尚食 その1明朝の殉死と莊妃のモデル

戯猿図

 と言うわけで久しぶりの記事です。緊張しますね。
 テレビで久しぶりに中華ドラマを見始めまして…《尚食(邦題:尚食(しょうしょく)~美味なる恋は紫禁城で~)》ですね。《延禧攻略(邦題:瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~)》の主要スタッフと主演キャストが再集結して撮られたドラマですね。
 まぁ、どっちかというとチャングムと延禧攻略の要素を合体させて、舞台を明朝にした…って感じですが。

 個人的には最近読んだ、馬伯庸(《三国機密》や《長安十二辰》の原作者!)『両京十五日 1: 凶兆』ハヤカワ・ミステリ と時代が近い上に、主役級の朱瞻基が出てくるところも被るので楽しみにしてたんですが、別側面過ぎて霊基が違う!となること請け合いです。自分は両京十五日の朱瞻基を許凱で見たいんですが多分だめですよな。

 と言うわけで、先日、第13集(第13話 最後の胡桃(くるみ))を見ていたら、遠征中に朱棣が客死して子供のない后妃は殉死させられる!という描写があり、流石にドラマで盛ったやろ…と検索したところ、どうやら元ネタはある模様。ネットで見た限りでは《勝朝彤史拾遺記》という明代の后妃を扱った伝記には、英宗までは代々宮女の殉死を行っていた旨書かれていますi
 朱棣の殉死者を抜き出すとこんな感じですね。

成祖以十六妃葬長陵,中有殉者。仁宗殉五妃,其餘三妃以年終,別葬金山。洪熙元年七月,宣宗追謚皇庶母貴妃郭氏,謚恭肅。淑妃王氏,謚貞惠。麗妃王氏,謚惠安。順妃譚氏,謚恭僖。充妃黃氏,謚恭靖。共郭妃、二王妃卽永樂二十二年十月所冊立者。ii

 郭貴妃、王淑妃、王麗妃、譚順妃、黄充妃の5名の名前が挙げられています。ただ、この本は《四書全書総目》でも、「載事不確,文不雅馴iii」とされているので、今ひとつ信憑性に欠けるんですよね…。
 と言うところで、このドラマで言うところの莊妃のモデルである韓麗妃の話ですね。ドラマではそう言う設定ではなかったのですが、この頃の明朝後宮では朝鮮王朝から選処女と称して、宮女を貢納させていたようで、韓麗妃もその一人だったようです。生憎、明朝の史料では出てこない人物なのですが、一級史料である《朝鮮王朝実録》に詳細な記録が残っています。と言うわけで、ここからは《朝鮮王朝実録》に沿ってみていきましょう。

 韓氏の記録が出てくるのは、太宗17=永樂15(1417)年からですが、いきなり朝鮮王朝側で催した選処女=明朝に差し出す女性を選ぶ記事からです。

(太宗17(1417)年5月)甲午(9日)選處女。命議政府、六曹、臺諫與知申事趙末生、內官盧希鳳,選揀進獻處女,以黃氏、韓氏 爲上等。黃氏容貌美麗,故副令河信之女; 韓氏嬋娟,故知淳昌郡事永矴之女也。iv

 黄氏は「美麗」とされる一方で韓氏は「嬋娟(たおやか)」とされています。この選抜があった後、いよいよ明朝の要請が正式に通達されたようです。

(太宗17(1417)年6月)丙午(22日)(中略)奏聞使閔元生回自北京啓曰:“皇帝問採女顔色之美,賞賜甚厚,乃使宦者黃儼、海壽等來逆女。”v

(太宗17(1417)年7月)丙寅(13日)太監黃儼 、少監海壽等奉勑書至。vi

 綺麗な娘を献上したら褒美をくれてやると言うのもどうかと思いますが、ともかく、太監・黄儼と少監・海壽が使者として朝鮮にやってきます。どうやら、明朝側の朝鮮担当の窓口はこの黄儼だったらしく、朝鮮王朝実録を検索するとものすごい勢いでヒットします。

