日吉大社
さて、前回、東塔地区からヘロヘロになりながら帰ったところまで書きました。今回はケーブルカーで東坂本に降りてからです。今回もこの本を参考にしました。
と、本題に行く前に東坂本に降り立った際に、元三大師のお廟?の近くを通りかかりました。延暦寺横川地区には本格的なお堂があるみたいですが、誰をお祀りしているのかというと天台宗中興の祖を祀っているわけです。
皆さんご存じのように、比叡山延暦寺の開山は伝教大師・最澄です。入唐僧・最澄の尽力によって、比叡山に延暦寺が創建され、最澄の死語間もなく延暦寺に戒壇が設けられるに至ったわけですが、それだけでは中世に延暦寺が勢力を持たなかったと言われています。
こと寺院経営については、むしろ最澄よりも元三大師・良源の功績が特に強いと言われています。今でこそ元三大師って誰よ?って感じデスが、中世における魔除け厄除けと言えば角大師・良源なワケで庶民に圧倒的な人気を持っていました。立派なお坊様であったはずなのに、やせこけた鬼のように図象化された元三大師のお札を見ていると…なんだか心沸きますね。
中世に大師(ダイシ)信仰と呼ばれるムーブメントがあったわけですが、この信仰は聖徳太子や伝教大師ではなく元三大師を祀ったモノであったと言われています。もっとも三人に対する信仰が混交された状態での大師信仰だったようですが…。あと、元三大師はおみくじを考案した…と言うコトになっていますね。
この人物については、付け焼き刃の知識で自分もよく分かってないのでこちらを参照して下さい→良源 – Wikipedia
と、漸く本題です。今回は日吉大社です。
日吉大社…読み方は現在ではひよしたいしゃと読みますが、中世ではひえたいしゃと読んだみたいですね。もともと比叡山も『古事記』では日枝山(ひえのやま)と呼ばれているので、この地域一帯をひえと呼んだんでしょうね。
で、比叡山延暦寺が山の上にある寺院で、その麓にある神社が日吉大社ですから、無関係なわけが無く、むしろ中世に於いては一体というか比叡山の出先機関のような様相を呈したようです。
比叡山が朝廷に要求を通すことを強訴と言いますが(内容は大体、他の神社仏閣との利権争いであることが多い)、その際に必ず先頭を切るのが日吉大社の御神輿です。中世に於いては天皇始め公家も武士も神仏を恐れました。崇めるべき神と言うよりは畏怖すべき神なのです。
お祭りでもないのに日吉大社から御神輿が移動して入京する…というのは不動であるべき神座が移動する状態ですから、一言で言うと怪異です。異常事態です。朝廷は御神輿が京都に入ること、内裏に近づくコトを殊の外恐れ嫌ったために、比叡山の強訴を渋々聞くこと一度ではありませんでした。ちなみに下の写真は東本宮にあった御神輿です。
実は、中世に於いて神仏を恐れないのは、その信仰の中心にいたはずの神社仏閣に属する堂衆や神人と呼ばれる平民出身の人々です。かれらは時には朝廷から財貨を得るために、自ら御神輿を血で穢して棄却したそうです(絢爛豪華な御神輿の再建のために朝廷が結局は財政的な負担をせざるを得ない)。現世利益のために敢えて御神輿を穢すのですから、どこからどう見ても神をも恐れぬ行為ですね。俗人が同じコトをすると、もの凄い批判を受けるわけですが、神社仏閣に属する人が自ら行う分にはお咎めはありません。コレが中世という時代ですね。
中世の世界で一番迷信から遠かったのは、実はこれらの人だったという皮肉ですね。ちなみに御神輿は日吉大社がその発祥の地…と言います。東坂本にある日吉大社から比叡山を経由して西阪本に通じる雲母坂を下るのが、当時の御神輿強訴コースのメインストリートだったと言いますから、あの足場の悪い雲母坂をこの大きくて豪華な御神輿を背負って降りたのか!と思うと感慨深いですね。目を見張ります。
と、ちょっと順序が逆になりましたが、自分が行った当日、西本宮のあたりは何かを燃やしているのか神社が煙っていてなかなか荘厳な雰囲気でした。
さて、日吉大社が中世に於いて絶大な信仰心を持っていたというお話をもう一つ。藤田達生『秀吉神話をくつがえす』講談社現代新書 によると、講談などで織田信長にサルという愛称で呼ばれたと…されている豊臣秀吉ですが、実は信用のおける資料ではハゲネズミとは呼ばれているモノのサルとは呼ばれていなかった…と言います。むしろ、豊臣秀吉が天下を取ってから、信長公旗下にあった時には、サルと呼ばれて罵倒されたと吹聴した…まあ、事実を捏造した…っていうことでしょうかね。
何故ハゲネズミではなくサルなのか?と言うと、日吉大社の神使がサルだから…と言う説明がされています。稲荷神社の神使が狐みたいなものだと思って下さい。
秀吉は自分で天皇の御落胤説を流したように、自らの政権の正当性を補強するために、日吉大社の神威を借りたと言うコトみたいです。と言うコトで、この豪勢な門のサルこそが秀吉が権威を借りたがったサルなワケですよ。
まあ、神域にいると成る程納得の神々しさではありました。眼福。
天皇も恐れた神威ですから、当然天皇側もその神威を支配下に置きたがり、後白河天皇は新日吉神宮(いまひえじんぐう)を創建して御用神社とします…。
後白河天皇の天下三不如意に対する対策なんでしょうが、その後も相変わらず比叡山の強訴は起きていて、日吉大社の御神輿は内裏を脅かすのでその効果のほどは疑問ですね…。
比叡山に比べると全然人は少なかったんですが、ナカナカ良い感じの境内でした。東本宮では結婚式が行われてましたから、結構人はいましたが…。
あと、何故か神獣が社殿の縁側?に鎮座されていて、ソレが妙に目に着きました。ココの境内の社殿はみんなこんな感じだったんですが、何でですかね?
境内も整理されてて気分が良かったです。
日吉大社の境内のすぐ横に比叡山に抜ける無動寺谷の道は、正直逢魔が時には通りたくない感じの道でした。雰囲気満点ですね。
いや、実に充実しましてデス!また勉強して上りたい!w