冰嬉その3 朝鮮国冬至使の見た冰嬉1【2020/02/20追記・一部改訂】

 と言うわけでまた冰嬉の記事デス。今回調べ直した時に実録冰戯冰技まで範囲を広げて検索してみたところ、案外《朝鮮王朝実録》でヒットしました。で、中を確認したところ、《清実録》より記述が細かかったのでちょっとメモを残しておきます。

 どうやら、朝鮮から清朝には毎年年末年始ごろに冬至使(正使・副使)i北京にご機嫌伺いに赴いていたようで、割とその記事が残っています。しかし、康熙朝あたりの冬至使の主な報告内容は清朝の政治動向が中心で、朝鮮王朝で言うところの顕宗肅宗辺りまでは南明鄭氏勢力三藩の乱の動向などの政治的、軍事的な報告がメインです。まあ、この辺妥当なんですが、時代も乾隆年間後半に即位した正祖になると政治的にも落ち着いてきたのか、冬至使北京で何やってたのかという、タイムスケジュールというか式次第の内容の報告がメインになってきます。なので冬至使北京に行って何月何日に何をしていたのか?がわりと細かく残ってます。その中に、たまたま冰嬉に関する記事も残っていたという感じです。とは言え報告者によっては日毎にどこで何をやっていたのかの報告が詳細だったり、ザックリ報告期間全体の出来事を端折っていたりするので、すべてを網羅していると言うわけでもなさそうですが…。
 と言うわけでまず正祖9=1785年の報告…つまり、その前の年の年末の冰嬉の報告から見てみましょう。

○(正祖9=1785年2月)甲午(14日)。(中略)○正使李徽之、副使姜世晃狀啓言:臣等十二月初八日,到北京,住南小館。當日詣禮部,呈表咨文。同月初十日,禮部知會:“正副使以下當參十五日殿座。”云,故十三日,與書狀官李泰永,率正官等,往于鴻臚寺,行演禮。至十五日曉頭,詣闕由午門,入太和殿庭西班。卯時,皇帝陞殿,故臣等行禮退出。十八日,禮部奉旨,加賞朝鮮國王玉如意一柄、玉器二件、錦四疋、大彩四疋、閃緞四疋、漳絨四疋、紅洋氈一板、紅羽緞一板、雕漆盒四箇,蓋因表文中,有進賀表文及方物,故卽施加賞云。同月二十日,禮部再給十一月十六日奉旨,賞賜朝鮮國王仿澄心堂紙二十張、梅花玉版箋二十張、花箋二十張、花綃二十張、徽墨二十錠、湖筆二十枝、宋澄泥仿唐石渠硯一方。此乃皇帝,以臣等不日起程,嘉尙而施賞云。二十一日,皇帝於瀛臺,觀氷戲。【2022/02/20 追加】日曉頭,臣等到西華門外,暹羅使臣,序臣等之次。須臾,鑾輿出,問國王平安。臣等對曰:“平安。”臣等步隨至瀛臺邊。有頃,皇帝乘氷牀,狀如龍舟。左右牽拽,沿氷而行,氷上設紅箭門,懸紅心。使八旗兵丁,各着其方色衣,靴底着木片鐵刃,持弓箭跪氷,而仰射紅心,有若我國之騎芻。行至西苑門,因爲入闕。臣等退歸。ii