(太宗17(1417)年7月)戊辰(15日)黃儼、海壽等就見黃氏於其第。vii

 朱棣のオーダーが「顔色之美、賞賜甚厚」と言うくらいなので、恐らく「容貌美麗」な黄氏が本命だったんでしょう。黄儼・海壽がワザワザ家まで訪ねてますね。韓氏には訪問していないようですが、その代わり黄儼が貂皮を求める記事がやたら出てくるので、明朝の宦官ってイメージ外れないよなぁ…という顔しちゃいました…。まぁ、あまりにステレオタイプすぎるので、ホントは疑って掛かるべきなんですが。

(太宗17(1417)年8月)己丑(6日)使臣黃儼、海壽以韓氏、黃氏還。韓氏兄副司正韓確、黃氏兄夫錄事金德章、根隨侍女各六人、火者各二人從之。路旁觀者,莫不垂涕。viii

 ともあれ、韓氏は太宗17=永樂15(1417)年に明朝からの使者・黄儼、海壽と韓氏の兄である副司正・韓確、黄氏の義兄(姉の夫)である録事・金德章と侍女それぞれ6名、火者(家内宦官?)がそれぞれ2名従って出発しました。道で見ているもので涙しないものは居なかったとされていますから、玉の輿に乗ったという感じよりは、人身御供に選ばれたと言う評価を《朝鮮王朝実録》は行っているわけですね。

 と、ここで韓氏の兄である韓確についてみてみると、こちらは明朝側の《明 太宗実録》にも名前が出てきます。

(永楽16(1418)年10月)壬寅(26日)。朝鮮國王李芳、遠遣陪臣沈溫等、貢方物謝立嗣子恩。且言年已哀老、請以嗣子祹理國事、從其請命光祿寺少卿韓確為正使、鴻臚寺丞劉泉副之賫。詔往封祹為朝鮮國王。《明 太宗實錄》卷205

 妹が明朝後宮に送られた一年後に、朝鮮側の光祿寺少卿として北京を訪問して王位継承の交渉を行っています。妹のつてで朝鮮側の交渉窓口担当の地位を確立したってことですかね。ともあれ、朝鮮側だけでなく、明朝側の史料でも確認出来る人物であることを確認しておきます。

 で、7年記事のない韓氏がようやく出てくるのが世宗6=永樂22(1424)年10月の記事です。

(世宗6(1424)年10月)戊午(17日)御便殿,宴慰赴京皇親任添年、韓確、崔得霏等。使臣言:“前後選獻韓氏等女,皆殉大行皇帝。”ix

 朱棣の弔問のために北京を訪問して帰ってきた韓確が、妹が朱棣に殉死したという報告をしているという記事ですね…。確かに韓麗妃殉死してましたわ。韓麗妃どころか朝鮮から朱棣に献上した選処女が死に絶えた、と。ここで入宮した後の韓麗妃の波瀾万丈の人生が記されますが、今回は途中すっ飛ばして、朱棣崩御の記事からです。

及帝之崩,宮人殉葬者,三十餘人,當死之日,皆餉之於庭。餉輟,俱引升堂,哭聲震殿閣。堂上置木小床,使立其上,掛繩圍於其上,以頭納其中,遂去其床,皆雉經而死。x

 殉死する人30余人と、《勝朝彤史拾遺記》に比べると殉死者の数が増えています。あと、結構みなさんが首をくくるあたりのことが事細かに書かれてますね。

韓氏臨死,顧謂金黑曰:“娘吾去!娘吾去!”語未竟,旁有宦者去床,乃與崔氏俱死。諸死者之初升堂也,仁宗親入辭訣,韓氏泣謂仁宗曰:“吾母年老,願歸本國。”仁宗許之丁寧,及韓氏旣死,仁宗欲送還金黑,宮中諸女秀才曰:“近日魚、呂之亂,曠古所無。朝鮮國大君賢,中國亞匹也。且古書有之,初佛之排布諸國也,朝鮮幾爲中華,以一小故,不得爲中華。又遼東以東,前世屬朝鮮,今若得之,中國不得抗衡必矣。如此之亂,不可使知之。”仁宗召尹鳳問曰:“欲還金黑,恐洩近日事也,如何?”鳳曰:“人各有心,奴何敢知之?”遂不送金黑,特封爲恭人。xi

