていることは間違いないようです。なんですが、ちょっと問題も…。

皇帝行掛色用石青長與座齊袖長及肘緜袷紗裘惟其時。v

 行袍の上に羽織る行掛石青色を使うと書いてますね…。石青色は検索すると、黒みがかった藍色とのことで、少なくとも黄色ではなさそうです。まじか…。
 ちなみにこの光緒版《大清會典圖》の挿絵も、調べてみると元絵は《皇朝禮器圖式》にあるようです。編纂責任者は莊親王允祿で序文の日付は乾隆辛卯とありますので、乾隆36(1771)年成書ですかね。ということで、乾隆年間には行服はすでに規定されていたようです。ついでなんで皇帝行褂皇帝行袍の説明文を上げておきましょう。

皇帝行褂謹按本朝定制
皇帝行褂色用石青長與坐齊袖長及肘棉袷紗裘各惟其時

皇帝行袍謹按本朝定制
皇帝行袍制如常服袍長減十之一右裾短一尺色及花文隨所御棉袷紗裘各惟其時vi

 まぁほぼほぼ《大清會典圖》の説明はこれの引き写しですね。挿絵も全く同じです。ですが、行掛の色からすると、皇帝行服黄馬掛は直接イコールではなさそうですね…。ムムム。

 黄馬掛の色については行き詰まったので、漢語版Wikipediaの黄馬掛の項を見てみると、黄馬掛にも三種類あると書いてあります。曰く①行職褂子、②行圍褂子、③武功褂子と。ザッと内容読んでみると、①行職褂子皇帝が出御する際に側近である内大臣御前大臣御前侍衛がお供する際に着たユニフォーム的な衣装。②行圍褂子は狩猟の際に腕前が特に素晴らしい参加者に下賜されるトロフィー的な衣装。③武功褂子は特に著しい功績を挙げた者を顕彰する意味で下賜された勲章的な衣装…ということで、道光咸豐以降は武功を上げた者に下賜されることが多かったと言いますから、曾國藩左宗棠李鴻章の絵画に描かれた黄馬掛はこれに当たるでしょう。百度の黄馬掛の記事読むと、これに加えて④特使特赐として外交特使として派遣される官員に下賜されたともありますね。③との差異を定義するのは難しそうですが、Wikipediaの李鴻章の項にある写真光緒22(1896)年のロシアニコライ2世戴冠式出席時のヨーロッパ外遊のものでしょうから、それに当たりますかね。
 ただ、この辺り根拠となる史料が提示されていないので不安になってきました。この辺りまことしやかなこと書いてて小説みたいな記事多いんですよね…。

 でも、どうにも黄馬掛と言う単語が出てこないので、名称自体は後世の通称なのかしらと思っていたら、《嘯亭續録》に記述がありました…。

黄馬褂定制
 凡領侍衛内大臣,御前大臣、侍衛,乾清門侍衛,外班侍衛,班領,護軍統領,前引十大臣,皆服黄馬褂,凡巡幸,扈從鑾輿以為觀瞻。其他文武諸臣或以大射中侯,或以宣勞中外,上特賜之,以示寵異云。vii

 ほんま、昭槤はワイが疑問に思うようなことは大抵の事書いてるんやなぁ…(呆れ)。ともあれ、嘉慶年間では侍衛内大臣侍衛大臣侍衛乾清門侍衛外班侍衛班領護軍統領前引大臣などは皆、黄馬掛を着て、巡幸の際には皇帝の輿に扈従した(見栄えの良さも考慮した模様)。その他の文武諸臣はあるいは(木蘭行圍などで)獲物を射て命中させたり、狩猟中や狩猟後の功労に対して皇帝が特に下賜したもので、殊更寵愛を示したものだと言う…と。漢語Wikipediaで言うところの①行職褂子、②行圍褂子の内容の元ネタはこれのようです。

《康熙帝出巡図》(部分)viii


 絵画をパラパラ確認していたら、《康熙南巡図》あたりは巡幸する康熙帝の周りを黄馬掛を着た侍衛たちがビッシリと固めています。巧い感じの切り取りが出来なかったので、画像は《康熙帝出巡図》ですが、基本的にはこの絵のように巡幸に黄馬掛を着て従う侍衛=ボディーガードですね。他の絵で確認しても、右膝に継ぎ目が見当たらないので、常服ベースの黄馬掛なんだと思います。