 適当な訳をつけて見るとこんな感じです。

訳:正祖9=1785年2月14日。(冬至)正使李徽之、副使姜世晃状啓(報告書)で報告をした。「臣達は(昨年)12月8日に北京に到着し、南小館に向かい、同日礼部に咨文(公文書)を提出しました。同月10日に礼部から「正使と副使以下は15日に拝謁に参上するように」と通達してきました。そのため、13日に書状官・李泰永ほか正規の官吏を鴻臚寺に連れて行き、儀式の予行演習をさせました。15日には夜明け前から午門から拝謁に向かい、太和殿内庭西班に入りました。卯時(朝6時)、皇帝陛下が昇殿するので、臣達は礼儀作法に則って退出しました。18日には礼部朝鮮国王へ玉製の如意1柄、玉器2件、錦4疋、閃緞4疋、漳絨4疋、紅洋氈1板、紅羽緞1板、雕漆盒4箇を下賜されました。表文によれば進賀表文と献上品の返礼とのことです。同月20日、礼部は11月16日付けの奉旨を持参して、倣澄心堂紙20張、梅花玉版箋20張、花箋20張、花綃20張、徽墨20錠、湖筆20枝、宋澄泥倣唐石渠硯1方を下賜されました。これは皇帝陛下が臣等は近日中に出立するので、それを賞して下賜品を送られたと言うことです。21日には皇帝陛下は瀛台冰戯を観戦しました。【2022/02/20 追加】その日の明け方、臣等は西華門外に到着しました。暹羅国の使節は臣等の下位の席次でした。少しして鑾輿(皇帝の輿)が到着して、国王殿下は息災かと問われました。臣等はそれに対して「息災でございます」とお答えしました。臣等は歩いて瀛台の岸辺まで随行しました。少しすると皇帝陛下は氷牀(大きなソリ)に乗られましたが、その牀は龍舟(皇帝専用の船)のようでした。左右から(ソリを)引かせて氷の上を進み、氷上に紅箭門(紅いゲート)を設置して、紅心(紅い的)を掛けました。八旗の兵丁に各々色鮮やかな衣服を着せて、靴底に木片や鉄刃(木製や鉄製のブレード)を着けて、弓箭を持って氷を滑り、仰向けになって紅心を射貫きました。我が國(朝鮮国)の騎芻に少し似ています。一行は西苑門にから闕(朝廷)に入りました。臣等は退出して帰りました。(後略)」

 この後ヘシェンが出てきたり中々面白い記事なんですが、これだけですでに長いんで端折ります。【2020/02/20追記】端折ったところに冰嬉の具体的な記述があるのに気がついて、こっそり訳出箇所を伸ばしました。冰嬉の記事探していたのに一番大事なところ端折っていましたわ…。絵に描かれているような冰嬉の様子が余すところなく書かれていますね。《朝鮮王朝実録》の氷戯に関する最初の記事ということと、ここまで詳細に報告されていると言うことは、少なくとも朝鮮国の使者が初めて目にする催し物だったのではないでしょうか。乾隆も末年に近くなってから外交使節への冬の儀式に組み込まれたと見た方がシックリきますかね。
 で、念のために《高宗純皇帝実録》の方を確認すると、確かに12月21日に記事があります。

○(乾隆49=1784年12月)壬寅(21日)。上幸瀛臺。○回部阿克蘇四品伯克邁瑪第敏等十二人。朝鮮國陪臣李徽之等二人。暹羅國陪臣帕史滑里那突等四人。金川木坪宣慰司中勒參納木卡。及土司土舍頭目等。三十一人。於西華門外瞻覲。命隨至瀛臺。賜茶。iii

 こっちはサラッとしているので訳はつけません。少なくとも瀛台には乾隆帝は行幸してたようですが、直接的な冰嬉の記事はありません。更に瀛台では朝鮮国だけではなく他国の使者も来てた事が記事があります。と言うことで、外交使節に見せるために冰嬉を開催したんでしょうね。国威高揚と言うよりは外交使節の慰撫を目的としていたって事でしょう。実際、絵画に残っているのも外交使節との宴会がセットになった冰嬉ですしね。

 で、《朝鮮王朝実録》には5年飛ばして再度冰嬉の記事が出てきます。

○(正祖14=1790年2月)辛未(20日)。冬至正使李性源、副使趙宗鉉馳啓言:“臣等上年十二月二十一日,皇帝設氷戲瀛沼,臣等於西華門外接駕。皇帝駐轎問:‘國王平安乎?’臣等對曰:‘平安矣。’皇帝曰:‘甚喜。’iv

 今度はサラッとしてますね。一応訳します。

訳:(正祖14=1790年2月)20日、冬至正使・李性源、副使・趙宗鉉が来て報告するには「臣等は去る12月21日に皇帝陛下が瀛沼v冰嬉を開催されたので、臣等は西華門外で拝謁しました。皇帝陛下は轎を駐めて『国王は息災か?』と問われたので、臣等は『息災です』とお答えしました。皇帝陛下は『とても喜ばしい』と言われました。」