 と、韓麗妃も死に臨んで金黒(省略したちょっと前の段に「乳媪金黑」とあるので、韓麗妃の乳母)を顧みながら「お母さん!私は逝きます!お母さん!」と言い終わらないうちに、宦官が台を取り去って、(韓氏は)崔氏(韓確と同行した崔得霏の親族でしょう)と一緒に死んでしまったと。殉死対象者が堂に集められた時に、韓麗妃は仁宗=朱高熾に泣きながら「私の母は年老いておりますので、本国=朝鮮に返していただけないでしょうか?」と乞われて、朱高熾はこれを許しながら、韓麗妃はすでに命を絶ってしまいました。朱高熾は代わりに韓麗妃の乳母である金黒を帰国させようとしましたが、次回の記事で触れようと思っている魚・呂の乱の子細が朝鮮国に知られれば、必ずや朝鮮との関係は悪化して国境が不安定になるに違いない、と助言するものがいたので、遂に金黒は帰国せずに特に「恭人」に封じたと。
 ドラマでは、年老いた母は北京に居ましたが、流石に纏足で老母を背負って親戚中駆けずり回るという事実はなかったようですね。
 では、金黒はどうなったかというと、それも《朝鮮王朝実録》に記事があります。

(世宗17(1435)年12月)丁卯(26日)使臣李忠‧金角‧金福等,奉勑率處女從婢九名、唱歌婢七名、執饌婢三十七名來,上迎至景福宮,受勑如儀。勑曰:婦女金黑等五十三名,久留京師,朕憫其有鄕土之思,亦有父母兄弟之望,今遣內官李忠、內史金角‧金福送回,王可悉訪其家歸之,勿令失所。李忠等就令展省畢,卽回京故勑。覽訖,仍跪聽宣傳,還降將行私禮,使臣等固請曰:“我等本國小民,安敢與殿下抗禮,請殿下向南坐,我等向北行禮。”上曰:“賓主之禮,不可如此。”使臣强之,上向東南,使臣向西北行禮訖,使臣又請:“殿下向南坐,受率來婢子等拜。”上遂向東南坐。婢子等陞月臺,其衣服首飾,皆用華制,以漢禮行八拜鞠躬低頭,斂手俯仰,狀類舞蹈,仍俯伏叩頭而降,命饋于南廊。上與使臣行茶禮,使臣歸太平館,上送至勤政門內。王世子以疾未參。迎勑各司詣太平館行私禮。李忠,永樂六年隨權氏入朝。金角,玉果人;金福,平壤人,竝永樂元年入朝。xii

 と言うわけで、韓麗妃の死後10年以上経った世宗17=宣徳10(1435)年、ようやく金黒は他の永楽年間に入宮した付き人達と共に帰国を果たします。韓麗妃の紫禁城内での消息が知れるのも、金黒が帰国した後に語ったものでしょう。金黒達53名とされる当たり、金黒はこの中でも特に有名だったんでしょうね。