 で、《嘯亭續録》ではサラッと書いてる狩猟時の褒賞としての黄馬掛についての記述はないのかと確認していたら、これまた清代の雑学的な紹介ではよく出てくるお馴染みの《養吉齋叢録》に記事がありました。《養吉齋叢録》の巻16は木蘭行圍について書かれているのですが、その中に黄馬掛についての記事があります。

《狩猟聚餐図》(部分)ix

八旗扈從官員馬褂,各按旗色,舊制也。日久漸弛。嘉慶六年,命隨圍之都統,毋庸按照旗色;副都統未賞黃馬褂者,俱按旗色服之。x

 どうやらは嘉慶年間は木蘭行圍の際には、八旗官員は都統は所属旗に応じた色の馬掛に固執する必要はないものの、副都統黄馬掛を下賜されていないものは、己の旗に応じた色の馬掛を着るように規定されて居たようです。となると、元々は冰嬉のように八旗官員は旗に応じた色の馬掛を着ていて、都統クラスは黄馬掛を下賜されているのが当然、副都統クラスでも下賜された人間の方が多かった…と言うことなんですかね。

《塞宴四事図》(部分)xi

圍場八旗分四正四隅。相距二、三十里不等,近者距六、七里。蓋有山者,始爲圍場,山大則禽獸多,山小則禽獸少,故遠近不能一致。凡進哨行圍,每日收圍後,路中諸蒙古獻禽者,分賞黃馬褂、孔雀翎。xii

 と、ここまでは黄馬掛がどういった理由で下賜されるのかは明確ではなかったのですが、ここでは、モンゴル諸公の参加者で猛禽類を献上した者がいたので、黄馬掛孔雀羽花翎を下賜されたと明記しています。狩猟の獲物を献上することでその成績を競って、特にいい獲物を献上したものに皇帝の狩猟衣装である黄馬掛を下賜したと考えれば、日本の戦国武将が巻き狩りで家臣に陣羽織を下賜するようなもんだったのかな…と、想像をしていたんですが、絵画資料を見るに、やはり皇帝行服行掛は《大清會典圖》の記述通り黒みがかった藍色…石青色で、皇帝そば近くに仕える侍衛行服黄馬掛だという事は一目瞭然ですね。となると、モンゴル諸公など気安く会えない臣下に側近の衣装を下賜した…と言うのが切っ掛けだと考えた方がすんなりいきそうですかね。自分は滅多に外には出さない従業員のユニフォームを土産にしちゃうような…インペリアルガードなりきりセットって感じなのかなと理解しました。

《乾隆帝一箭双鹿図》xiii


 で、探してみると乾隆年間にも黄馬掛があったようで、狩猟によって下賜されたことも明記されている記事も見つけたんですが…。また、詩の註なんですよね… xiv。ちなみに乾隆年間には黄馬掛ではなく黄掛若しくは黄褶と言ったようですxv木蘭行圍のようなフォーマルな狩猟では鹿を射た功績を賞されて、主宰者である皇帝から記念品かトロフィーとして黄褶花翎が下賜されていたようです。

行圍有賞黃馬褂者,隨圍則服之。常時不得服用。xvi

 しかし、木蘭行圍で獲得した黄馬掛は狩猟所の中でだけ着用が許され、平時の着用は許されなかったようですね。内大臣侍衛行幸に扈従する際に着る黄馬掛とは着る場所が違ったと言うことですね。

《岳鍾琪画像》xvii


 とは言え、雍正年間岳鍾琪の肖像や、乾隆年間フカンガの肖像などは行服で描かれていて、岳鍾琪行掛石青色っぽく見えるので、これもしかして皇帝行服なのかなぁ…と思いますよね…。フカンガのはオレンジっぽいものの黄馬掛のようにも見えます。それぞれ右膝のあたりにツギハギがあるので、行服であることは間違いなさそうですが、それぞれ狩猟中って雰囲気でもないですし、フカンガに到ってはご自宅のオフショットみたいな感じですけど、この頃には木蘭圍場の外で黄馬掛着用禁止令はなかったんですかねぇ…。