 この記述だけでは冬至使冰嬉を見たのかは微妙ですが、遠目に冰嬉が開催されてるのを見たか、冰嬉が開催されていると人から聞いたという状況も考えづらいので、恐らくは5年前とルートは逆ですが、瀛台に同行して西華門外で謁見したんですかねぇ。と言うことで、今度も《高宗純皇帝実録》を確認して見ましょう。

○(乾隆54=1789年12月)壬申(21日)。上幸瀛臺。○回部阿克蘇三品阿奇木伯克貝子品級輔國公邁默特阿布都拉、及烏什、庫車、葉爾羌、喀什噶爾、和闐、伊犁等處伯克。朝鮮國正使李性源、副使趙宗鉉、琉球國正使向處中、副使鄒永功、暹羅國正使帕史滑里遜通亞排那赤突、副使啷喎汶悉呢喔無突、廓爾喀使臣巴拉叭都爾喀哇斯、哈哩薩野等。於西華門外瞻覲。命隨至瀛臺賜食。vi

 と、《高宗純皇帝実録》では5年前同様、西華門で謁見してから瀛台に連れて行ったように書いてますね。こうなるとどっちが正しいのかは分かりませんが、少なくとも外交使節は乾隆帝に同行して瀛台に行っているみたいですから、冬至使は実際冰嬉を観戦したようです。

 で、《朝鮮王朝実録》にはその翌年にも冰嬉の記事があります。

○(正祖15=1791年2月)壬戌(17日)。冬至正使金箕性、副使閔台爀,,以離燕狀馳聞,上遣史官勞問。(中略)
○使臣別單曰:“皇帝進使臣,親問國王安否,聞有斯男之慶,深致喜悅之意,引正、副使登御榻,親酌酒饋之,又使參觀於氷戲‧燈戲‧鰲山之戲、年終‧歲首等宴”云。vii

 この年の報告には日付も場所も記述がないんですが、この年は冰嬉と違うこともやったらしいことが記載してます。

訳:(正祖15=1791年2月)17日。冬至正使・金箕性、副使・閔台爀北京出発に際しての報告書を持参したので、国王史官を派遣して慰労した。(中略)冬至使たちは別の書状で報告するには「皇帝陛下は臣等に自ら国王殿下の安否を尋ねられました。陛下は国王殿下に祝い事があったと耳にされて深くお喜びになったとの意を伝えられ、正・副使を玉座(御榻=皇帝の長椅子、寝台)そばまで来るように命じられ、自ら臣等に酌をされました。また、臣等に冰嬉燈戯viii鰲山之戲ixを参観させられ、年末年始の宴に参加させました。」とのことであった。

 この記事には日付ないけど、多分前回同様12月21日やろ?と、何にも考えずに《高宗純皇帝実録》を確認したらやっぱり、12月21日に行われたみたいですね。

○(乾隆55=1790年12月)丁卯(21日)。上幸瀛臺。○哈薩克汗斡里素勒坦之弟多索里素勒坦、陪臣使愛濟拜等五人、杜爾伯特汗瑪克蘇爾扎布遣使普爾普等十八人、土爾扈特郡王舍稜遣使額爾奇斯等三人、朝鮮國正使光恩尉金箕性、副使禮曹判書閔台爀、暹羅國正使拍簪令思達那末蚋剎突、副使啷疏越理買抵屋八突、緬甸國大頭目便居也控等三人、於西苑門外瞻覲。x

 乾隆帝はまた瀛台に行って各国派遣の外交使節と謁見したみたいですが、その後西華門ではなく西苑門に行ったとありますね…西苑門ってどこ?と思って、乾隆までの宮殿のことならあらかた載ってる《日下舊聞考》を見てみると…やっぱり記載がありますね。