金黑言:“韓氏卒後,日侍太皇太后,待遇甚厚,賜與無數。一日,白太皇太后曰:‘年老蒙恩甚厚,但欲還鄕。’太后許諾命還。仍請竝還執饌、唱歌婢,后曰:‘初不知來在也。’仍命竝還。拜辭日,后執金黑手泣別。”金黑所受誥命之辭曰:奉天承運皇帝詔曰:‘朕惟帝王致孝於親者,必受恩於其所愛。若於所愛,嘗有保育之勤者,亦推恩及之,仁之至、義之隆也。咨爾金氏,故康惠莊淑麗妃之乳母也。麗妃恭事先帝,允稱賢淑,及六御升遐,隕身以從。旣加封諡,以旌賢行。念爾昔有保育之勤,今特封爲恭人,服此光榮,欽哉無斁。’洪熙皇帝之命也。xiii

 金黒が帰国して言うには、韓麗妃が殉死した後は太皇太后(この時すでに宣徳帝は崩御しているので、多分、洪熙帝の誠孝皇后張氏)に仕えたが、待遇も良くて賜与も数多く頂いた。ある日、太皇太后に「(私も)すでに年を取り、ご恩を蒙ること甚だ厚いのは喜ばしいことですが、故郷に帰りとうございます」とお伝えしたところ、太皇太后はお許しになったと。太皇太后は金黒の手を取って別れを惜しんで泣いた。この際に、正統帝が韓麗妃に康惠莊淑麗妃と諡号を加増し、金黒を恭人に封じた詔書を受け取ったと。
 ドラマでは莊妃の侍女が阿金という名前でしたが、恐らく金黒から取ったんでしょうね。この人が韓麗妃の死後も十年北京に拘留された後に、洪熙帝の息子である宣徳帝が崩御してようやく解放されたから、韓麗妃の名前も事績も後世に残ったわけですね…。
 追記:ドラマでは阿金が貴妃孫氏の侍女になりますが、金黒はどうやら洪熙帝誠孝皇后張氏に仕えたみたいです。張氏は正統7年に亡くなってますから、問題なさそうです。

  1. 初太祖以四十六妃陪葬孝陵,其中所殉,惟宮人十數人。洪武三十一年七月,建文帝以張鳳、李衡、趙福、張弼、汪賓、孫瑞、王斌、楊忠、林良、李成、張敏、劉政由錦衣衛所試百戶、散騎、帶刀舍人進為本所千百戶,其官皆世襲。以諸人皆西宮殉葬宮人父兄,世所稱朝天女戶者也。成祖以十六妃葬長陵,中有殉者。仁宗殉五妃,其餘三妃以年終,別葬金山。洪熙元年七月,宣宗追謚皇庶母貴妃郭氏,謚恭肅。淑妃王氏,謚貞惠。麗妃王氏,謚惠安。順妃譚氏,謚恭僖。充妃黃氏,謚恭靖。共郭妃、二王妃卽永樂二十二年十月所冊立者。宣宗殉十妃。宣德十年八月,英宗追贈皇庶母惠妃何氏為貴妃,謚端靜。趙氏為賢妃,謚純靜。吳氏為惠妃,謚貞順。焦氏為淑妃,謚莊靜。曹氏為敬妃,謚莊順。徐氏為順妃,謚貞惠。袁氏為麗妃,謚恭定。諸氏為恭妃,謚貞靜。李氏為充妃,謚恭順。何氏為成妃,謚肅僖。其冊辭曰:茲委身而蹈義,隨龍馭以上賓,宜薦徽稱,用彰節行。嗣後皆無殉,自英宗始,惟景泰帝尚以唐妃殉,則天順元年事,在遺詔前。⇒毛奇齡《勝朝彤史拾遺記》巻2 [戻る]
  2. 毛奇齡《勝朝彤史拾遺記》巻2 [戻る]
  3. 《四庫全書總目》史部 卷六三 史部一九 傳記類存目五 [戻る]
  4. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷33 [戻る]
  5. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷33 [戻る]
  6. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷34 [戻る]
  7. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷34 [戻る]
  8. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷34 [戻る]
  9. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷26 [戻る]
  10. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷26 [戻る]
  11. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷26 [戻る]
  12. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷68 [戻る]
  13. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷68 [戻る]

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