《福康安画像》xviii


 木蘭行圍と言う行事の性格上、黄馬掛が下賜されるのはモンゴル諸公が多かったようですが、いずれにしても皇帝の御前で狩猟の腕前や功績を賞され、直々に着衣を下賜されるという行為と、禁色である黄色の着衣を許されるというのは、トロフィー的な意味ではかなり価値を有したようですね。それ故に内乱鎮圧の武勲に対して黄馬掛を下賜すると言うのも、お金の掛からない功労方法としては有効だったと言うことでしょうか。狩猟時のトロフィー程度の意味しかなかったはずの黄馬掛は最終的には外交特使の装束として相応しいと思われるくらい、フォーマルな装いとされるにまで到ったと言うことでしょうか…(なんで官服ではだめだったのかという問題もありますが)。そうこうするうちに、狩猟場以外で着ては成らないという決まりは、すっぽ抜けたようですが。

《英嬪・春貴人乗馬図》xix


 今回のことで図版探してたら結構黄馬掛が描かれた絵画を見つけたんですが、咸豐くらいになると、妃嬪に男装させるのに使うくらいには砕けた感じになってるみたいですね…。李鴻章たちと同時期になるんでしょうか…。

参考文献 サイト
漢籍リポジトリ 欽定大清會典 皇朝禮器圖式 欽定熱河志 欽定千叟宴詩
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
呉振棫《養吉齋叢録》中華書局
《清史图典》第三冊 康熙朝 上 紫禁城出版
《清史图典》第五冊 雍正朝 紫禁城出版
《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 紫禁城出版
《清史图典》第十冊 咸豊 同治朝 紫禁城出版
『地上の天宮 北京・故宮博物院展』図録

  1. 《清史图典》第十冊 咸豊 同治朝 P.44 [戻る]
  2. 《故宮珍蔵人物照片薈萃》P.59 [戻る]
  3. 《故宮珍蔵人物照片薈萃》P.57 [戻る]
  4. 光緒《欽定大清會典圖》巻75 冠服19 平服 行服 [戻る]
  5. 光緒《欽定大清會典圖》巻75 冠服19 平服 行服 [戻る]
  6. 《皇朝禮器圖式》巻13 行營冠服 [戻る]
  7. 《嘯亭續録》巻1 [戻る]
  8. 《清史图典》第三冊 康熙朝 上 P.228 [戻る]
  9. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.17 [戻る]
  10. 《養吉齋叢録》巻16 [戻る]
  11. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.23 [戻る]
  12. 《養吉齋叢録》巻16 [戻る]
  13. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.17 [戻る]
  14. 《欽定熱河志》巻114⇒御製永安莽喀元韻 于敏中 場選榆林迤右邊〈大營駐海拉蘇台䝉古語謂冇榆樹處也圍場在大營西南〉白沙紅樹景天然寳騮到處頻呼雋〈上乘寳吉騮馳射連中四鹿衆皆歡呼〉華褶頒來儼序賢〈是日䝉古王公有於御前射鹿者賜黄褶二人花翎四人以旌其能〉圍凖十三初發軔〈今嵗自永安莽喀至塔里雅圖凡十三圍場〉騎掄千二各彎弦擇肥馳進慈寧饍〈上以親射鹿遣御前侍衛馳進皇太后〉纘武承歡例萬年 [戻る]
  15. 《欽定千叟宴詩》巻2 預宴五十二人詩六十四首⇒〈克什克騰/頭等台吉〉根敦達爾扎〈年六十一〉(中略)鹿仰叶豳歌效獻豜〈臣因射鹿恩賞黄褂花翎〉已拜裳華黄褶(後略) [戻る]
  16. 《養吉齋叢録》巻16 [戻る]
  17. 《清史图典》第五冊 雍正朝 P.113 [戻る]
  18. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.107 [戻る]
  19. 『地上の天宮 北京・故宮博物院展』P.079 [戻る]

2 comments

  • 劉永華『中国古代甲冑図鑑』アスペクト、1998年、p200
    によると、

     行袍は蟒服と同じ形体と構造の武官の軍服であるが、ただ右の腿裙が下から一尺分取り外せるようになっていた。これは、馬に乗るとき裾が右足の動きを妨げないようにしたのである。日常生活で自由に着られる常服も同様の形体と構造で、ただ丈が長く右の腿裙は取り外せなかったが、有事には軍服としても使えるように作られていた。

    だそうです。

    • ご指摘ありがとうございます。
      手元にアスペクト社版がなかったので、上海古籍出版社版の刘永华《中国古代军戎服饰》を確認したら確かに記述がありますね…。この本、甲冑とか軍装メインだと思ってたら、意外とこの辺の服飾も網羅してるんですね。

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