西華門之西,為西苑。榜曰西苑門,入門為太液池。xi

 西華門の西に西苑門があったようですね。場所を古都北京デジタルマップで検索したらすぐさま出てきました。というか、最初からこっちで検索すれば良かったのか…。ともあれ、GoogleMAPの航空写真見る限り現存するようですね。観光出来る場所かどうか微妙ですが。
 ともあれ、西華門外かつ西苑門外であれば結果的には同じ道に面しているんでしょうけど、この年はいつもと違う場所で謁見したって事のようです。

冰嬉圖

 だんだん意地になってきましたが、一年飛ばして正祖17=1793年にも同様の記事があります。

○(正祖17=1793年2月)乙酉(22日)。(中略)○冬至正使朴宗岳、副使徐龍輔,在燕馳啓曰:“臣等一行,去年十二月二十二日到北京。二十三日禮部知會內,奉旨:‘朕出西華門,見外國使臣,往瀛臺蘭室用早饍辦事,觀一分氷鞋。’仍進西華門,令臣等祗迎,故二十四日五更,臣等待候於西華門外,禮部尙書常靑紀昀侍郞鐵保,竝來押班。安南暹羅後藏三國使臣,亦爲參班而俱在臣等之下。後藏卽新爲納款者,而俱是喇嘛僧,以紅錦,從頭纏腰,形甚醜惡。黎明,皇帝乘黃小轎以出,到臣等祗迎處,住轎,令臣等進前問曰:‘國王平安乎?’臣等對曰:‘平安。’又問:‘世子平安乎?’對曰:‘平安’皇帝令臣等,隨入西苑門,至瀛臺,有旨賜食。禮部官引臣等,坐於勤政門內,內務府官,饋以飯卓,幷隨行正官,一一饋食。皇帝早膳後,出御龍形雪馬,觀氷戲。臣等亦隨後觀戲。xii

 面白そうなこと書いてあるので取りあえず訳します。

訳:(正祖17=1793年2月)22日。(中略)冬至正使・朴宗岳と副使徐龍輔が綴った北京からの報告書によると「臣等一行は昨年12月22日に北京に到着しました。23日に礼部が口頭にて聖旨を伝えるに『西華門から出発して外国からの使節を謁見して、瀛臺の蘭室に向かい、朝食をとって用事を済ませ、氷鞋を観賞する。』とのことだった。(その前に)西華門に行って臣等を祗迎(ただ迎える?)するとのことだったので、24日の五更(明け方5時~6時)に、臣等は西華門外で待機した。礼部尚書チャンチンxiii紀昀xiv侍郞ティエブーxvがやってきて席次の通りに並んだ。安南(ベトナム)、暹羅(シャム=タイ)、後藏(チベットのシガツェ市あたり?)の三国の使節も参上していて臣等の下位に控えていました。後藏は新たに朝貢使節を送ってきた国で、倶に連れてきたラマ僧は紅い錦を頭から腰まで纏っており、姿形が甚だ醜悪でした。夜明けに皇帝陛下は黄色の小さな轎に乗って出御され、臣等の祗迎処に到着された。轎が着くと臣等に前に進ませて「国王は息災か?」と下問されたので、臣等は「息災でございます」と答えました。また、「世子は息災か?」と問われるので、「息災でございます」と答えました。皇帝陛下は臣等に随行するよう命じられ、西苑門から入って瀛臺に来ると、食事を賜りました。礼部の官員が臣等を案内して、勤政門内に座らせました。すると、内務府の官員が飯卓を給仕し、随行した正規の官員にも各々食事が給仕されました。皇帝陛下が朝食を取り終わると、雪で馬をかたどった籠で出かけられて、冰戯を観戦されました。臣等もまた随行して観戦致しました。

 ここに来てようやくスケート靴=氷鞋が出てきてホッとしましたが、これ冰嬉氷鞋を聞き間違えたんじゃないかって感じしますね。まあ、いずれにしろ氷鞋を履いて冰嬉を行ったのを見た故の勘違いだと解釈しておきます。いつもと違って日取りが12月24日だったり(そもそも12月22日に北京に到着してるので例年と違うのでしょうが)、他国の使節と合同で拝謁した旨も記述があって興味深いです。また、冰嬉観戦が礼部主導で行われたこと、宴会…というより朝食会が内務府主導で行われたことなどが分かって興味深いです。
 で、これも《高宗純皇帝実録》に記事があるので一応挙げておきます。

