金沢文庫→称名寺

 と言う次第で、昨日の続きです。本来は鎌倉で大きな行事をやっていたようなので、そこに行くべきだったんですが…まあ、京急追浜駅に辿り着いてしまった上に、残り時間にもそう余裕はなかったので、のんびり金沢文庫から称名寺に抜けるコースを選択しました。

かねさわぶんこ!

 と言うワケで、金沢文庫です。ちなみに、歴史的な読み方としては、金沢(かねさわ)流北条家が本拠である金沢郷(かねさわごう)に築いた書庫のことなので、歴史的には”かねさわぶんこ”と読みます。ただ、地名としては”かなざわぶんこ”と読むわけでややこしいんですが、北条贔屓としては、やはり”かねさわ”と読みたいですねw
 で、ここでは歴代得宗、歴代執権や歴代連書花押の入った系図などをボンヤリ見ながら、鎌倉幕府の滅亡に思いを馳せたりしましたw潔すぎるにしてもほどがあるwwwやっぱり、鎌倉幕府承久の乱蒙古襲来幕府滅亡が大きな見せ場ですからねwww

称名寺の浄土式庭園

 で、称名寺の浄土式庭園です。金沢文庫自体が称名寺の庫裏の様なモノだったので、金沢文庫称名寺のすぐ裏手にあるわけです。まあ、知名度から言うと、全然金沢文庫の方が高いわけですがw

浄土式庭園の赤橋から仁王門

 こないだ来た時は橋が修復中だったのでかなり印象違いますね。池は浅くて濁っていましたが、鯉や亀が大量にいて何故か和みました。

亀って組み体操するのね…


 見つけるまでもなく必ず視界に入る感じデス。組み体操までしてるくらいですしw

江戸時代再建の釈迦堂

 鎌倉頼朝邸と考えられる大倉幕府跡にあった頼朝持仏堂頼朝死後に法華堂としたり、北条義時持仏堂大倉薬師堂となって覚園寺の元となったりしています。この時代の寺院の一つの形態として、有力者の邸宅内に持仏堂(仏教的な建築物)が、主の死後仏教的な堂宇として使われ、時には邸宅自体が寺院として整理されると言う類例が多いので、称名寺も元は金沢流北条氏の邸宅内の持仏堂か、若しくは邸宅そのものであった可能性は高いと思います。中でも、この釈迦堂は藁葺きの正方形状の建物で、規模こそ違うモノの覚園寺薬師堂を彷彿とさせます。実に鎌倉っぽい気がします。気のせいだとは思いますがw
 気になって手元にあった松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く 源頼朝から上杉謙信まで』中公新書 パラパラ捲ったら、P.78の元亨3(1323)年に書かれた称名寺大結界絵図が載ってたんですが、この絵の中にはこんな建物見当たらないですねぇww

仁王門に三鱗

 まあ、それより何より三鱗です。流石に開基北条実時だけあって、境内にはふんだんに三鱗があしらわれています。見つける度に奇声を上げながらカメラに納め捲くりました。以下はその一部ですw

香炉にも三鱗

 実に映える…。

石仏にも三鱗

 仏様にも三鱗です。

希少価値を求めない、実に堂々たる三鱗ワールド

 屋根から降る三鱗の雨あられです。

赤門金地の三鱗

 鎌倉に出られなかったのは残念ですが、実に三鱗フルな休日を送れまして、実に満足でしたwやはり最後は赤門の表にあしらわれてる金地の三鱗ですw