○(乾隆57=1792年)戊子(24日)。上幸瀛臺。朝鮮國正使朴宗岳、副使徐龍輔等六人。安南國陪臣武永城、陳玉視等四人。暹羅國正使帕史滑理遜通亞排那赤突、副使朗喎汶悉呢霞喔撫突等四人。並廓爾喀貢使噶箕第烏達特塔巴等四人。於西苑門外瞻覲。xvi

 確かに朝鮮国が筆頭で安南国暹羅国がその下位に紹介されていますから席次的にもこうだったんでしょうね。他の記事で他国が触れられていないのは、席次がトップじゃなかったからとかですかね…。で、問題の後藏はどうやら廓爾喀グルカの事だったようですね。グルカのことを後藏と称すのが妥当かどうかちょっと判断付きませんが、意外と清朝側の記録と矛盾しません。で、西苑門で外交使節と謁見した事は記すものの、瀛台に行ったことすら端折られてますね。
 と、長くなったので一旦ここで切ります。続きは次回以降で。

参考サイト

明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫
명실록·청실록(明実録・清実録)
漢籍電子文獻資料庫
Kanripo 漢籍リポジトリ 欽定日下舊聞考
人名權威-人物傳記資料庫
ディジタル・シルクロード – 文化遺産のデジタルアーカイブ 古都北京デジタルマップ

参考文献

于敏中 等編纂《日下舊聞考》北京古籍出版

  1. 朝鮮⇒清への定期的な使節は聖節使、冬至使、遠接使、進賀使、謝恩使、天使があった模様⇒《朝鮮王朝實録》 中宗實録 卷83(中宗31=1536年)十二月辛亥条 [戻る]
  2. 《朝鮮王朝實録》正祖實録 巻19 [戻る]
  3. 《高宗純皇帝實録》巻1221 [戻る]
  4. 《朝鮮王朝實録》正祖實録 巻29 [戻る]
  5. 瀛台辺りの水辺? [戻る]
  6. 《高宗純皇帝實録》巻1345 [戻る]
  7. 《朝鮮王朝實録》正祖實録 巻32 [戻る]
  8. 元宵節に行われる灯籠による曲芸? [戻る]
  9. 年始の行事で使われる大がかりな山車のようなもの?仙郷である鰲山を模したもの?? [戻る]
  10. 《高宗純皇帝實録》巻1369 [戻る]
  11. 《欽定日下舊聞考》巻21 國朝宮室 西苑一 [戻る]
  12. 《朝鮮王朝實録》 正祖實録 巻37 [戻る]
  13. 常靑:cangcing 滿洲正藍旗人。《清史稿》の部院大臣年表5上の乾隆57年を見ると、禮部滿尚書の欄に名前がある。列伝には「(乾隆)五十四年,授禮部尚書、鑲藍旗漢軍都統。五十八年,卒,諡恭簡。」とある。⇒《清史稿》《清史稿》巻184 表24 部院大臣年表4上 及び巻328 列傳115【2020/02/20改訂】 [戻る]
  14. ご存じ乾隆年間の有名人。《清史稿》の列伝では日付が不明だが、部院大臣年表5上の乾隆57年を見ると、禮部漢尚書の欄に”劉墉 八月癸酉遷。紀昀禮部尚書。”とある。《高宗純皇帝実録》には乾隆57年8月7日の記事に「紀昀補授禮部尚書。」とある。⇒《清史稿》巻184 表24 部院大臣年表4上 及び巻320 列傳107 《高宗純皇帝実録》巻1410【2020/02/20改訂】 [戻る]
  15. 鐵保:tiyeboo 滿洲正黄旗人。《清史稿》の部院大臣年表5上の乾隆57年を見ると、禮部滿右侍郎の欄に名前がある。列伝には「(乾隆)五十四年,遷禮部侍郎,兼副都統。」とある。⇒《清史稿》巻184 表24 部院大臣年表4上 及び巻353 列傳140【2020/02/20改訂】 [戻る]
  16. 《高宗純皇帝實録》巻1419 [戻る]

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